けじめ
机の引き出しから便箋を取り出し、ペンを走らせる。
会社名。
所属部署。
『退職届
一身上の都合により、○月○日をもちまして退職いたします。』
事務的な文章を淡々と書き進める。
最後に名前を書き、印鑑を押す。封筒へ入れて封をする。
形式も整っていない、不備だらけの退職届だ。それでも、もうこちらの社会のルールに合わせる気はなかった。
続いてメモ用紙を一枚取り出す。
そこへ大きな文字で一行だけ書いた。
『探さないで下さい』
理由も、行き先も書かない。
どうせ何を書いても納得されることはないだろうから。
そのまま机の上へ置いた。
「さてと」
スキルを開く。
【所有物を一時置き場に収納】
部屋全体が青白く表示された。
一覧には家具や家電。
衣類。本。食器。食料。
工具。タオル。布団。棚。照明。
ありとあらゆる物が対象になっていた。
「全部」
そう呟く。
『一括収納しますか?』
「はい」
次の瞬間。
部屋中の物が一瞬で光になって消えた。
わずか数秒で部屋は空っぽになった。
フローリングだけがむき出しになった空間は、引っ越し後の部屋よりも何もない。
収納一覧を見ると、何百という項目が並んでいた。
必要なら異世界でいつでも取り出せる。
「便利すぎるな……」
思わず苦笑する。
生活用品を一から揃える必要がない。
この能力がある限り、異世界での暮らしは格段に楽になるだろう。
辺りを見渡した後、玄関へ向かう。
その時ようやく靴を履いたままだった事に気付いた。
室内を土足で歩いてしまった事を申し訳なく思う。
外へ出て静かにドアを閉める。
鍵を掛けたあと、玄関のドアポストへとそっと鍵を入れた。
人気のない廊下を歩きながら、一度だけ振り返る。
そこにあるのは、もう自分の家ではなく、ただの空っぽの部屋だった。
「さようなら」
誰に聞かせるでもなく呟き、私は静かにアパートを後にした。
そのまま、最寄りのコンビニへ向かう。
昼下がりの店内には数人の客がいる。
雑誌コーナーで立ち読みをする会社員。
レジには学生らしい男女。惣菜を眺めるお年寄り。
いつもと変わらない、どこにでもある日常の風景だった。
私は店の奥にあるATMの前へ立つ。
財布からキャッシュカードを取り出し、機械へ差し込んだ。
暗証番号を入力し、残高照会を開く。
画面に表示された金額は、決して多くはなかった。
それでも私が数年働いて貯めた金だ。
私は迷わず『全額引き出し』を選択する。
ATMが機械音を立て、紙幣が束になって出てきた。
それを封筒へ入れ、鞄へしまう。
次に会社へ行くために駅へ向かう。
通い慣れた、でももう来る事は早々ないだろう道。
休日のオフィス街は人通りも少ない。
ビルの窓には明かりもほとんどなく、静まり返っている。
職場の入口脇に設置された郵便受けの前で立ち止まる。
鞄から退職届を取り出した。
これを投函すれば、もう会社員ではなくなる。
「……お世話になりました」
感謝というより、区切りの言葉だった。
封筒を郵便受けへ滑り込ませる。
カタン。
乾いた音が響く。
それだけで、胸の中にあった何かがすっと軽くなった。
これで終わりだ。
未練はない。
引き留められる未来も、謝罪する未来も、もう存在しない。
私は会社へ背を向けた。
人気のない路地へ入り、人目がないことを確認してから異世界への転移を選択する。
白い光が身体を包み、目を開けると宿屋の部屋だった。




