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悪女の選択――愛される資格などないはずだった  作者: 音香(Otoca )


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壊れゆく均衡

「……いや……やめて……」


かすれた声だった。


抑え込まれているリリアの身体が、びくびくと震えている。


焦点の合わない瞳。


浅く、速い呼吸。


まるで見えない何かから逃げているようだった。



「大丈夫だ、ローゼン卿」


オスカーはできるだけ優しく言った。


歯を食いしばりながら、彼女の両手首を押さえ込んでいた。


できるだけ強くならないように。


暴れないように。


「誰もお前を傷つけない」


そう言った。


だが ――


「触らないで……っ」


涙が溢れた。



その涙を見た瞬間、オスカーの胸が強く締めつけられる。



(……くそ)


守る側の自分が押さえつけている。


それが何よりも苦しかった。


「団長、まだですか!」


その声が訓練場に響いた瞬間 ―― 扉が勢いよく開いた。


「お待たせしました」


ルークだった。


「こっちだ」


ラルフがルークを呼び、リリアへ歩み寄った。


その瞬間、リリアの身体がびくりと大きく震えた。


「……来ないで……」


小さな声だった。


だがはっきりとした拒絶だった。



そのまま彼女は静かになった。



ラルフの足が止まる。


空気が凍った。


数秒の沈黙の後、ラルフは周囲を見渡し、


「……全員、部屋へ戻れ」


低く命じた。


騎士たちは戸惑いながらも、


「はっ!」


と答え、訓練場を後にした。


残ったのは、


ラルフ、オスカー、ルーク、そして ―― リリア。


ルークが膝をつき、診察を始める。


脈。

瞳孔。

呼吸。


その表情が徐々に曇っていった。



「……恐らく、王妃様と同じ薬です」


ラルフの顔が曇る。


「ですが……濃度が濃いように思います」


言葉を選ぶように、慎重に。


「正常に戻るかは……分かりません」


誰も、何も言えなかった。


「副団長様、ゆっくり押さえている手を離してみてもらえますか」


オスカーが様子を見ながら手を離すと、リリアは力なくぐったりしていた。


「診察室へ移動しましょう」


ルークがそう言うと、オスカーがリリアを抱き上げた。



驚くほど軽かった。


診察室へ運び、ベッドへ座らせた瞬間 ――



「……逃げて……」


リリアが小さく呟いた。



オスカーが身体を離した瞬間、彼女の手が伸びた。


オスカーの腰の剣。


柄を握り ―― 引き抜こうとする。



だがオスカーの方が早かった。



手首を掴み押さえ込む。


「ローゼン卿!」


叫ぶ。


彼女の瞳から涙が溢れていた。


「私は……」


震えた声。


「誰も……傷つけたくない……」


ぽろぽろと涙が落ちる。


彼女は戦っていた。


薬と。


自分自身と。


その姿をラルフはただ見ていた。


表情は動かない。


だが拳が白くなるほど握られていた。



ルークが静かに言った。


「拘束します。これ以上は自傷の可能性があります」


誰も反対しなかった。


拘束具が取り付けられる。


金属の音がやけに大きく響いた。


リリアは抵抗しなかった。


ただ涙だけが流れていた。



ラルフは診察室を出た。


無言で歩く。


その背をオスカーが追った。



「団長」


呼びかけるが返事はない。


「どこへ行くつもりです」


ラルフの足は止まらない。


「宰相を殺す気ですか」


その言葉でラルフの足が止まった。



ラルフが振り返り、その目を見た瞬間オスカーは理解した。


(……止まらない)


「いけません。今のあなたは団長じゃない。我慢してください」


低い声だった。


オスカーは道を塞いだまま動かなかった。


ラルフが一歩踏み出した。


その威圧だけで、普通の騎士なら膝をつく。


それでもオスカーは退かなかった。


「……退け」


「退きません」


睨み合う。


張り詰めた空気。



その時だった。


「ラルフ様」


別の声。


王の従者だった。


「陛下がお呼びです」


ラルフは答えない。


従者は続けた。


「今すぐに」


ラルフはゆっくりと目を閉じ従った。




王の間。


ラルフは膝をついた。


「陛下、お呼びでしょうか」


顔を下げたまま言う。


そこにいたのは、王であり ―― 叔父でもある男。


王は、重い表情で言った。


「ラルフ」


少しだけ言いにくそうだった。


「申し訳ないが、ルエンダー侯爵の娘、アンナ嬢と婚約してほしい」



その瞬間、ラルフの思考が止まった。


「……は」


声にならない声が漏れる。


王は続けた。


「隣国の情勢が不安定だ。ルエンダー侯爵は隣国との繋がりが強い。味方に引き込む必要がある」



理屈は理解できた。


すべて正しい。


だからこそ ―― ラルフは聞いた。


「……それは決定事項ですか」


王は迷わなかった。


「そうだ」



その一言で、すべてが決まった。



ラルフは何も言えなかった。



王族として生まれた時から分かっていたことだった。


いつか政略結婚をする日が来ると。


だが ―― なぜ今なのか。



脳裏に浮かぶ。



涙を流していた顔。


震えていた身体。


自分の名を呼んだ声。



拳が震えた。



それでもラルフは言った。



「承知いたしました」



団長として。


王族として。



ただ一人の男としては ―― 何も言えないまま。

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