第10話:月光の庭園と揺れる紺青
部屋の鏡の前。
深海の底を思わせる深い青から銀世界へと移ろうグラデーションのドレスに袖を通し、澪はそっと自分の顔に触れた。
今夜は仮面舞踏会。目元を覆う美しい仮面がある。
(仮面で隠れるなら……今夜だけは、いいよね)
いつも耳の高さでコンパクトにまとめていたおだんごを解く。
ハサミを入れたことのない髪がふわりと肩を滑り落ち、お尻の上あたりまで届く美しいブルーブラックのロングヘアが露になった。
その長い髪を低い位置で大人っぽく束ね、シンプルなハーフリボンをあしらう。
そして——ずっと右目の傷を隠し続けていた重い前髪を綺麗に横へと流し、整えた。
鏡に映っていたのは、両方の瞳を清らかに輝かせた、自分でも見たことのない少女の姿だった。
◇
中央絶対都市『アリストテレス』。
無為城『エーテル・レイライン』の大ホールは、色とりどりのドレスと絢爛な装飾、そして優雅な音楽に包まれていた。
仮面を着けた大勢の生徒が行き交う中、澪は人混みの奥に見えた華やかなピンクのドレス姿を見つけ、自ら声をかけた。
「……刹那?」
「ん? ……えぇぇっ!? 澪っ!?」
振り返った刹那が、目を見開いて叫んだ。
「ちょっと待って、すごすぎるんだけど! めちゃくちゃ綺麗!! あまりに見惚れちゃって、一瞬誰だか分からなかったよ〜!」
「ふふ、ありがとう。刹那のドレスもすごく素敵だよ」
互いのドレス姿を褒め合って盛り上がっていると、会場の照明が少しだけ落ち、ステージ中央にスポットライトが当たった。
壇上に現れた都市長の威厳ある開会宣言と、春の訪れを祝う格調高い言葉がホールに響き渡る。
拍手が湧き起こり、再び歓談の時間へと戻った。
「せっかくの舞踏会だし、澪もダンス踊りに行かない?」
「ううん、私はやめとくよ。……実は、こういう賑やかな場所、少し苦手で」
「そっか。じゃあ無理しないでね!」
刹那にひとこと断りを入れ、澪は静かな空気を求めてホールから庭園へと続く大きな扉を開けた。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を心地よく撫でる。
庭園のテラスへ一歩踏み出した瞬間——そこには、すでに先客がいた。
黒いフォーマルなスーツに身を包み、仮面をつける背の高い男子生徒。
視線が交差した瞬間、炤の動きがピタリと止まった。
いつもと違う、流れるような長い髪。前髪を上げて覗く美しい二つの瞳。そして深海のドレスを纏った澪の幻想的な姿に、炤は息をのむように固まっていた。
「……深月も、風にあたりに来たのか?」
静かに静寂を破った炤の声。
「うん。こういうパーティー、少し苦手で……」
「俺もだ。人混みが苦手なんだよ」
「そうなんだ……」
仮面越しに、お互いから目が離せない。
(どうして仮面を着けているのに、私だってすぐに分かったんだろう……)
胸の奥がトクトクと甘い音を立てる。
「……少し、歩くか?」
「うん……」
月明かりと星空に照らされた庭園を、二人は並んで歩き出した。
静かな夜風の音と、水路を流れる水のせせらぎ。隣を歩く炤の存在感に、澪の胸は高鳴りを抑えきれずにいた。けれどそこには、息が詰まるような心地よい静寂が流れていた。
やがて、会場へと戻る広大な石造りの階段前まで辿り着く。
炤が一足早く階段を二、三段上がり、ふと振り返ると、下で見上げる澪に向けてそっと右手を差し伸べた。
一瞬戸惑いながらも、澪がその手へ自分の指先を重ねた——その瞬間。
ドクン、ドクン——ッ!!
不気味で重苦しい鼓動が、二人の全身を鋭く突き抜けた。
脳裏に一瞬だけフラッシュバックする、赤々と燃え盛る炎と、荒れ狂う絶望の光景——。
「……っ!?」
手を通した一瞬の異変。だが、二人は何事もなかったかのように平静を装い、ゆっくりと階段を登り切った。
大ホールの扉の前。手を放し、澪は振り返って炤を見つめた。
「ありがとう、赤霧くん」
「あぁ」
再び、お互いの瞳から目が離せなくなる。
その時、どこからか一陣の夜風が吹き抜け、澪の長い髪をふわりと優しくなびかせた。
月光に照らされて美しく揺れる髪を見つめながら、炤は低く、噛みしめるように呟いた。
「……お前の髪、綺麗だな」
(第10話・了)




