揺れる距離
ある朝、リリアはベッドの上でゆっくりと目を覚ました。
無意識に、隣へ手を伸ばす。
―― 冷たい。
もう何日も、同じだった。
潜入作戦から帰還してから、ラルフの姿をまともに見ていない。
夜中、リリアが寝たあとに戻ってきて、シャワーを浴びて、ほんの少し仮眠を取る。
そして、夜が明ける前にまた出ていく。
騎士団でも、稽古に少し顔を出すだけ。
「……はぁ」
小さく、ため息がこぼれる。
分かっている。
一番忙しいのは、ラルフだ。
分かっているからこそ―― 言えない。
寂しいなんて……
訓練場。
「リリア、大丈夫か?」
ジークの声。
「顔色、あんまよくねぇぞ」
ノルも覗き込んでくる。
その周りに、獣騎士隊の子どもたちが集まる。
「お姉ちゃん……」
「疲れてる?」
心配そうな声。
リリアはハッとして、顔を上げた。
「大丈夫よ」
にこりと笑う。
――ちゃんと笑えたはずだった。
「ほら、稽古続けるよ」
明るく言う。
けれど胸の奥は、少しだけ重かった。
稽古を終え、部屋へ戻る途中。
「ローゼン卿」
オスカーに呼び止められる。
「大丈夫か」
静かに覗き込まれる。
「大丈夫です」
いつも通り、柔らかく笑って返す。
けれどオスカーは、じっと見ていた。
「団長はもう少ししたら落ち着く。それまでは我慢な」
そう言って、頭を軽く撫でる。
その手が、やけに優しかった。
リリアはふと、オスカーを見る。
その瞬間――
瞳が、薄紫に変わった。
魔力の流れが、自然と視える。
(……あ)
オスカーの胸元。
ほんのわずかな、淀み。
「少し……淀んでますね」
「そうか?」
オスカーは自覚がない様子で胸に手を当てた。
「少し馴染ませますね」
リリアはそっと、オスカーの手を取った。
目を閉じる。
ゆっくり、優しく魔力を馴らすイメージ。
オスカーの身体が、ふっと温もりに包まれる。
しばらくして、リリアが目を開けた。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
オスカーの声は、少しだけ柔らかくなっていた。
「そうだ。夕食一緒にどうだ」
不意に誘われる。
「どうせ部屋で一人だろ?」
図星だった。
リリアは少し迷って――
「……そうですね」
小さく頷いた。
「後で部屋に行く」
「はい」
部屋に戻り、支度を整える。
シャワーを浴び、部屋着に着替える。
暖炉の前で本を読んでいると――
コンコン、とノック音。
扉を開けると。
「こんばんは」
私服姿のオスカーが立っていた。
見慣れない姿。
だからこそ、いつもより少しだけ―― 色気が強く見えた。
(……なんで……)
一瞬、胸が鳴る。
「どうした?」
「いえ……どうぞ」
慌てて中へ通した。
食事が運ばれる。
「あまり飲み過ぎないようにしてくださいね」
リリアはオスカーに注意した。
「分かってるよ」
オスカーが苦笑する。
いろいろ話した。
そして、リリアから久しぶりに自然な笑顔が出た。
(よかった)
オスカーは内心、そう思った。
しばらく経ったあと――
「もうそのくらいにしとけ」
オスカーは、リリアのグラスをそっと取り上げた。
「え……」
頬を膨らませ、少し拗ねた顔。
「飲みすぎだ」
「……」
リリアはうつむいた。
そして、小さく口を開く。
「……なんで、ラルフは帰ってこないんですか」
ぽつり。
「私……嫌われてるのかな……」
その声は、ひどく弱かった。
オスカーは一瞬だけ言葉を止めた。
そして、ゆっくり答える。
「そんなことない。ローゼン卿のために動いてる」
「……」
「もう少しの辛抱だ」
優しく、言い切った。
その時、扉が開いた。
ラルフだった。
空気が、変わる。
「お邪魔してます」
オスカーが軽く声をかける。
ラルフは視線をリリアへ向けた。
「酔ってるのか」
静かに近づく。
「団長が構わないから、やけ酒ですよ」
オスカーが苦笑する。
リリアはぼんやりと顔を上げる。
「……ラルフ……」
焦点の合わない瞳。
「お帰りなさい」
そのまま、ラルフの腰に抱きついた。
ラルフは一瞬だけ目を細め―― 何も言わず、頭を撫でる。
