地球Side研究者
三週間前、警視庁から送付されてきた土壌サンプルが全てのはじまりだった。
それは、ごくありふれた鑑定依頼だった。
採取場所は、ある失踪事件のアパート。 容器には「靴底付着土壌」とだけ記されていた。
受付は分析部へ回した。
土壌鑑定は珍しい業務ではない。
粒径、鉱物組成、花粉、微生物相、含有元素――複数の特徴を照合すれば、採取環境をかなりの精度で推定できる。
最初に異変へ気付いたのは、鉱物分析担当だった。
「主任、少々よろしいでしょうか」
「何かあったか?」
「この回折パターンなんですが」
主任はモニターを覗き込み、しばらく無言になった。
「……校正は?」
「分析前に実施済みです」
「標準試料は正常だったか?」
「すべて規定値内です」
「測定をやり直して試してくれ」
「すでに三回やりました。同一結果です」
主任は少し考え、続ける。
「別装置は」
「第二分析室でも確認しました。再現しています」
その一言で、部屋の空気が変わった。
分析装置の誤差ではない。サンプルそのものが、異常なのだ。
午後になると、元素分析の結果も届いた。
「元素組成は?」
「既知元素のみです」
「未知元素は含まれていない?」
「はい」
主任はわずかに安堵した。
「なら説明は――
「できません」
報告した研究員は即座に否定した。
「構成元素は既知ですが、この結晶構造は既知の熱力学では安定しません」
「……つまり?」
「現在の鉱物学では存在し得ない鉱物です」
部屋が静まり返る。
「……解析条件を疑え」
「分析条件はすべて変更しました」
「試料汚染は?」
「否定済みです」
「サンプルの取り違え」
「搬入から現在まで、保管履歴に問題はありません」
主任は腕を組んだ。
「電子顕微鏡は」
「すでに予約済みです」
「ラマン分光」
「現在解析中です」
「透過電子顕微鏡も追加してくれ」
「直ちに手配します」
翌日、結果はすべて一致した。
装置が変わっても、分析法、担当者が変わっても。
導き出される結論だけは変わらない。
既存の鉱物データベースに一致なし。
今度は微生物分析班から連絡が入った。
「主任」
「今度は何だ」
「細菌が登録されている種と一致しません」
「新種か?」
「その可能性があります」
研究員は泣き笑いのような顔で告げた。
「確認できただけでも二十種類以上です」
「……は?」
「全部、新種です」
主任は言葉を失った。
「……そんな事が、あるわけが」
分析室には重苦しい沈黙が流れる。
もし、この土が日本国内で採取されたものなら。
それは土壌学だけでなく、鉱物学、地質学、微生物学──あらゆる分野の教科書を書き換える発見になる。
やがて主任は受話器を取り上げた。
「受付か?警視庁に追加サンプルの有無を確認して、あれば至急送るように手配してくれ」
主任が静かに言うと、若い研究員が驚いた。
「まだ結論も出ていないのに、ですか?」
「だからだ」
主任は資料から目を離さず続けた。
「この試料は、一つ解析するだけでも論文が何本書けるか分からん。鉱物学、地質学、微生物学、結晶学……今現在でも少なくとも四つの分野に影響する。
この量では到底足りない」
主任の声には力が籠もっていた。
「分析を進めるたびに試料は失われる。再現性を確認するには、追加サンプルが絶対に必要だ」
翌日の昼過ぎ、臨時の検討会が開かれた。
会議室には各分野の研究者が集められた。
「諸君の見解を聞きたい」
主任が得られた資料データを前に告げる。
一人が口を開いた。
「率直に申し上げます。私は三十年以上この分野に携わってきましたが、このような試料は初めて見ました。未知鉱物という言葉で片付けるのは簡単ですが、このサンプルには未知の結晶相が多すぎます。一つの新鉱物を発見したという話では済まないのです」
そう口火を切った教授に、別の研究員が続ける。
「私も同感です。しかも微生物分析の結果まで異常です。既知種との一致率が極端に低い菌が複数確認されています。もし解析が正しければ、この土壌は鉱物学だけでなく微生物学にも大きな影響を与えます」
議論は二時間続いた。
だが誰一人として、矛盾なく説明できる仮説を提示できない
現時点では解析不能な未知の土。
部屋に沈黙が流れる。
やがて主任が、静かに口を開いた。
「……困惑しているのは私も同じだ。しかし、それ以上に研究者として興味を抑えられない。このサンプルは、未知の環境を示している可能性が高い。国内の未調査地域なのか、極めて特殊な地質環境なのか。
それとも私たちの前提そのものが間違っているのか、現時点では何一つ断定できない」
そして資料を閉じる。
「だが、一つだけ断言できる事がある」
主任の眼差しが鋭く光る。
「この数グラムの土は、私たちがこれまで分析してきた何万という試料の、どれとも違う。もし追加サンプルが入手できるのであれば、私は今抱えている研究をすべて後回しにしてでも解析したい。それほどまでに価値のある試料だ」
部屋の誰も異論を唱えなかった。
通じない常識に困惑していた。
それでも研究者たちの胸には、戸惑いよりも強い感情が芽生えていた。
未知を知りたい。
その欲求だけは、その場にいる全員が共有していた。
二日後、主任の机に一本の電話が入った。
「警視庁鑑識課です。追加サンプルの件でご連絡しました」
思わず身を乗り出す主任。
「採取時に保存していた分を、そのままお送りします」
主任は歓喜した。
「ありがとうございます。それで、採取地点についても確認したいのですが」
「あぁ、はい」
「現場には、いつ立ち入れますか」
一瞬の沈黙。
電話口の刑事が少し申し訳なさそうな声になる。
「……申し訳ありません。現場はすでに清掃されています」
「……え?」
「失踪事件の現場ではありますが、一般の賃貸アパートです。鑑識作業終了後、管理会社へ引き渡され、清掃業者が入りました」
主任の表情が固まる。
「つまり……あの土壌は」
「鑑識が採取・保管した分以外は、処分されたことになります」
「……そんな」
受話器を持つ手から、力が抜ける。
電話を切ったあと、主任はしばらく動かなかった。
「主任?」
若い研究員が恐る恐る声を掛ける。
主任はゆっくりと顔を上げ、小さく息を吐いた。
「もしその現場が、この土壌の唯一の採取地点だったとしたら……」
誰も口を挟めない。
「私たちは、世界で最も価値のある試料を、掃除機に吸わせてしまったのかもしれない」
分析室は、水を打ったように静まり返った。




