壊れた仮面
騎士団宿舎の一室。
大きな窓から差し込む光の中で、リリアは一人椅子に腰掛けていた。
身に纏っているのは騎士の隊服ではない。
淡い色のドレス。
胸元には繊細な刺繍が施され、裾は柔らかく広がっている。
令嬢としては何もおかしくない姿だった。
だが ――
「……」
リリアは自分の膝の上で重ねた手を見つめた。
慣れない布の感触。
剣を握っていた手。
今は何も持っていない。
守る力も。
隣に立つ資格も。
(大丈夫……)
心の中で呟く。
これは演技だ。
壊れた令嬢を演じるため。
宰相を欺くため。
分かっている。
分かっているのに ―― 胸の奥の痛みは消えなかった。
コンコンと扉が叩かれた。
「ローゼン卿」
オスカーだった。
「どうぞ」
扉が開く。
彼は中に入るとドレス姿のリリアを見て、一瞬だけ微笑んだが、いつものように、護衛として自然に彼女の隣に立っていた。
「行けるか」
「はい」
リリアは立ち上がった。
裾を踏まないように気をつけながら歩く。
顔には何も浮かべなかった。
王宮の廊下は、今日も人の気配に満ちていた。
だが、その中で。
「やぁ」
聞きたくない声が響いた。
宰相だった。
オスカーの手がわずかに剣の柄にかかる。
それを横目で確認しながら、宰相は笑った。
「久しぶりだね、ローゼン卿」
値踏みするような視線。
「そういえば、ラルフ団長は婚約したそうじゃないか」
リリアの指先がわずかに震えた。
だが表情は動かさない。
動かしてはいけない。
「やはり、君は捨てられたのだね」
楽しそうに笑う。
その笑い声が胸を抉る。
だがリリアは何も言わなかった。
虚ろな目で、宰相を見つめるだけ。
壊れた令嬢のように。
宰相は満足そうに頷き
「……ふふ、実に哀れだ」
そう言って去っていった。
足音が遠ざかる。
オスカーの声が静かに落ちた。
「ローゼン卿」
優しい声だった。
「平気です」
リリアは答えた。
自分でも驚くほど感情のない声で。
そして歩き出した。
庭園に出ると空気が変わった。
暖かい陽射し。
風に揺れる木々。
鳥の声。
平和な光景。
まるで自分だけが別の世界にいるようだった。
その時 ―― 笑い声が聞こえた。
無意識に顔を上げると、見てしまった。
ラルフだった。
隣にはアンナがいた。
彼の腕に自分ではない女性の手が絡んでいる。
二人は自然に穏やかに笑っていた。
お似合いだった。
―― 本当に。
リリアの足が止まった。
時間が止まったように動けなかった。
視界が滲む。
気づいた時には、涙が頬を伝っていた。
周囲の視線が刺さる。
「……あの人が」
「壊れた令嬢だ」
「婚約者を奪われた ―― 」
囁き声が聞こえる。
だが何も感じなかった。
何も。
その時だった。
「リリアさん」
アンナだった。
いつの間にか目の前に立ち、アンナは優しく微笑んでいた。
そして ―― 耳元で囁いた。
「しっかりしなさい」
低い声だった。
令嬢ではない声。
「あなたしか、彼を救えないのよ」
リリアの目が見開かれる。
アンナはすぐに離れた。
そして周囲に聞こえるように大きなため息をついた。
「これ以上、私たちの邪魔をしないでいただきたいわ」
冷たい声。
そしてラルフの手を引いて、二人は去っていった。
残されたのは、壊れた令嬢とその護衛だけ。
オスカーが心配そうにリリアを見ていた。
その視線でリリアは我に返った。
(……違う)
今、自分がするべきことは ―― 泣くことじゃない。
守ること。
未来を変えることだ。
「副団長」
「なんだ」
「子供たちを……呼んできていただけますか」
オスカーの目が変わった。
すぐに理解した。
「分かった」
短く答えた。
オスカーの執務室。
机の上に、王宮の見取り図が広げられている。
「お姉ちゃん!」
ガルムたちが駆け寄ってきた。
リリアは微笑んだ。
「ガルム……お願いがあるの」
ガルムは真剣な顔で頷いた。
小さな手がリリアの手に重なる。
リリアは目を閉じた。
映像が流れ込んでくる。
白い衣装のラルフ。
その背後に現れる影。
手に持つ短剣。
そして ―― 爆弾。
設置場所。
柱の影。
会場の奥。
「……!……はぁ……はぁ……」
目を開けると目の前がぐらりと歪んだ。
だが、すぐに見取り図へ書き込む。
オスカーは何も言わず見ていた。
彼女の手の震えを、その覚悟を。
「……宰相だけじゃない」
リリアは呟いた。
「手下が、います」
婚約式まで、あと三日。
時間は残されていない。
その夜。
子供たちはリリアの部屋で眠らせた。
ジークとノルが護衛についていた。
オスカーの執務室。
リリアは椅子に座ったまま動かなかった。
「ローゼン卿」
オスカーが呼ぶがリリアには聞こえていなかった。
ただ、見取り図を見つめていた。
(どうすれば……)
守れるのか。
彼を。
未来を。
すべてを。
壊れた令嬢の仮面の奥で、一人の騎士が戦っていた。




