夜明けの代償
薄い光が窓の隙間から静かに差し込んでいた。
夜明けだった。
ラルフはゆっくりと目を覚ました。
まだ夢の続きを見ているような感覚の中で、腕の中にある確かな重みと温もりに気づく。
視線を落とすとリリアが眠っていた。
ラルフの胸に頬を寄せ、まるでそこが自分の居場所だと疑いもしないように、無防備な顔で眠っている。
長い睫毛。
穏やかな寝息。
柔らかな髪が彼の腕にかかっていた。
ラルフの胸が強く締めつけられる。
(……守りたい)
その想いと同時に、
(……もう守れない)
現実が容赦なく胸に落ちてくる。
彼はそっとリリアの髪に触れた。
壊れ物を扱うように優しく撫でる。
その指の感触に反応したのか、リリアの睫毛がわずかに震えた。
やがてゆっくりと瞼が開く。
ぼんやりとした視線がラルフを映した。
「……おはようございます」
小さく微笑んだ。
その笑顔があまりにも愛しくて、ラルフは思わず彼女の額に口づけた。
「おはよう」
掠れた声だった。
それ以上言葉が続かなかった。
言えば壊れてしまいそうだったから。
二人は静かに身を起こした。
言葉は少なかった。
けれどその沈黙は苦しいものではなかった。
互いの存在を最後まで刻み込むための時間だった。
身支度を整えながら、リリアは何度も自分に言い聞かせていた。
(この部屋を出たら ―― )
もう名前を呼ぶことも、触れることも許されない。
団長と騎士。
それだけの関係に戻る。
それが現実だった。
支度を終えた後、リリアはラルフの背中を見つめた。
広い背中。
ずっと追いかけてきた背中。
気づけば身体が動いていた。
背中から抱きつく。
「リリア?」
驚いた声。
リリアは答えなかった。
ただ強く抱きしめた。
離れたくない。
そう言えたら、どんなに楽だっただろう。
言えばきっとこの人は困る。
だから言わない。
ラルフは何も聞かなかった。
ただ彼女の手に自分の手を重ねた。
そして優しく撫でた。
すべてを理解していた。
その時――
コンコン、と扉が叩かれた。
二人の身体がわずかに強張る。
ラルフは一瞬、目を閉じた後
「入れ」
と告げた。
オスカーだと思っていた。
だが ――
扉を開けて入ってきたのは、アンナだった。
リリアの身体が反射的に離れる。
空気が凍った。
アンナは静かに微笑んだ。
「おはようございます。ラルフ様」
完璧な令嬢の礼。
そしてゆっくりとリリアを見る。
「やはり、こちらにいらしたのですね」
その声は低かった。
感情の見えない声だった。
「リリア様、お初にお目にかかります」
優雅にスカートを摘まみ、礼をする。
「ラルフ様の婚約者となりました、アンナ・ルエンダーと申します」
リリアは息を飲んだ。
あまりにも美しい人だった。
気品。
知性。
そして自分にはないものをすべて持っているように見えた。
(この人が……)
胸が痛んだ。
ラルフは一歩前に出てリリアを背に隠した。
「何の用だ」
静かな声だが、その奥には明確な怒りがあった。
アンナは小さくため息をついた。
「リリア様」
まっすぐ見つめる。
「席を外していただけますか」
リリアは我に返った。
「……申し訳ありません」
ここにいる資格などもうない。
そう理解していた。
扉へ向かう。
その時 ――
「リリア」
ラルフが呼んだ。
足が止まる。
振り返りそうになる。
だが振り返らなかった。
振り返れば、戻れなくなる。
アンナがすれ違いざまにリリアの耳元で囁いた。
「少しの間、お借りしますね」
「……え」
意味が分からなかった。
だが何も聞けなかった。
一礼し、部屋を出た。
扉の外にはオスカーが立っていた。
「すまない…… 止めきれなかった」
リリアは首を横に振った。
「いいんです…… 現実を見ただけですから」
声が震え涙が溢れた。
止められなかった。
オスカーは何も言わずリリアを抱き上げた。
まるで壊れ物を運ぶように。
――――――
その頃、部屋の中では ――
「リリアに何を言った」
ラルフの声は静かだった。
だが怒りを押し殺していた。
アンナは冷たい目で見返した。
「そんな目で私を見れば、彼女を愛していると言っているようなものですよ」
ラルフの拳が握られる。
「分かっている」
「本当に?」
アンナは微笑んだ。
「では婚約者としてちゃんと振る舞ってください」
そう言って、彼の腕に手を絡めた。
「これから婚約式のドレスの採寸ですわ」
扉を出た瞬間、二人は完璧な婚約者になっていた。
残されたのは役割だけだった。
――――――
オスカーの私室。
リリアはベッドに座らされていた。
涙はまだ止まらなかった。
オスカーは彼女の前に膝をついた。
同じ目線で頭を撫でる。
「……すみません」
「謝るな」
優しく言う。
「泣けるうちに、泣いておけ」
リリアは声を上げて泣いた。
すべてを吐き出すように。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて涙は止まった。
「もう大丈夫です」
オスカーは頷いた。
「なら呼んでくる」
立ち上がる。
やがて扉が開いた。
ジーク、ノル、クラウス。
クラウスは妹の顔を見た瞬間すべてを理解した。
拳を強く握りしめた。
守るべきもののために、戦いはもう止まらない。




