夜明け
チキに促され、国王陛下はゆっくりとマンション敷地へと、足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「……暖かい」
陛下は思わず足を止め、小さく息を漏らす。
外は肌寒い風が吹いていた。外套を羽織っていても、ここまで来るのに冷えを感じるほどだったというのに、今はまるで春の日差しに包まれているかのような心地よさだった。
「陛下?」
背後の宰相が不思議そうに声をかける。
陛下は振り返り、少し驚いたような表情で答えた。
「……暖かいぞ」
「はぁ?」
半信半疑のまま宰相も、建物の中へ足を踏み入れる。
「――なっ!」
冷たい外気と、穏やかな暖かさとの境目が、まるで見えない壁のようにはっきりと存在していた。
思わず振り返り、外へ片足を戻す。
ひやり、と冷たい風。
再び中へ踏み込む。
ふわり、と身体を包み込む暖気。
「……暖かいです」
宰相は目を見開いたまま、何度か境界を行き来する。
暑すぎず、寒すぎない絶妙な気温。
その様子を見た近衛騎士団長も、護衛たちも次々と建物の中へ足を踏み入れた。
「おおっ!」
「暖かい!」
「外とはまるで別世界だ……」
「風が一切入ってこないぞ」
驚きの声があちこちから上がる。
中へ入った者は皆、思わず外を振り返り、もう一度入口へ歩いては境界を確かめ始めた。
「これほど広い範囲を一定の温度に保つ魔道具など聞いたことがない……」
側近が呆然と呟く。
レオン先生は穏やかに微笑みながら説明した。
「室温を自動で調整する魔道具です。夏は涼しく、冬は暖かく保たれます。建物全体が常に快適な環境になるよう設計しました」
「夏も……?」
陛下は思わず聞き返す。
「はい。季節を問わず、一年中です」
その言葉に、その場にいた全員が絶句した。
驚きが収まらぬまま、一行は暖かな廊下を進む。
チキは部屋の扉を開けると、何の気負いもなく壁に取り付けられた小さな板へ指を伸ばした。
パチリ。
天井の照明が灯り、室内を明るく照らし出す。
その様子を見た陛下は、小さく目を細めた。
「……なるほど。これが報告にあがっていたものか」
レオンから提出された報告書には、『魔力の有無を問わない魔道具の使用』と記されていた。
仕組みも、利便性も理解したつもりだった。
だが――実際に目の前で、呼吸をするような自然さで使う姿を見ると、受ける印象はまるで違う。特別な魔道具ではなく、生活の一部としてそこに存在している。
宰相も室内を見回し、静かに呟いた。
「王城では、照明の魔道具は貴重品として必要な場所にだけ設置し、専門の人員が取り扱っています」
だが、この建物では違う。
玄関にも、廊下にも、居間にも。
人が使う場所には、ごく当たり前のように同じ魔道具が備え付けられている。
「まさか、全部屋に設置されているのか?」
近衛騎士団長が思わず尋ねる。
「はい。寝室も、お風呂も、トイレも、物置も全部です」
チキは当然のように答えた。
「夜になれば、必要な場所だけ点けて、使わなければ消します。それだけですよ」
あまりにも当然のような口調に、その場の全員が言葉を失った。しばらく呆然と照明を見上げていた一行だったが、それからも驚きは尽きなかった。
台所では魔石を用いほぼ無限に出る水に驚き、大きな箱を開けた瞬間の冷気に目を剥く。
「冷たい!この箱の中は氷のようだ」
「食材を長持ちさせる魔道具です」
中には肉や魚、野菜、果物が整然と並び、どれも新鮮な状態で保管されている。
「これほど大量の食材を腐らせず保存できるのか」
「水と食料……遠征の常識が変わるぞ」
兵站を預かる近衛騎士団長は、誰よりも真剣な表情で室内を見回していた。
洗面所では衣類を入れて蓋を閉めると、ゴウンと唸りだす箱。
「これは?」
「衣類を洗い、汚れを落として、最後は乾かしてくれます」
「……これに入れるだけで?」
「はい」
護衛の一人が、ぽつりと呟いた。
「……妻が見たら泣いて喜ぶな」
その一言に場の空気がふっと和らぎ、小さな笑いが広がる。
「確かに」「我が家にも欲しい」「王城にも必要ではありませんか?」「全部必要だ」
そんな声があちこちから上がり、一行は興奮冷めやらぬまま、五階にある最上階へと足を進めた。
「こちらが操縦室です」
レオン先生が扉を開ける。中には大きな前面窓と、複雑な魔法陣が刻まれた制御盤が並んでいた。中央には淡い青色に輝く巨大なラピスラズリの魔石が据えられ、静かな光を放っている。
「実際に飛んでみましょう」
「おおっ」
陛下が目を輝かせる。
レオン先生が制御盤に手を添え起動する。
低く響く振動。ゴォォォ……。
建物全体がわずかに震え、ゆっくりと地面を離れていく。
「浮いたぞ……!」
陛下と側近たちが窓へ駆け寄る。
高度が上がるにつれ、王城の屋根が眼下へ遠ざかり、やがて王都全体が視界いっぱいに広がった。
石造りの街並み。 碁盤の目のように伸びる大通り。 遠くに私たちが整備した魔導列車が走っていくのが見える。
「おお……」
誰もが言葉を失った。
しばらくの間、聞こえるのは風の音だけだった。
やがて陛下が静かに口を開く。
「……まさかこのような光景を、この目で見られる日が来ようとは」
側近たちも無言で何度も頷く。
「まるで鳥になった気分です……」
「戦だけでなく、視察や災害時の確認にも役立ちますな」
「夢のような魔道具だ……」
マンションは王都の上空をゆっくりと一周した。皆、飽きることなく窓の外へ見入っていた。




