届かない声
騎士団本部の空気は、どこか落ち着かなかった。
原因は一つだった。
「……聞いたか?」
「ああ……団長の婚約」
「王命らしい」
「相手はルエンダー侯爵令嬢だと」
廊下の端。
訓練場の隅。
誰もが声を潜めて話していた。
その事実は騎士団全体にも広がっていた。
副団長執務机の前で、オスカーは書類に目を落としていた。
だが文字は頭に入ってこない。
「副団長」
部下の声に顔を上げる。
「……本日の報告です」
「ああ、置いておけ」
短く答え、部下が去る。
再び静寂。
オスカーはペンを置き、立ち上がる。
向かう先は決まっていた。
午前は騎士団業務。
午後は ―― 医務室。
それがここ数日のオスカーの日常になっていた。
医務室の隣室。
窓から冬の光が差し込んでいた。
そのベッドの上にリリアは座っていた。
背に枕を挟みもたれかかり、窓の外を見ている。
拘束具は外されていた。
症状が一時的に落ち着いているためだった。
だが ――
「……」
反応はない。
ノックをしてからオスカーは中に入る。
「失礼する」
返事はない。
それでも構わず歩み寄った。
ベッドの横に立ち穏やかな声で話しかける。
「今日は天気がいいな」
「……」
反応はない。
リリアの瞳はただ外を見ていた。
焦点の合わないまま。
まるで、そこにいないかのように。
オスカーの胸が締めつけられ、思わず名前を呼んだ。
「……リリア」
返事はない。
だがその瞳から涙が流れた。
静かに音もなくぽろぽろと。
「……っ」
オスカーは息を止めた。
泣いている。
なのに表情は変わらない。
感情が身体に届いていない。
その現実が何より残酷だった。
オスカーはゆっくりと手を伸ばした。
拒絶されないように。
怯えさせないように。
慎重に。
そっと抱きしめた。
「大丈夫だ。ここにいる」
耳元で優しく囁いた。
リリアの身体は抵抗しなかった。
ただ力なくそこにあった。
オスカーは彼女の頭を撫でた。
何度も。
何度も。
少しでも届くように。
―― 副団長。
リリアの心は確かにそこにあった。
(身体が……動かない)
分かっている。
抱きしめられていることも。
撫でられていることも。
全部、分かってる。
(大丈夫です、と)
言いたいのに。
(ここにいます、と)
伝えたいのに。
口も指一本も動かない。
(副団長……)
心の中で何度も呼ぶ。
(私は、ここにいます)
届かない。
声にならない。
悔しかった。
そして ―― もう一つの感情が胸を締めつけた。
(団長は……)
来ない、一度も。
あの日から、一度も。
(……忙しい、だけ……?)
違う。
分かっている。
(……婚約)
確かに聞こえていた。
意識が曖昧な中で。
誰かが話していた。
(……本当に)
捨てられたのだろうか。
胸が痛む。
(私は……)
どうすればいいのだろう。
どうすれば、伝えられるのだろう。
ここにいると。
副団長を安心させてあげたい。
でも……私が求めるのは……
(団長……)
会いたいと願った。
同じ頃。
王宮の謁見室。
重厚な扉の前にラルフは立っていた。
「ラルフ様」
従者が扉を開けると、中へ入る。
そこには王と一人の女性がいた。
「紹介しよう」
王が言う。
「ルエンダー侯爵令嬢、アンナ嬢だ」
一人の女性がゆっくりと頭を下げた。
「アンナ・ルエンダーと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
澄んだ声だった。
透き通るような白い肌。
整った顔立ち。
気品ある立ち姿。
―― 美しい人だ。
ラルフはそう思った。
ただそれだけだった。
「ラルフ・フォン・アルトシュタインです」
形式通りに名乗り、軽く頭を下げる。
それ以上の言葉は出なかった。
アンナはそんなラルフを静かに見ていた。
「……突然の話で驚かれてるでしょう」
彼女は小さく微笑んだ。
「私も同じです」
その言葉にラルフは彼女をじっと見た。
作られた笑顔ではなかった。
「……ラルフ様?」
アンナの声で現実に引き戻される。
「少し考え事を。申し訳ありません」
ラルフは短く謝罪した。
アンナは首を横に振った。
「いいえ」
そして静かに言った。
「大切な方がいらっしゃるのですね」
その言葉にラルフの呼吸が止まった。
否定は ―― しなかった。
「……ラルフ様はとても優しい方なのですね」
そう言って微笑んだ。
王はそんな二人を黙って見ていた。
話し合いは進み、
「婚約式は一週間後に行う」
そう告げた。
決定事項だった。
覆らない未来だった。
ラルフは、
「承知いたしました」
そう答えるしかなかった。
その声は自分でも驚くほど感情がなかった。
まるで他人の声のようだった。




