問い
朝早く、ラルフはすでに目を覚ましていた。
静かな部屋の中、机に向かい昨夜残した書類に目を通している。
ペンを走らせる音と、時折カップを置く小さな音だけが響いていた。
リビングには、淹れたばかりの珈琲の香りが広がっている。
一方、寝室。
リリアはゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりとした意識のまま隣へ手を伸ばす。
――いない。
その事実に胸がざわついた。
「……ラルフ……?」
声に出してみても返事はない。
急に不安が押し寄せる。
昨夜の温もりが、夢だったかのように消えてしまいそうで。
リリアは慌てて身体を起こした。
ベッドの横に落ちていた夜着を拾い、急いで身に纏う。
頭はまだぼんやりしているのに、心だけが落ち着かない。
寝室からリビングへ続く扉を開けた。
「起きたか」
そこには、いつも通りのラルフがいた。
執務椅子に腰掛け、珈琲を片手に書類へ目を通している。
リリアと目が合った瞬間ラルフはすぐに立ち上がった。
ゆっくり近づき、ふらつくリリアの肩を支える。
「よく起きれたな」
「起きたらラルフいなくて……」
少し不安が混じった声だった。
ラルフは一瞬だけ目を細める。
「ごめんな。昨夜、途中で寝ただろ。残した仕事を片付けてた」
そう言いながら、そのままリリアをソファーへと導く。
無理に歩かせないよう、自然に支えながら。
座らせると肩へ毛布を掛けた。
「寒くないか」
「大丈夫です」
リリアは小さく頷いた。
そして、そのままラルフの肩へそっと頭を預ける。
ラルフは何も言わなかった。
けれど少しだけ身体を寄せる。
それだけで十分だった。
静かな時間が流れる。
珈琲の香りと暖炉のぬくもり。
やがてラルフが口を開いた。
「リリア」
「……ん?」
「あとで話がある」
リリアは顔を上げた。
「今じゃダメなんですか」
ラルフは少しだけ考え、首を横に振る。
「重い話だから、皆と一緒に聞いた方がいい」
その言葉にリリアはわずかに表情を曇らせた。
「……わかりました」
ラルフはそれ以上は何も言わなかった。
ただもう一度だけリリアの頭を軽く撫でた。
その後。
王立騎士団、団長執務室。
呼び集められた者たちが順に部屋へ入ってくる。
リリア。
オスカー。
クラウス。
セドリック。
ロクス。
それぞれが静かに位置につく。
張り詰めた空気が漂っていた。
ラルフは執務椅子に腰を下ろす。
全員を一度見渡し、ゆっくり口を開いた。
「忙しいところ集まってくれて感謝する」
その声は、昨夜とは違う。
団長としてのラルフの声だった。
だが、どこかほんの少しだけ柔らかさが混じっている。
ラルフは一度視線を落とし、それからゆっくりと全員を見渡した。
「先に伝えておく。これは命令じゃない」
その一言で、空気がわずかに変わる。
「オスカー」
「はい」
「お前は今回、魔力の影響で死にかけた」
ラルフの声は静かだった。
「……俺が無理をさせた」
オスカーの目がわずかに揺れる。
「その事を考慮して、副団長職からは外れてもらう」
少しの沈黙。
オスカーは俯いたまま拳を握る。
だがゆっくりと息を吐いた。
「……承知しました」
短い返事だった。
ラルフはそのままオスカーを見つめる。
何かを確かめるように。
それ以上は何も言わず、次の言葉を続けた。
「俺も、団長職を辞める」
今度は、はっきりと空気が揺れた。
リリアが思わず顔を上げる。
「ラルフ……」
ラルフは一瞬だけリリアを見る。
その視線は、ほんの少しだけ優しかった。
「俺は辺境に行く。王都を守るには外を強くするしかない。侵入されてからじゃ遅い。入らせないための領土を作る」
言葉に迷いはない。
けれど、押しつける響きではなかった。
「そのために領主として動こうと思う。……だが一人じゃ無理だ」
その言葉に、全員の視線がラルフに集まる。
ラルフはゆっくり立ち上がり頭を下げた。
「だから、力を貸してほしい」
静かな願いだった。
「ついて来てほしい」
王族としてではなく、一人の人間としての言葉。
クラウスが腕を組みながら口を開く。
「随分弱気だな。らしくない」
ラルフは小さく笑った。
「らしくないことぐらいする。……今回はそういう話だろ」
クラウスはそれ以上は何も言わなかった。
オスカーは俯いたまま黙っていた。
ラルフはゆっくり視線をリリアへ向ける。
「リリア」
名前を呼ばれ、背筋が伸びる。
「お前は……どうしたい」
問いかけだった。
選ばせるための言葉。
リリアは少し戸惑う。
「……私は……」
言葉が続かない。
ラルフは急かさなかった。
ただ、静かに待つ。
その沈黙を、ロクスが埋める。
「リリア様は現在、ルーヴェル王国の籍に入っております」
全員の視線がロクスへ向く。
「長期的にアルトシュタイン側へ留まる場合、一度帰国し正式な手続きが必要になります」
セドリックも頷いた。
「俺も同じだ。向こうの人間だからな。勝手には動けない」
ラルフは小さく息を吐く。
「……そうだな」
ただ、理解したというだけの声。
ラルフは再びリリアを見る。
その視線はさっきよりも柔らかかった。
「急がなくていい。どんな結果になってもリリアが幸せなら、それでいい」
ラルフはそれ以上は何も言わなかった。
リリアの目がわずかに揺れる。
視線を戻し全員を見渡す。
「お前たちも同じだ。すぐに答えを出さなくていい。
だが時間は多くない。それぞれ自分で決めてくれ」
静かに言い切る。
確かな覚悟を求める声だった。
部屋には重い沈黙が落ちる。
それは終わりではなく―― 始まりの前の静けさだった。




