嵐の前の静寂
昼過ぎの騎士団本部は、いつもと同じようでいてどこか張り詰めた空気に包まれていた。
オスカーは机の上に広げられた王宮の見取り図へ視線を落とし、最後の確認を行っていた。
その隣でリリアもドレス姿のまま同じ図面を見つめている。
淡い色合いの令嬢用のドレスは、騎士団の隊服とは違い、彼女をか弱く見せたが、その瞳の奥にある強さまでは隠せなかった。
やがて扉が叩かれ、ジークとノル、そしてクラウスが入ってくる。
その後ろからガルムたち獣人の子供たちも顔を覗かせた。
「全員揃ったな」
オスカーが静かに言うと、部屋の空気がさらに引き締まる。
「明日の配置を最終確認する」
落ち着いた声で告げながら、オスカーは一人ひとりへ視線を向けた。
「俺とジーク、ノルは貴族の護衛と誘導を同時に、犯人確保を優先する。クラウスは会場内の異変の察知を。爆発の兆候があれば即座に合図を」
「ああ」
クラウスは短く答えた。
「ガルム」
オスカーが名を呼ぶと白銀の狼の少年は真剣な顔で頷いた。
「お姉ちゃんのそばにいる」
「頼んだ」
その言葉にリリアは小さく微笑んだ。
「ありがとう、ガルム」
ガルムは少しだけ照れたように耳を伏せた。
沈黙の中で、ノルがぽつりと呟いた。
「とうとう、明日ですね……」
その声は、わずかに震えていた。
すぐ隣でジークが肘で軽く小突く。
「弱気になるな」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
慌てるノルを見て、リリアはふっと柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
その一言は、不思議と安心感を与える響きを持っていた。
オスカーは全員を見渡し、静かに言った。
「明日は長い一日になる。今日は早めに休め」
それが解散の合図だった。
皆が部屋を出ていく中、リリアも一礼し自分の私室へと戻った。
部屋へ入り扉を閉めた瞬間、張り詰めていた気がわずかに緩む。
今日のドレスは、一人でも脱げる作りだった。
鏡の前で背中のボタンを外しながら、リリアは小さく息を吐いた。
(……疲れた……)
身体よりも心の方が疲労していた。
シャワーを浴び、熱を纏った身体に夜気が恋しくなり、髪がまだ少し濡れたまま、カーディガンを羽織って外へ出た。
夜の空気は冷たく、肌を刺すようだった。
けれどその冷たさが逆に頭をはっきりさせてくれる。
その時だった。
「リリア」
低く聞き慣れた声に心臓が跳ね、振り返った。
そこに立っていたのは ―― ラルフだった。
「……団長……」
言葉が掠れる。
二人は、ただ見つめ合った。
何を言えばいいのか分からなかった。
言いたいことは、たくさんあるのに。
言ってはいけないことも分かっているから……
やがてリリアは優しく穏やかに微笑んだ。
「ご婚約、おめでとうございます」
胸が痛かった。
それでも笑顔を向けた。
彼の記憶の最後が、自分の泣き顔になるのだけは嫌だった。
ラルフは何も言えなかった。
リリアは一礼し、そのまま彼の横を通り過ぎた。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと戻れなくなるから。
部屋へ戻るとクラウスがいた。
「……お兄様?」
クラウスは何も言わず、ただリリアを見た。
そして濡れた髪に気づき、眉をひそめる。
「髪が濡れているじゃないか。風邪をひく」
そう言って、タオルを頭にかけた。
視界が覆われ、顔が隠れる。
その優しさに ―― リリアの肩が小さく震えた。
声を押し殺して泣いた。
クラウスは何も言わず、ただそばにいた。
やがて落ち着くと、ドライヤーで丁寧に髪を乾かし、温かいホットミルクを持ってきてくれた。
「飲め」
「……はい」
両手で受け取る。
温かさが、指先から身体へ広がっていく。
クラウスはリリアの前に膝をつき、視線を合わせる。
「リリア、よく聞け」
その声は真剣だった。
「明日は何が起きるか分からない」
リリアは黙って聞いた。
「予想と違うことが起きる可能性もある」
一瞬、言葉を止める。
「その時は自分の命を優先しろ」
「……」
リリアは小さく頷いた。
クラウスは続けた。
「お前は誰より綺麗だ。自信をもて」
リリアは目を伏せた。
(自信なんて……持てるはずがない……)
「男は団長一人じゃない。またいつか大切な人ができる」
(大切な人……)
そんな彼女の心を見透かしたように、クラウスは言った。
「それに、騎士団でお前が積み上げてきたものは嘘じゃないだろ。剣は裏切らない。俺を信じろ」
その言葉は、兄としての誓いだった。
「最悪なことは起きない」
リリアの喉が震えた。
「……頑張る……」
小さな声だった。
それでも確かな決意があった。
クラウスはリリアの頭を何度も撫でた。
やがてリリアは眠りについた。
穏やかな寝息を立てて。
クラウスはしばらくそのまま座っていた。
守るように。
そして静かに立ち上がり、部屋を後にした。
嵐は ―― すぐそこまで来ていた。




