壊される世界
「……これで全部」
リリアは磨き終えた鎧を棚へ戻し、小さく息を吐いた。
金属の冷たい光が窓から差し込む冬の朝日を反射している。
指先がじんじんと痛んだ。
冷たい水で何度も布を絞ったせいだろう。
「……」
周囲を見渡したが誰もいなかった。
騎士団の武具庫は静まり返っていた。
以前なら、この時間は誰かしらがいた。
ジークが壁にもたれてあくびをしていたり、ノルが慌てて武具を落としたり、副団長が呆れた顔で注意したり ――
自然とそこにいた。
けれど今は誰もいない。
「……次は、廊下の清掃」
小さく呟き、自分に言い聞かせるように動き出す。
与えられた仕事をこなす。
それだけだ。
廊下へ出ると、窓の外から冷たい風が入り込んできた。
思わず肩をすくめる。
雑巾を床へ当て、磨き始めた。
単純な作業。
何も考えなくて済む。
そのはずだった。
「 ―― 君」
声をかけられリリアの動きが止まる。
振り返るとそこに立っていたのは宰相だった。
リリアは急いで立ち上がり頭を下げた。
すると背筋に冷たいものが走る。
宰相はゆっくりと近づいてくると、その目は、頭の先から足の先までなめるように動いた。
ぞくりとした。
本能が警鐘を鳴らす。
危険だと。
だが、逃げることはできない。
リリアは姿勢を正した。
宰相は、優しく微笑んだ。
だがその笑みは、どこか歪んでいた。
「君は ―― ローゼン卿、だったかな」
「はい」
「そうか」
宰相はゆっくり頷いた。
「お兄さんのクラウスくんも、優秀だったね」
その言い方。
わざとらしく含みを持たせた言葉。
リリアの胸がざわついた。
何かを試されている。
そんな感覚だった。
「……恐れ入ります」
それだけ答えるのが精一杯だった。
宰相はしばらくリリアを見ていた。
値踏みするように。
そして、
「期待しているよ」
そう言って去っていった。
リリアはその場に立ち尽くした。
心臓が早かった。
(……嫌だ)
直感だった。
あの男は、危険だ。
それからだった。
宰相が頻繁にリリアの前に現れるようになったのは。
必ず一人の時に。
廊下や中庭、人気のない場所で笑顔を向け優しい言葉をかける。
だが ―― その目だけが笑っていなかった。
(……おかしい)
リリアは確信し始めていた。
これは偶然ではなく何かがある。
相談しなければ。
そう思った。
そう思い、気づけば騎士団団長執務室の前に立っていた。
扉を見つめ、手を上げるがなかなか叩けなかった。
(また……)
冷たい目で見られたら。
拒絶されたら。
胸がきしんだ。
その時、突然扉が開いた。
「何だ」
低い声でラルフが声をかけた。
目が合う。
その瞳にあったのは ―― 冷たい無機質な光。
リリアの喉が詰まる。
言葉が消えた。
「……いえ」
視線を落とす。
「何でもありません」
ラルフは何も言わなかった。
ただ見下ろしていた。
リリアは小さく頭を下げた。
「失礼いたしました」
逃げるようにその場を離れた。
背中に視線を感じながら。
何も言えなかった。
「……どうして」
廊下の角を曲がった瞬間、足が止まる。
以前なら相談できた。
きっと聞いてくれた。
副団長なら ―― そう思いかけて首を振る。
訓練の時の目を思い出す。
あの距離と冷たさ。
(無理だ……)
部屋へ戻り、扉を閉めた瞬間 ―― 背後で何かが動いた。
「――っ」
口を塞がれた。
甘い匂い。
意識が急速に遠のく。
最後に見えたのは知らない男の顔だった。
次に目を覚ました時、リリアは石の床に倒れていた。
凍えるほど冷たい。
身体が動かない。
手も足も縛られていた。
「起きましたか」
その声で顔を上げた。
宰相だった。
リリアの背筋が凍る。
「どうして……」
かすれた声で言う。
宰相は微笑んだ。
「優秀すぎるのですよ、あなたは」
そして顎を掴まれた。
「やめ ―― 」
小瓶が押し付けられ、苦い液体を無理やり流し込まれる。
次の瞬間 ――
感情が壊れた。
笑いが込み上げ、同時に涙が溢れる。
怖い。
嬉しい。
悲しい。
全部が一度に押し寄せる。
「……っ、あ……」
息が乱れる。
宰相が顔を覗き込んだ。
「選びなさい」
優しい声だった。
「兄を救うか、団長を諦めるか」
心臓が跳ねた。
宰相は笑った。
「団長はあなたを選びませんよ」
耳元で囁く。
「もっと相応しい女性を選ぶ」
胸が張り裂けそうだった。
「あなたは ―― 捨てられる」
涙が止まらなかった。
宰相は満足そうに立ち上がった。
「解放してあげましょう。では、楽しみにしていますよ」
気づけば外にいた。
夜だった。
身体が動かない。
それでも身体を引きずり宿舎へ戻った。
ベッドへ倒れ込む。
眠れない。
次から次へ変わる感情に押し潰されそうだった。
(団長……副団長……に……ほう…こく……)
そう頭に浮かんだが何もできずに涙が溢れた。
翌朝。
訓練に遅刻して参加した。
皆の前に立たされ、ラルフの厳しい目が向けられる。
「集合時間に遅刻とは怠けてるな。罰として周回だ。倒れるまで走れ」
リリアは走っていた。
少し走っただけで身体が重い。
息が苦しく、足が動かない。
必死に色んな感情に呑み込まれそうなのを耐えていた。
「遅い!やる気がないなら帰れ!」
ラルフの声は冷たかった。
その瞬間、殺意が頭の中で弾けた。
(やめて ―― !!)
気づけば剣を抜き、自分へ向けていた。
(団長を傷つけたくない ―― )
「ローゼン卿!!」
オスカーの声。
腕を掴まれ、押さえつけられる。
「……っ」
顔を見たオスカーの表情が凍った。
「団長!!ルーク様を!!」
ラルフの目が変わった。
「フェルスナー!!呼んでこい!!」
ノルが走る。
しばらくしてルークが到着し、リリアを見ると険しい顔をした。
「……同じです。王妃殿下と」
空気が凍り、誰も声を出せず沈黙が流れた。