その仕草が、あまりにも自然だった。
オスカーは静かに立ち上がる。
(……邪魔だな)
空気で分かる。
音を立てないように、椅子から静かに立ち上がる。
そのままラルフに、軽く手だけで合図を送る。
言葉はない。
それで十分だった。
しかし、椅子がわずかに動いた音に、リリアが反応した。
「……っ」
ラルフから身体を離す。
オスカーは足音も、極力抑えて扉へ向かう。
リリアは、オスカーの後を追った。
数歩……すぐに距離を詰める。
オスカーがドアノブに手をかけた、その瞬間――
「リリア?」
ラルフの声に、オスカーの足が止まり振り返る。
「……?」
その視線の先で。
リリアが、オスカーの手を掴んでいた。
「ローゼン卿?」
リリアは何も言わない。
オスカーとラルフ、二人の手を引いて寝室へ向かった。
「ラルフは真ん中に寝てください」
命令口調。
ラルフはため息をつきながらも従う。
左にリリア。
「副団長はこっち」
右側を指す。
「いや……それは……」
オスカーが戸惑う。
「早く」
強引だった。
ラルフが口を開く。
「リリア、もういいだろ」
だが―― リリアは黙ったまま俯いた。
空気が変わる。
オスカーは観念してベッドに腰を下ろした。
「寝るまでですよ」
リリアはすぐにラルフに抱きついた。
「……」
ぎゅっと離さない。
「シャワー浴びてないからあんまりすり寄るな」
ラルフが低く言う。
「ラルフの匂いがする……」
嬉しそうに頬を寄せる。
ラルフは小さく息を吐き、そのまま頭を撫でた。
「早く寝ろ」
その手は、いつもより少しだけ優しかった。
しばらくして、リリアは顔を上げる。
そして―― そっと、ラルフに口づけた。
「こら」
軽く叱る。
だが、その声は強くない。
次の瞬間。
リリアは起き上がり、ラルフの上に跨った。
「今日は……私がするの」
ぎこちないけれど真剣だった。
ラルフは何も言わない。
ただ、下から見上げる。
ラルフの隊服のボタンを外そうとする手。
うまくいかない。
「副団長……手伝って……」
「俺?」
一瞬、ラルフを見る。
わずかに険しい顔。
(面倒なことになったな……)
オスカーは苦笑しながら手伝った。
隊服もシャツも脱がし、やがてリリアは満足そうに笑う。
軽く腰を擦り付けた。
「……ん……」
小さな声。
そして、オスカーと目が合った。
リリアは手を伸ばす。
キスをねだる仕草。
「……」
オスカーが一瞬止まる。
「そこまでだ」
ラルフが見かねてリリアの目を覆い、引き寄せる。
だが―― リリアはその手を掴み、指をペロッと舐めた。
「……っ」
ラルフの眉がわずかに動く。
「……はぁ」
ため息を吐いた。
そして次の瞬間。
リリアの手首を掴み、一瞬で体勢が入れ替わる。
「オスカー、押さえろ」
オスカーは迷いなく従う。
ラルフは一度離れ、サイドテーブルの度数の高い酒を手に取った。
そのまま、口に含む。
そして戻ると――
リリアの顎を指で軽く持ち上げ、唇を重ねた。
逃げ場を塞ぐように。
ゆっくりと、口移しで流し込む。
「……っ……」
苦味に、リリアの眉がわずかに寄る。
飲み込んだあと、反射的に顔を逸らそうとした。
ラルフの手が逃がさないように顎を掴む。
指先に、わずかに力がこもる。
「まだだ」
もう一度、酒を含む。
今度は躊躇なく、深く塞いだ。
舌を絡める。
逃げ場を塞ぐように、深く差し込む。
無理やり飲ませるように。
息ごと奪う。
「……っ、……ん……」
抵抗しかけた力が、ほどけていく。
身体から、力が抜ける。
それでも、ラルフは離さない。
わずかに角度を変え、さらに深く。
完全に意識を奪うまで。
やがて―― リリアの力が、すとんと抜けた。
唇が離れる。
静かな寝息だけが残った。
ラルフはゆっくり離れた。
「悪かったな」
オスカーに謝った。
「いえ、なかなか刺激的でしたよ」
軽口だったが、視線だけは外さなかった。
リリアを寝かせ、布団をかける。
二人は部屋を出た。
「飲むか」
ラルフが言う。
「はい」
オスカーがソファーに座り、ラルフは浴室へ向かった。
――気持ちを切り替えるために。
部屋には、静けさが戻った。




