始まりの時
朝の空気は張り詰めていた。
王宮内はいつもより早く目を覚まし、使用人たちが慌ただしく行き交っている。
廊下には色とりどりの花が飾られ、赤い絨毯がまっすぐに敷かれていた。
磨き上げられた床には、窓から差し込む光が反射し、今日という日がどれほど特別な日なのかを否応なく示していた。
―― 今日は婚約式。
祝福されるべき日。
本来ならば、喜びと幸福に満ちているはずの日。
けれど ――
(……違う)
リリアは私室の窓辺に立ったまま、静かに目を伏せた。
胸の奥で鼓動が速くなる。
恐怖ではない ―― 覚悟の音だった。
コンコン ――
控えめなノック音が響いた。
「どうぞ」
そう答えると扉が開く。
入ってきたのはクラウスだった。
その後ろにはメイドが控えており、クラウス自身が両手で大切そうに箱を抱えていた。
「今日のドレスだ」
静かな声だった。
「ありがとうございます」
リリアは一礼し、箱を受け取る。
そっと蓋を開けた瞬間、息を呑んだ。
「……綺麗……」
思わず声が零れた。
隊服と同じ、白と青。
柔らかな布地に、繊細な金の刺繍が施され、光を受けて静かに輝いていた。
気高く、そして強く ―― まるで彼女自身を表しているかのようだった。
メイドが無言でドレスを手に取り、
「失礼いたします」
とだけ言って着付けを始める。
背中の紐が締められ、髪が整えられ、薄く化粧が施されていく。
鏡の中の自分を見て、リリアはわずかに戸惑った。
(……私じゃないみたい)
騎士ではない。
悪女でもない。
壊れた令嬢でもない。
―― まるで特別な誰かのようだった。
すべての支度が終わるとクラウスが近づいてきた。
その手にはネックレスとイヤリングがあった。
「じっとしてろ」
リリアの背後に立ち、ネックレスをつける。
ひやりとした感触が首元に触れた。
大きな宝石。
金色に輝いていた。
その瞬間 ――
(ラルフ……)
脳裏に浮かんだのは金色の瞳。
優しく見つめてくれた時の顔。
抱きしめてくれた温もり。
胸が締めつけられた。
リリアは鏡越しにクラウスを見て ―― にこりと微笑んだ。
それは壊れた令嬢の笑みではなかった。
戦う者の笑みだった。
クラウスは一瞬優しく微笑んで答えた。
「さあ、行くぞ」
「はい」
リリアは頷いた。
これは ―― 彼女の戦闘服だった。
宰相を欺き、
未来を変えるための、
最後の装い。
王宮、大広間。
すでに多くの貴族たちが集まっていた。
笑い声。
祝福の言葉。
グラスが触れ合う音。
華やかで眩しい空間。
だが ――
「見ろよ」
「壊れた令嬢だ」
「悪女の次は壊れたのか」
「はは……自業自得じゃないか」
ひそひそと。
だがはっきり聞こえる声。
嘲笑。
侮蔑。
リリアは何も反応しなかった。
壊れた令嬢のふりをしてそこに立っていた。
その時。
「お姉ちゃん」
小さな声がし視線を落とすと、ガルムが不安そうに彼女の手を握ってきた。
温かい小さな手。
リリアは表情を変えないまま ―― わずかに指先だけで握り返した。
(大丈夫)
声には出さず、そう伝える。
ガルムは小さく頷いた。
クラウスはすでに持ち場へ向かっている。
オスカーも離れた位置にいた。
すべて ―― 予定通り。
その時、ざわめきが広がった。
空気が変わる。
人々の視線が一斉に入口へ向く。
リリアも顔を上げた。
そして ―― 息が止まった。
そこにいたのはラルフだった。
白の正装。
王族の衣装。
凛とした姿。
そして ―― 隣にはアンナ。
腕を組み、微笑んでいた。
完璧な婚約者。
祝福の拍手が響く。
「おめでとうございます!」
「お似合いです!」
笑顔。
歓声。
祝福。
すべてが現実だった。
(ラルフ……)
胸が痛む。
叫びたかった。
名を呼びたかった。
抱きつきたかった。
けれどリリアは無表情のまま、壊れた令嬢のまま、ただ見つめた。
その瞬間。
心臓が大きく跳ねた。
―― いた。
人混みの中。
一人の男。
ラルフの背後へゆっくりと近づいている。
(……あの服)
見た未来と同じ。
同じ色。
同じ動き。
同じ距離。
リリアの瞳が見開かれる。
呼吸が止まる。
そして視線だけで、オスカーへ合図を送った。
オスカーの目が鋭く動いた。
次の瞬間 ―― 男の手が服の中へ入った。
―― 来る。
運命が動きだした。




