隣に立つ覚悟
部屋の空気が、少し違っていた。
テーブルの上に並べられているのは―― 小瓶。
透明なもの、淡く色のついたもの。
どれも美しく見える。
「本日は特別授業です」
アンナの声は、いつもと同じだった。
「毒の種類と症状、対処法を覚えていただきます」
リリアは、わずかに目を瞬かせた。
「毒、ですか」
「はい」
迷いなく頷く。
「公爵夫人は、狙われます。知らないでは済まされません」
その一言で、十分だった。
リリアは小さく息を吸った。
覚えるしかない。
それだけだった。
アンナは一つ、小瓶を手に取る。
「これは遅効性の毒です」
光にかざす。
「無味無臭。摂取直後に変化はありません」
机に戻す。
「症状は三時間後から、手の震え、軽い吐き気、やがて、呼吸が浅くなります」
リリアの胃が、わずかに反応する。
無意識に、手を握る。
「対処はどうしますか」
視線がリリアに向く。
「解毒薬……、ですか」
「間に合えば」
即答だった。
「間に合わなければ、呼吸補助と時間稼ぎです」
現実だった。
綺麗な話ではない。
「次」
間髪入れず、別の瓶を取る。
「こちらは即効性です。摂取後、数分で意識混濁、痙攣を伴う場合もあります。対処はなんですか」
「対処は……吐かせる。ですか」
「吐かせた後は安静にして即時に解毒薬の摂取が必要です」
アンナが一歩近づく。
「では食事中、違和感を覚えた場合はどうしますか」
試されている。
「……飲み込まず、ナフキンに隠し出す」
「正解です。飲んでしまった場合は?」
必死で考えた。
リリアの胃が、キリッ、と痛む。
「周囲に知らせます」
「遅い」
切り捨てる。
リリアの指が、わずかに強くなる。
「“知らせる”前に、行動です」
アンナの声は低い。
「すぐに吐き出すこと。ためらう時間はありません」
目を逸らさない。
「躊躇した時点で、死にます」
静かだったが、とても重かった。
瓶を一つ、指で軽く押す。
「最後に“毒は、常に外から来るとは限りません”」
リリアの視線が、わずかに揺れる。
「信頼できる相手でも、疑うこと。それが、生き残る条件です。できますか」
リリアは、迷わなかった。
「やります」
はっきりと答えた。
アンナは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「及第点です。本日はここまでにします」
優しさはなかった。
しかし、アンナは最後に
「リリア様、今は辛いかもしれませんが、今の努力は今後リリア様を支えてくれる糧となります。頑張りましょう」
それだけ告げて一礼し、扉へ向かう。
足が止まることはなかった。
部屋に、静けさが戻る。
リリアは、しばらく動かなかった。
(……疲れた……)
正直な感情だった。
日々、姿勢、マナー、会話術いろいろな事を詰め込まれる。
ラルフに弱音を吐けたら楽になるだろうけど、そんな事できなかった。
ラルフも寝る間を惜しんで貴族達と向き合ってると聞いた。
それを知っているから―― 何も言えなかった。
だが、リリアの心は疲弊していた。
「……頑張らないと」
小さく呟く。
ゆっくりと立ち上がる。
そのまま、部屋を出た。
――廊下は静かな空気に包まれていた。
その先に、人影。
「リリア」
ラルフだった。
一瞬で胸が緩み、安心してしまう。
ラルフは何も言わず、近づくと、そっと頭を撫でた。
優しく温かい手。
(だめ……)
一瞬力が抜け、寄りかかりそうになる。
ラルフの手が離れようとした時、無意識に服を掴んでいた。
「……っ」
すぐに離した。
何もなかったように顔を上げ笑顔を作る。
「頑張ってください」
それしか言えなかった。
言ってはいけないことは、分かっているから。
ラルフは、何かを言いかけて――
「大丈夫か」
ラルフはリリアを見つめた。
「はい」
短く、それだけ返した。
リリアは一礼し、そのまま歩き出す。
振り返らない。
振り返ったら、立っていられなそうだった。
廊下に、静かな足音が残った。
その音は、どこか不安定に揺れていた。




