譲れない理由
重厚な扉が閉まる音が、会議室に低く響いた。
長机を挟み、向かい合う貴族たち。
その視線は一様に―― 硬い。
「……以上が、現状の提案だ」
ラルフは資料を机に置いた。
声は落ち着いている。
だが、空気は重かった。
沈黙。
誰もすぐには口を開かない。
やがて――
「到底、受け入れられる内容ではありませんな」
一人の老貴族が口を開いた。
「獣人国と同盟など……前例がない」
「前例がないからこそ、今やるのではないか」
ラルフは即座に返す。
「薬の流通経路はすでに国境を越えている。現状のままでは、対処は不可能だ」
「だからといって、敵国と手を結ぶ理由にはならん」
別の声。
「安全が保証されるとは限らない」
「保証されないのは今も同じだ。むしろ現状の方が、よほど危険だと理解しているはずだ」
わずかなざわめき。
だが、納得の空気ではない。
「感情で動いているのではないか」
誰かが、ぼそりと呟いた。
ラルフの視線が向く。
「どういう意味だ」
別の貴族が続ける。
「噂は耳に入っておりますよ。婚約者が、獣人と関わりが深いのではないかと」
空気が、一瞬で張り詰めた。
「そのための同盟ではないかと」
遠回しな言い方。
だが、意味は明確だった。
ラルフの瞳がわずかに細まる。
「個人的な感情で国政を動かすほど、愚かではない。今回の提案は、あくまで国家としての判断だ」
低く、押さえた声。
だが、その奥に熱があった。
「ですが、公爵閣下」
さらに畳みかける声。
「同盟が成立すれば、貴族間のバランスが崩れます。人間と獣人の婚姻など、前例も規範もない」
「受け入れられるとは思えませんな」
ラルフは、わずかに息を吐いた。
「だからこそ、今変えるのではないか」
はっきりと言い切る。
「薬の問題は一国で収まる話ではない。既に、流通も、人も、すでに境界を越えている。それを無視して閉じる方が、よほど現実を見ていない」
沈黙。
押し返した。
だが―― 決定打にはならない。
「……時間が必要ですな」
誰かがそう言った。
それは、拒否ではない。
だが、賛成でもない。
「検討は続ける」
その言葉で、会議は事実上の打ち切りとなった。
――廊下。
扉を出た瞬間、空気が変わる。
ラルフは歩き出した。
足音が、静かに響く。
その背に、もう一つの足音が重なる。
「随分と押しましたね」
クラウスが一歩後ろから下がって歩く。
「半分も落ちていない」
ラルフは短く答えた。
「ですが、完全に拒否されているわけでもないですね」
「時間を稼がれているだけだ」
クラウスは小さく笑った。
「それでも、前進はしています」
ラルフは何も言わない。
数歩、沈黙が続く。
「リリアのため、ですか」
静かな問い。
ラルフの足が、わずかに止まる。
「それだけではない」
否定ではないが、肯定もしない。
クラウスはそれを見て、目を細めた。
「ありがとうございます。理由が何であれ、私は、あなたを支持します」
ラルフは視線を前に戻した。
「お前は……頼りになる」
「恐れ入ります。守りたいものがあるのは、同じですから」
その言葉に、ラルフはわずかに口元を緩めた。
何も言わないが、理解していた。
「ただ、時間はあまりありません」
「分かっている」
短い返答。
廊下の窓から光が差し込む。
その先に、王都が広がっていた。
人がいて、生活があって、守るべきものがある。
ラルフはその景色を一瞬だけ見た。
「あの貴族達を納得させなければ」
低く言った。
迷いはない。
「どれだけ反対されようと、同盟は成立させる」
クラウスはその横顔を見た。
そして、小さく頷く。
「ええ。そのために、私も動きます」
再び、歩き出す。
止まらない。
立ち止まれば、すべてが遅れる。
ラルフの中にあるのは―― ただ一つ。
譲れない理由だった。
その理由の名を、口にすることはなかった。
――騎士団本部。
久しぶりに足を踏み入れた空間は、変わらないはずなのに、どこか違って見えた。
訓練場の空気。
金属の音。
掛け声。
すべてが、いつも通りのはずだった。
「団長?」
誰かの声。
それをきっかけに、視線が一斉に集まる。
「団長だ……!」
「お疲れ様です!」
次々と声が上がる。
ざわつき。
だが、それは混乱ではなく―― 安堵だった。
ラルフは軽く手を上げる。
「続けろ」
短く言う。
それだけで、空気が締まる。
すぐに訓練が再開された。
その様子を、少し離れた位置から見ていた。
「随分と久しぶりですね」
横から声がする。
オスカーだった。
いつも通りの副団長の顔。
だが、目の奥は少しだけ柔らいでいた。
「顔出し程度だ」
ラルフは視線を前に向けたまま答える。
「それでも、十分ですよ」
オスカーは小さく笑う。
「団長がいるだけで、空気が変わる」
その言葉に、ラルフは何も返さない。
ただ、訓練場を見ていた。
剣を振るう騎士たち。
動き。
呼吸。
無駄のなさ。
「悪くない」
「でしょう?」
少し誇らしげな声。
「副団長として、ちゃんとやってますよ」
「当たり前だ」
即答だった。
だが、その声にはわずかに柔らかさが混ざる。
「相変わらず厳しいですね」
軽口だが、その距離感がちょうどいい。
やがて、オスカーが視線を横に流した。
「ローゼン卿の方は」
ラルフの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
「アンナがついている」
短い答え。
「それなら安心ですね」
オスカーは頷く。
「厳しいですが、あの人は間違えない」
「ああ」
ラルフも同意した。
訓練場の音だけが響く。
ラルフがふと、視線を横に流した。
「オスカー」
「はい?」
「気分転換に付き合え」
短く言う。
説明はない。
だが、それで十分だった。
「珍しいですね」
そのまま近くの剣を手に取る。
ラルフも無言で剣を抜いた。
「本気で来い」
「手加減は望んでないでしょ」
ほぼ同時に踏み込む。
鋭い金属音が響いた。
一撃、二撃。
互いに迷いはない。
速さも重さも、そのままぶつけ合う。
受けて、流して、返す。
間合いを詰め、また弾く。
無駄のない応酬が、短く続いた。
一際強く、剣がぶつかる。
そのまま互いに力を抜き、距離を取った。
静寂が戻る。
オスカーが小さく息を吐く。
「少しは落ち着きましたか」
「ああ」
ラルフはわずかに肩の力を抜いた。
「ありがとな」
珍しく素直な言葉が落ちた。
オスカーがわずかに目を見開く。
ラルフの手が伸びてきた。
くしゃりと、オスカーの髪を乱した。
「……っ」
不意打ちだった。
「団長?」
少しだけ呆れた声。
だが、嫌がる様子はない。
ラルフは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
――昔から、そうだった。
オスカーはどこか犬に似ていると思っていた。
従順で、無駄に勘がよくて。
だが、他の誰にも見せない顔を、自分の前では平然と晒す。
頭を撫でれば、少しだけ気を緩めるその様子が――嫌いではなかった。
むしろ、自分にしか許していないその距離が、妙に落ち着く。
だからか、考えるより先に手が動いた。
オスカーがわずかに目を瞬かせる。
ラルフは何も言わない。
そのまま手を離し、剣を収めた。
「戻る」
短く言って背を向けた。
オスカーはその背を見て―― ふっと、笑った。
「相変わらずですね」
小さく呟く。
騎士たちのざわめきが戻る。
いつもの訓練場。
だが―― 空気は少しだけ、軽くなっていた。




