仮面を被り直す朝
目が覚めたとき、ラルフはすぐには動かなかった。
胸元に寄り添う黒髪。
規則正しい呼吸。
昨夜、自分が壊れる寸前まで抱いた女が今は穏やかな顔で眠っている。
「……」
指先でそっと髪を払う。
柔らかい。
ラルフは額へ口づけた。
触れるだけの短いキス。
守りたいと、そう思ってしまった温もり。
―― それ以上は触れなかった。
触れれば離れられなくなる。
ラルフは静かに腕を抜いた。
リリアが微かに身じろぎするが起きなかった。
その様子を数秒見つめてから、ラルフはベッドを降りた。
床の冷たさが足裏から現実へ引き戻す。
隊服を手に取り袖を通す。
ボタンを留め、襟を正す。
その動作の一つ一つで、昨夜の男を自分の中から消していく。
最後に鏡を見た。
そこにいるのは、王族でも、一人の男でもない。
王立騎士団団長
ラルフ・フォン・アルトシュタインだった。
「……」
もう一度だけベッドに振り返り、眠っているリリアを見た。
無防備な姿。
だが近づかず、そのまま部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
その瞬間、すべてを切り離した。
廊下はすでに朝の空気だった。
騎士たちが行き交い、使用人たちが動き始めている。
その中をラルフはいつも通りの歩幅で進んだ。
誰も昨夜の出来事を知らない。
知られてはならない。
「団長」
副団長オスカーだった。
「……早いな」
ラルフが言う。
「団長こそ」
オスカーは軽く笑ったが、その目は笑っていない。
ラルフを探るように見ていた。
「……」
数秒の沈黙。
先に視線を外したのはオスカーだった。
「例の侍女長、吐きましたよ」
仕事の話をする声。
副団長の声。
「隣国の残党です」
「そうか」
ラルフは短く答える。
「王の暗殺が目的だったと」
「王妃は?」
「利用されていただけでしょうね。薬で壊されて」
事務的な報告。
いつもの会話。
オスカーはふと言葉を止めた。
そしてラルフの襟元へ視線を落とした。
ほんの一瞬だった。
だがラルフは気づいた。
「……なんだ」
静かに問う。
オスカーは肩をすくめる。
「別に」
そう言ってから、少しだけ口元を歪めた。
「団長が、“団長の顔”に戻ってるなと思っただけですよ」
「……」
ラルフは何も答えない。
答える必要がなかった。
オスカーはそれ以上聞かなかった。
聞かないのが、長年の関係だった。
「壊すなよ」
オスカーは小さく呟く。
副団長ではなく。
友人として。
ラルフの目がわずかに細くなる。
「分かっている」
短い返答。
オスカーは背を向ける。
「尋問の続きがありますので」
いつもの副団長に戻った声。
数歩進んでから、止まらずに言った。
「団長、初めてですよ。あなたが“誰かを手放さない顔”をしたのは」
足音が遠ざかる。
ラルフはその場に一人残った。
表情は変わらないが、胸の奥が静かに揺れていた。
団長として、王族として生きる。
その覚悟は変わらない。
それでも、昨夜腕の中にあった温もりを完全に消すことはもうできなかった。
「仕事だ」
誰に言うでもなく呟き、団長としての一日を歩き出した。




