第1話:海の見えるカフェと、揺らぐ記憶
窓際に設えられた、小さなウインドウシート。
そこに腰掛け、海外の古い家にあるような木製の窓枠に手をかける。
カチリ、と金具を外し、外に向かって勢いよく窓を押し開けた。
その瞬間、部屋の中に滑り込んできたのは、優しく、けれどどこか寂しげな潮の香りだった。
頬を撫でる風が、冷たくて心地いい。
「……この街に、帰ってきたんだ」
窓の向こうに広がっていたのは、まるで淡い水彩画のような、境界線の滲む空と海だった。
きらきらと午後の光を反射する青さを見つめながら、私はぽつりと呟いた。
10年ぶりに戻ってきた、私が生まれた街。
帰って来て嬉しいはずなのに、帰って来た理由には察しがついている。本当にこの世界は綺麗事だけでは回っていない。
高校進学を機に帰ってきたこの場所で、今日という日は、家とお祝いの引っ越し作業で慌ただしく過ぎ去っていった。
新築特有の、い草と新しい木材の匂いが残る、2階建ての我が家。
その同じ敷地内、少し離れた場所に、来週から開店する予定のカフェの建物がある。
「パパ、ママ。内装の確認はこれで大丈夫そう?」
お店の店舗スペースで、お父さんとお母さんと三人、来週の開店に向けて準備を進める。
夕暮れ時。オレンジ色の柔らかな光が、お店の大きな窓と木製の扉を優しく彩っていた。
カランコロン、と入り口のドアベルが軽やかな音を立てる。
「お邪魔しまーす。おかえりなさい、知世、清隆」
開いた扉から入ってきたのは、一人の女性だった。
夕日の影から歩み出てきたその人は、足元に佇む私に視線を留めると、ひどく愛おしそうな、懐かしそうな目を向けた。
「——それと、澪。大きくなったわねぇ」
私をじっと見つめる、優しい眼差し。
けれど、私の胸の奥に浮かんだのは、温かさではなく、冷たい違和感だった。
(……え? この人、誰だろう……?)
戸惑う私をよそに、お母さんが嬉そうに声を弾ませて振り返る。
「あら! 久しぶりね、朱実! 来週から開店だから、もうバタバタなのよ。——あ、澪は覚えてないかもしれないね? 裏の家に住んでる朱実さんよ」
裏の家の、朱実さん。
お母さんの言葉に、私は失礼のないよう、慌てて作り笑いを浮かべて頭を下げた。
「こんばんは。これから、よろしくお願いします」
「ふふ、そんなに畏まらなくていいのよ。——それにしても、こんなに綺麗なお嬢さんになって。元気そうで本当に本当によかったわ」
朱実さんは、やっぱりどこか泣き出しそうなほど懐かしそうに、私の顔を見つめている。
その時だった。
朱実さんの顔を見て、その声が鼓膜に届いた、まさにその瞬間。
——ズキッ!!
「……っ」
頭の芯を、冷たい針で高速で突き刺されたような、猛烈な激痛が走った。
思わず視界がぐにゃりと歪む。
(……なにこれ、頭が痛い……っ。……この人、なんなの? この人の目を、声を聞いた瞬間……)
あまりの痛みに蹲りそうになるのを、必死で堪える。
引っ越しの疲れが出たのかな。それとも、明日からの新しい生活への緊張のせいだろうか。
私は何事もなかったかのように笑顔を張り付かせ、喉の奥から声を絞り出した。
「……ありがとうございます」
痛むこめかみを押さえながら、お母さんの方を振り返る。これ以上、この場所にいたら顔が引き攣ってしまいそうだった。
「お母さん、私、明日の準備をしてくるね。そのままもう寝ちゃうから」
「あ、ええ。お疲れ様、澪。ゆっくり休み通してね」
朱実さんにもう一度小さく頭を下げて挨拶をすると、私はお店を後にした。
お店と家を繋ぐ、一本の渡り廊下のような通路。そこを逃げるように渡り、自分の部屋がある2階建ての家へと足を進めた。
部屋に帰り着き、ズキズキとした微かな痛みを引きずりながら、私は明日の準備を始める。
明日は、高校の入学式だ。
生まれ故郷の街とはいえ、10年ぶりの場所。新しい学校、初めて出会う人たち、全く違う環境。
(……大丈夫、ただの緊張だよ)
自分に言い聞せるように、自室の窓から外を見上げる。
夜の帳が下りた海は、まるで巨大な鏡のように、夜空にまたたく無数の星々を静かに映し出していた。
明日から始まる新しい日々の中に、まさか、私を追う不穏な影と、すべての運命を狂わせる始まりが待っているなんて、この時の私はまだ、知る由もなかった。
(第1話・了)




