触れないという選択
「……以上です」
報告を終えた騎士が敬礼し、執務室を出ていく。
扉が閉まる音。
静寂が落ちた。
ラルフは机の上の書類へ視線を落としたまま動かなかった。
だが ―― 文字は一つも頭に入ってこなかった。
脳裏に浮かぶのは、別の光景だった。
白い息を吐きながら、剣を握る姿。
弾き飛ばされた剣を何も言わずに拾う姿。
何も言わず、何も聞かなかった。
ただ ――
「はい」
とだけ答えていた。
「……」
ラルフの指がわずかに動く。
無意識だった。
あの時、手を差し伸べそうになった。
震えていた手を取ってしまいそうになった。
だが ―― しなかった。
「……っ」
小さく息を吐く。
―― 遠ざけろ。
そう決めたのは自分だ。
クラウスの報告。
宰相の存在。
偽造された証拠。
そして ―― リリアが証拠を隠したこと。
彼女は裏のことまでは知らない。
知らないままでいい。
騎士の任務ではない。
もっと、汚れた場所の話だ。
血と裏切りと、権力が絡む場所。
ここは ―― 彼女を立たせられる場所ではない。
守るためには遠ざけるしかない。
それが最善だった。
分かっている。
分かっているのに ――
「団長」
扉の外から声がかかる。
オスカーだった。
「入れ」
オスカーはラルフの顔を見るなり、わずかに目を細めた。
「……随分と徹底してますね」
軽い口調だった。
だがその奥にあるものをラルフは知っている。
「さっきの訓練、見てましたよ」
ラルフは答えなかった。
「何も言わないんですね」
オスカーは小さく息を吐き、一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……ローゼン卿、団長を見てましたよ」
ラルフの指が止まる。
「助けを求める目じゃない…… 捨てられたかもしれないって顔でした」
沈黙。
部屋の空気が重くなる。
だがラルフは表情を変えなかった。
「関係ない」
その言葉にオスカーはわずかに苦笑しラルフに一歩近づいた。
「本気で言ってるなら俺がもらいますよ」
静かな声だった。
ラルフは視線を上げるとオスカーの目は笑っていなかった。
「 ―― あなたが手放すなら」
その言葉の意味は明確だった。
オスカーは続ける。
「守る覚悟も遠ざけるだけなら俺が隣に立ちます」
部屋の空気が張り詰めた。
やがて ―― ラルフが言った。
「俺に近づけるな。宰相は気づいている可能性がある。証拠を隠したのが誰なのか」
「……」
オスカーはしばらくラルフを見ていた。
そして小さく笑った。
「……やっぱりそうですか。本当に不器用ですね」
その笑みは、どこか諦めたようだった。
「嫌われますよ」
「それでいい」
ラルフに迷いはなかった。
「嫌われていれば巻き込まないで済む」
オスカーは目を閉じた。
(敵わないな……)
心の中でそう呟いた。
あの雪山で悲鳴を聞いた瞬間のラルフの顔を知っている。
あの顔をする男から奪えるわけがない。
最初から ―― 分かっていたことだった。
「分かりました」
副団長の声に戻る。
「団長の望み通りにします」
それは忠誠の言葉だった。
そして ―― 身を引く男の言葉でもあった。
オスカーは扉の前で一度だけ止まり、振り返らずに言った。
「団長、ちゃんと守りきってくださいよ」
少しだけ声が柔らかくなる。
扉が閉まり静寂が戻る。
ラルフはゆっくりと椅子にもたれた。
そして小さく呟いた。
「リリア」
誰もいない部屋で触れることも、抱きしめることも、許されない距離で。
それでも ――
「必ず守る」
たとえ憎まれても。
それが自分の選んだ道だった。




