伸ばされた手
翌朝は、これまでで一番の冷え込みだった。
まだ陽も昇りきらない灰色の空の下、野営地は白い息で満ちている。
吐く息が、まるで煙のように漂った。
リリアは毛布から抜け出し、ゆっくりと身を起こした。
指先が冷たい。
感覚が鈍い。
手袋をしたまま眠っていたはずなのに、それでも芯まで冷えている気がした。
(寒い……)
小さく息を吐き、隊服の襟元を整える。
焚き火はすでに消えていた。
周囲では、騎士たちが黙々と出発の準備を進めている。
静かな朝だった。
その静けさの中で、リリアはベルトの金具に手をかけた。
―― 上手く留まらない。
指が思うように動かない。
「……」
もう一度やり直す。
手袋を外し、素手で金具を通そうとするが滑って力が入らない。
焦りではなく、純粋に身体がついてこなかった。
その時だった。
「貸せ」
振り返ると、ジークが立っていた。
「おはよ。今日は冷えるな」
いつも通りのぶっきらぼうな声。
「おはよう」
リリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「雪山は久しぶりですね」
「ああ」
ジークは無造作にベルトを取る。
慣れた手つきで金具を通し、しっかりと固定する。
「指、動いてねぇじゃねぇか」
呆れたように言う。
責めているわけではない。
ただ事実を言っているだけだ。
「……少しだけ」
リリアは素直に認めた。
「手、貸せ」
リリアが手を差し出すと、ジークが自分の手袋を取って
リリアの手を包んだ。
ジークは小さく息を吐いた。
「氷みたいな冷たさだな」
リリアはジークの行動にビックリしたがその優しさが心に沁みていた。
しばらくしてジークが声をかける。
「お前、体調気をつけろよ」
「……ありがとう」
リリアはわずかに微笑んだ。
その顔を見て、ジークは視線を逸らした。
心臓が妙にうるさい。
(可愛い)
と思ってしまった。
(何考えてんだ俺は)
咳払いをしてごまかすと、リリアの手を離した。
「行くぞ」
それだけ言って、先に歩き出した。
背中を見送りながら、少し温まった手を握っていた。
胸の奥が温かかった。
やがて出発の合図が出た。
騎士団は列を組み、雪山の奥へと進んでいく。
空は青く晴れていたが、空気は鋭く冷たい。
足元の雪が、ぎしっと鳴る。
山道は細く、片側は岩壁、もう片側は断崖だった。
遥か下に白い霧が見える。
一歩間違えれば落ちる。
そんな道だった。
誰もが無言だった。
慎重に一歩ずつ進む。
その時だった。
―― ゴゴゴ……
低い音。
最初は近くで雷が鳴ったように聞こえた。
だが違う。
地面が微かに震えている。
ラルフの足が止まった。
同時にオスカーの視線が山の上へ向く。
白い斜面が揺れている。
( ―― まずい)
ラルフが叫んだ。
「雪崩だ!!」
次の瞬間。
轟音。
白い壁が崩れ落ちてくる。
雪が空を埋め尽くした。
「壁側へ寄れ!」
オスカーの声が飛ぶ。
騎士たちは即座に動いた。
岩壁へ身体を押し付ける。
雪が流れていく。
視界が白く染まる。
だが ―― 断崖側は守りがない。
「……きゃっ……!」
小さな悲鳴。
ラルフの視界の端で、黒い影が消えた。
「――っ」
リリアだった。
足場が崩れた。
雪に押され、身体が宙へ投げ出される。
隣にいたノルも巻き込まれていた。
二人の身体が、崖の向こうへ落ちていく。
その瞬間、ラルフは考えるより先に叫んでいた。
「リリア!!」
団長としてではなく。
ただの一人の男として名を呼んでいた。
伸ばした手は ―― 届かなかった。




