第2話:すれ違う視線と、鏡
チュンチュンと鳥のさえずりが響く、爽やかな朝。
昨日の激しい頭痛は、幸いにも朝には綺麗に引いていた。
新調したばかりの黒のブレザーとグレーのスカートの制服に身を包み、前髪とサイドを念入りに整えて右頬の火傷の痕を隠す。
鏡に映る自分に向かって、小さく頷いた。
「うん!大丈夫!……いってくるね!」
お父さんとお母さんに見送られ、私は新築の我が家を飛び出した。
潮風が心地よく吹き抜ける通学路を、少し緊張した足取りで歩いていく。
生まれ故郷とはいえ、10年ぶりの街だ。
周りを行き交う見知らぬ高校生たちの姿に、胸が少しだけ小さく高鳴った。
その時だった。
背後から、チリン、と自転車のベルの音が微かに聞こえた。
歩道の端に少し寄ろうと、何気なく振り返る。
坂道を滑り降りてくる一台の自転車が、私のすぐ横を通り過ぎようとしていた。
——あ。
その瞬間、世界の時間が、まるで極限まで引き伸ばされたようにゆっくりと流れ始めた。
自転車に乗っていたのは、一人の少年だった。
ブレザーの襟を風になびかせ、黒髪の毛先にほんのりとワインレッドを滲ませた男の子。
彼が、ふと私の方に視線を向けた。
澄んだ真紅の瞳が、私の青い目と、真っ正面からぶつかり合う。
——ドクン……っ。
心臓が、跳ね上がった。
ただのドキドキじゃない。胸の奥を、ぎゅっと雑に掴まれたような、切なくて、少しだけ痛い衝撃。
(え?……)
思考が停止する。
少年もまた、ハンドルを握る手に一瞬だけ力が入り、目を見開いたように見えた。
スローモーションの世界が終わり、自転車はそのままスピードを上げて坂の下へと走り去っていく。
(……今の、なんだったの?)
遠ざかっていく彼の背中を、私は胸を押さえたまま、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
なぜだか分からないけれど、涙が出そうなくらい、強烈な懐かしさが胸に込み上げていた。
◇
「ふぅ……なんとか間に合った」
なんとか学校に辿り着き、体育館での厳かな入学式を終えた私は、指定された1年A組の教室へと入った。
黒板に貼られた座席表を確認し、自分の席へと向かう。
(あ、私の席、ここだ)
窓側の、後ろから2番目。
ウインドウシートから海を見て育った私にとって、窓際の席は一番落ち着く特等席だった。
机の上に真新しい教科書を並べ、私はほっと息をついて窓の外を眺める。校庭の向こうに、きらきらと光る故郷の海が見えた。
ガラガラ、と教室の前の扉が開く。
新しいクラスメイトたちが、ガヤガヤと賑やかに教室に入ってきた。
私は外の景色に夢中で、誰が入ってきたのか、気にも留めていなかった。
トコトコと、誰かの足音が私の席の横を通る。
その人は、私のすぐ横を通り過ぎる瞬間、一瞬だけ足を緩めていた。
窓からの光を浴びて、静かに海を眺めている私の横顔を、その少年は息を呑んだようにじっと見つめていた。
けれど、私はその強い視線に、まだ全く気づいていない。
少年は、戸惑いを孕んだ真紅の瞳で私を見つめたまま、私の真後ろの席——1番後ろの席の椅子を静かに引いて、腰掛けた。
室内の空気がふっと変わった気配を感じて、私は何気なく後ろを振り返る。
「あ……」
小さく声が漏れた。
そこに座っていたのは、今朝、通学路の坂道で出会った、あの少年だった。
少年もまた、驚いたように小さく目を見開いている。
今朝、一瞬だけ交わした、あの引き剥がせない視線。
それが気のせいでも、偶然でもなかったかのように、私たちは再び同じ空間で、驚くほど近い距離で向かい合っている。
——瞳の鏡が、すべての再会だった。
私たちが完全に忘れてしまった自分達の……。
(第2話・了)




