触れる距離
磨き上げられた床に、柔らかな光が落ちていた。
広い室内。
中央に立つのは、リリアとアンナ。
「本日はダンスの実践練習です」
静かな声が響く。
「夜会では避けられません。基礎は終えていますので、本日は相手をつけます」
リリアは小さく頷いた。
「はい」
アンナは一歩下がる。
そのまま扉の方へ視線を向けた。
「ラルフ様に背格好が近く、夜会にも慣れている方をお呼びしております。どうぞ」
扉が、静かに開いた。
ゆっくりと、部屋に入ってきたのは―― オスカーだった。
軽装で、動きやすい服装。
隠しきれない色気が、自然と滲んでいる。
「失礼します」
低く、落ち着いた声。
リリアの視線が、わずかに揺れた。
(……副団長)
予想していなかったわけではない。
でも実際に目の前に立たれると、意識せずにはいられなかった。
オスカーは自然に歩みを進め、リリアの前で止まる。
「お相手、務めさせていただきます」
柔らかく、だが余裕のある声。
そのまま、手を差し出した。
差し出された手にリリアがそっと手を乗せると、手の甲にオスカーが軽く口づけた。
まるで本物の夜会のように。
紳士的で、それでいてどこか危うい色気を纏っている。
オスカーはリリアの変化に気づいていた。
表情は崩れていない。
だが呼吸、力の入り方、そのすべてがほんの僅かに不自然だった。
(無理してるな)
一度だけアンナへ視線を送る。
アンナは何も言わない―― 理解した上で、あえて続けさせている。
(なら……崩れる前に、俺が支えればいい)
何も言わず距離を詰める。
手を取り、自然な流れで背へ添える。
「力、抜いてください」
低く落とした声は、指導というより支えるためのものだった。
「はい」
リリアは小さく頷き、ステップを踏む。
一歩。
もう一歩。
オスカーはわずかに重心を調整する。
崩れないよう、気づかれない程度に支える。
「視線は、相手を見るように」
「はい」
短いやり取りだけで、形は整っていく。
(飲み込みはいいな……さすがか)
だが時間が経つにつれて、わずかなズレが出始める。
ほんの少し、足運びが遅れる。
(……やっぱり足か)
それでもリリアは止まらない。
こういう時、止まらない人間だと分かっている。
なら―― 止め方を変えるしかない。
限界の手前まで、あえて続けさせる。
「さっきより、いいですよ」
やわらかく声をかける。
リリアが少しだけ目を見開く。
「本当ですか……?」
「ええ。無駄な力が抜けてきた」
半分は本当。
もう半分は―― 持たせるための言葉。
そのまま、もう一度ステップを踏む。
リリアの身体が、ほんのわずかに崩れかけた、その瞬間。
「アンナ嬢」
自然な流れで声をかける。
「あとは私との自主練でいいんじゃないですか」
アンナはリリアを一度だけ見て―― 理解したように頷いた。
「では、お願いいたします」
余計な言葉はない。
そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる。
オスカーは手を離し、迷いなくリリアを抱き上げた。
近くの椅子へ下ろす。
「失礼しますよ」
そう言って靴を脱がし、足に触れる。
一目で分かる状態だった。
「……やっぱり」
小さく息を吐く。
そして顔を上げると、少しだけ声を落とした。
「ちょっと待っててください」
先ほどより低く、逃がさない声。
リリアが何か言う前に、そのまま部屋を出る。
すぐに戻ってきたオスカーの手には、氷水とタオルを持っていた。
オスカーは椅子の前に片膝をつくと、迷いなくリリアの足を自分の膝へ乗せた。
「……っ」
わずかに肩が揺れる。
痛みは、もう誤魔化せる段階ではなかった。
「我慢しすぎだ」
責めるでもなく、ただ静かに言う。
そのまま、氷水で濡らしたタオルを当てた。
「……っ……」
冷たさと痛みが混ざり、リリアの指がぎゅっと握られる。
「少しだけ我慢しろ」
少しだけ呆れたような声。
だが手つきは優しい。
丁寧に、ゆっくりと冷やしていく。
擦り切れた箇所を確認しながら、必要以上に触れないように。
「言えなかったか」
オスカーが静かに聞いた。
リリアは視線を落としたまま、少しだけ首を横に振る。
「まだ、できると思って……」
小さな声。
消えそうなほど弱い。
オスカーは一瞬だけ手を止めた。
(ああ……そういうことか)
無理をしてでも、やり切ろうとする。
止められるまで、止まらない。
「できるかどうかじゃないだろ」
再び手を動かしながら、淡々と続ける。
「潰れたら終わりだ」
厳しい言葉だが、声はどこか柔らかい。
「……すみません」
ただ受け止めた。
しばらくして、処置を終えると、軽く息を吐いた。
「歩けるけど、今日はもう、やめた方がいいな」
そのまま立ち上がり、少しだけ距離を取る。
「団長呼んでくるから待ってろ」
当然のように言った。
その言葉に、リリアの指が強く握られた。
「だめっ!」
オスカーの足が止まる。
「呼ばないでください……迷惑、かけたくないんです」
視線は下を向いたままだった。
オスカーはしばらく何も言わなかった。
(なんで大事な人に頼れないだ)
でもその気持ちも分かっていた。
オスカーはリリアの前に立ち、視線を合わせるように腰を落とした。
「なあ」
低く、柔らかく。
「俺でも甘やかせるか?」
リリアの肩が、わずかに揺れる。
「……少しだけ……」
消え入りそうな声。
それでも、ちゃんと“求めた”。
オスカーは、ふっと笑う。
そのまま手を伸ばし、そっと引き寄せた。
強くはない。
逃げられる距離を残したまま。
けれど、確かに包み込む。
「無理しすぎだ」
耳元で、低く落とす。
責めない。
ただ、見抜いている声。
リリアの力が、わずかに抜けた。
オスカーはそのまま、安心させるように、ゆっくりと頭を撫でる。
「ちゃんと頑張ってるのは、分かってる。だから少しくらい力を抜いてもいい」
リリアの呼吸が、少しだけ乱れる。
それでも、大きく崩れることはない。
ぎりぎりのところで、保っている。
「今日は部屋に戻ろう」
静かに言うとリリアを抱き上げた。
リリアは、ほんの少しだけ身体を預けた。
ラルフとは違う温もりに、静かに包まれていた。
リリアはもう限界だった。
オスカーも腕を緩めることはなかった。
今だけはそれでいいと分かっているから。
静かな廊下に、二人の呼吸だけが、ゆっくりと重なっていた。




