第4話:夕闇に芽生える気配
「澪〜! 行くよ〜!」
ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴り響いた直後、教室の反対側の席から明るい声が飛んできた。
声の主は、今日の昼休みにひょんなことから仲良くなったクラスメイト、七海刹那だ。バービー人形のように華やかな雰囲気を纏った彼女は、すでに鞄を肩にかけ、手招きをしている。
「うん、今行く」
澪は手際よく教科書を鞄に仕舞い、席を立った。
自分の席から通路へ出ようと、一歩踏み出そうとした——その瞬間。
「っと——!?」
後ろの席から、ちょうど同じタイミングで通路へ出ようとしていた男子と、勢いよく正面から激突した。
視界がぐらりと揺れる。浮遊感。倒れそうになった澪の背中に、咄嗟に強い手が回された。
「……っ!」
抱きかかえられるような形で、至近距離で身体が密着する。
触れ合った部分から、熱いほどの体温が伝わってくる。前髪の隙間から覗く自分の視線のすぐ目の前に、整った顔立ちと、驚きに丸く見開かれたまっすぐな瞳があった。
赤霧 炤。
心臓が跳ね上がる。息が止まるほどの近さに、時間が凍りついたように二人とも固まってしまった。
「……おーい、炤! 何やってんだよ、置いてくぞ〜」
静寂を破ったのは、教室のドア付近から聞こえた能天気な声だった。炤の友達である柊夜一が、ニヤニヤしながらこちらを覗いている。
ハッと我に返った炤は、慌てて澪から手を離した。少し耳の尖端を赤くしながら、気まずそうに頭をかく。
「ごめん! 怪我なかったか?」
「え、あ……うん。大丈夫……」
「そうか、じゃあ……また」
炤は逃げるように視線を泳がせると、夜一の待つ廊下へと大きな歩幅で去っていった。
残された澪は、自分の胸の奥が不自然なほど激しく脈打っているのを、ただ静かに感じていた。
◇
下駄箱までの廊下は、下校する生徒たちの熱気で溢れていた。
自分の靴箱の前で上履きを脱いでいた澪は、ふと、数メートルほど離れた場所で靴を履き替えている背中に気づく。
炤だ。隣には夜一がいて、何かくだらない話をしているらしく笑い合っている。
靴を履き終わり、炤がふと立ち上がった瞬間——一瞬だけ、澪と視線がぶつかった。
ほんの何秒、お互いに認識した程度の、小さな視線の交錯。
しかし炤は、どこかわずかに動揺したようにぎこちなく視線を逸らし、靴箱をあとにした。
「ねえねえ澪〜、赤霧となんかあった〜?」
目ざとくそのやり取りを見ていた刹那が、人差し指でつつきながらニヤニヤと覗き込んできた。
「ううん、別に。さっき、教室でちょっとぶつかって喋っただけだよ」
「ふーん? そうなんだぁ笑」
刹那は悪戯っぽく笑うと、澪の腕に自分の腕を絡めて歩き出した。
「ねえ、刹那は……あの子(炤)のこと知ってるの?」
「ん? 赤霧? ああ、中学が一緒だったんだよね〜」
校門を抜け、街中の風を感じながら歩く。
「同じクラスになったことはあるけど、あたしも直接はあんま喋ったことないかな。あいつ、夜一と一緒に中学の時からめちゃくちゃモテてたんだよね」
「モテてたんだ……」
「そう! でもね、彼女できたって話は一回も聞いたことないんだよね〜。女子から告白されても、全部断ってたらしいよ?」
自分とは無縁の世界の話のようでいて、今日ぶつかった時の彼の熱い体温や、下駄箱で見せたぎこちない表情が脳裏をよぎる。澪はほんの少しだけ、胸の奥がざわつくのを覚ていた。
「あ、そうだ! 澪って紅茶好きでしょ? あたし超いい店知ってるんだけど、寄っていかない?」
「えっ……本当に? 行きたい!」
炤への小さなざわめきは、新しい友達との弾む会話の中に、心地よく溶けて消えていった。
◇
夕闇が、巨海町の街並みを深い蒼に染め上げてく。
刹那のお気に入りの紅茶店で存分に語り合い、笑顔で別れた帰り道。澪は一人、下校ルートである『花道公園』の脇に続く遊歩道を歩いていた。
昼間の賑やかさが嘘のように静まり返り、風が木々の葉を揺らす音だけが響いている。
澪の歩調は、一定だった。
——背後からの、微かな視線。
(……気付かないふりをするのも、ここまでね)
刹那と別れてからずっとついてきていた『気配』に対し、澪が足を止めようとした——その瞬間。
シューッ——!!
暗闇を切り裂き、鋭い風切り音が迫る!
見なくてもわかる。狙いは澪の首元。
澪は表情ひとつ変えず、すれすれのタイミングで最小限に首を傾げた。
バツンッ!と音を立てて後ろの樹木に突き刺さったのは、怪しく脈打つ**『イバラの矢』**だった。
「へぇ……僕に気づいてたの?」
街灯の光が届かない木々の影から、軽やかな足取りで一人の少年が姿を現す。
不敵な笑みを浮かべ、こちらを見下ろす謎の刺客。
澪は静かに振り返り、前髪の奥にある冷然とした眼光で少年を見据えた——。
(第4話・了)




