二日目の朝
深い眠りから目が覚めた。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
「……よく寝た」
天井の木目をぼんやり眺める。
異世界へ来てまだ一日も経っていない。
それなのに、随分馴染んでしまった気がする。
目を閉じ、地球のことを考える。
(昨日は金曜日だったから、今日は土曜日か)
今頃、叔母はどうしているだろう。
頼んだ物を買ってこなかった姪を。電話しても応答しない事を。
普通の家族なら心配して警察へ相談するかもしれない。
だけど、あの人は違う。
「怒ってるだろうな」
苦笑が漏れる。
自分が頼んだ用事を無視された。
電話にも出ない。
だから腹を立てている、きっと。
「どこ行ってたのよ!」「信じられない!」「人様に迷惑かけて!」
そんな声が簡単に想像できた。
でも胸は少しも痛まなかった。むしろ、不思議なくらい静かだった。
今までなら罪悪感に押し潰されていただろう。
謝らなきゃ。急いで帰らなきゃ。
そう考えていたはずだ。
だけど今は違う――帰りたくない。
あの生活へ。あの毎日へ。
もう戻る理由が思いつかなかった。
(……会社も)
次に浮かんだのは職場だった。
月曜日に出勤しなければ、連絡がくるだろう。
無駄に騒ぎになるのは面倒だ。
「退職届、書こう」
《地球所有》なら、自宅にある紙も封筒もボールペンも取り寄せられる。
こちらで退職届を書き、職場のポストへ直接投函。
不備や手続きも、もうどうでもよかった、自分の意思を示せていればそれでいい。
「荷物も空にしとこうかな」
自宅アパート。狭いワンルーム。
家具も家電も、全部自分で買い揃えたものだ。
けれど、この世界で生活するなら置いておく意味はない。
《所有物の取り寄せ》で《一時置き場》に全部収納しておけばいい。
ベッドも冷蔵庫も、本も食器も。 必要な物だけをこちらへ移し、空っぽの部屋だけを残す。
「夜逃げ、みたいに見えるかな」
少しだけ笑った。
実際は夜逃げではない。異世界逃げだ。
誰にも見つからない場所へ逃げる。
口座から貯金も全部引き出しておこう。
家賃が引き落とせなくなれば、管理会社が部屋を確認し、住人が消えたと判断する。
その後はもう、どうでもよかった。
考えれば考えるほど、地球での自分が遠ざかっていく。
「……とりあえずご飯食べようかな」
今すぐ決めなくてもいい。
窓の外からははじめて聴く鳴き声が聞こえていた。
地球とは違う朝のはじまり。
体を起こし、大きく伸びをする。
未開封のペットボトルで口をすすぎ、雑に顔を洗う。
水が眠気を一気に追い払ってくれる。
タオルで顔を拭き、髪を手ぐしで整える。
部屋の鍵を閉めて廊下へ出る。
木造の廊下の先、お手洗いで用を済ませる。
階段を降りると、一階の食堂から湯気と香ばしい匂いが流れてくる。
「おはようございます!」
昨日、呼び込みをしていた少女が元気よく手を振った。
「おはよう」
「朝ご飯できてますよ!」
促されるまま席へ着く。
すぐに、木製の盆に朝食が運ばれてきた。
深めの器には湯気を立てるスープ。
中には角切りの根菜や豆、葉物野菜、それに小さく裂いた肉まで入っている。
具がたっぷりで、見た目以上に食べ応えがありそうだった。
小皿には赤や黄色の一口大の果実が並んでいる。
「いただきます」
まずはスープを一口。
優しい塩味が口いっぱいに広がった。
野菜の甘みと肉の旨味がしっかり溶け込んでいて、どこかミネストローネを思わせるような、体に染みる味だ。
「美味しい……」
思わず声が漏れる。
誰かが作ってくれた温かい料理をゆっくり味わって食べるなんて、いつ以来だろう。
会社勤めの朝は、コンビニのおにぎりを急いで詰め込むか、栄養ゼリーで済ませる毎日だった。
時間に急かされず、朝食を楽しめる。
そんな当たり前のことが、贅沢だった。
食後に果実を口へ運ぶ。
周りを見ると薄い皮ごと食べられるらしく、噛んだ瞬間に果汁が弾けた。
「……甘酸っぱい」
リンゴとプラムを足したような味。
爽やかな酸味が口の中をさっぱりさせてくれる。
全部食べ終える頃には、お腹も心も満たされていた。
ふと視線を上げると、食堂の隅に木製のラックがある。
そこへ何枚かの紙が重ねて置かれていた。
紙質は少し粗く、日本の新聞ほど大きくはない。
冊子というより、薄い紙を数枚綴じただけの簡素なものだ。
宿泊客の一人が食べながら読んでいる。
(新聞……みたいなものかな)
一枚手に取ると、昨日街で見た文字で書かれている。
読めることがありがたい。
内容へ目を通していく。
まず目に入ったのは、近隣都市との交易の記事だった。
街道沿いで魔物の目撃情報が増えたため、護衛の依頼が増加しているらしい。
その影響で護衛を雇う商人が増え、一部の商品の価格が少し上昇していると書かれていた。
(魔物……)
次のページには冒険者組合の募集。
薬草採取。荷物運び。
街道の見回り。討伐依頼。
仕事内容が簡単に紹介されている。
どうやら、この世界では冒険者という職業が存在するようだ。
さらに読み進めると、市場で人気の商品や、収穫祭の日程、新しく開店した店の紹介まで載っている。
日本の新聞というより、地域情報誌に近い。
政治よりも生活に密着した話題が多かった。
最後のページには、小さな求人欄まである。
「従業員募集」「見習い歓迎」「住み込み可」
そんな文字が並んでいた。
(働こうと思えば、色々ありそう)
まずはこの世界の常識を知りたい。
その上で、安全に暮らす方法を探そう。
新聞をラックへ戻し、私はゆっくりと立ち上がった。
異世界での二日目。
今日は、この街をもっと知る一日にしよう。




