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モリアハ  作者: Bitternectar
3/6

第3話「はじめまして」

***


老人はくたびれたカンカン帽をかぶり直し、もう一度こちらを見た。


まず、胸を。


それから、首を。


小川で血まみれの若造を拾ったにしては、その目に驚きはほとんどなかった。


視線を落とす。


チュニックは裂けていた。どす黒く濡れた布切れが、肌にべったり貼りついている。この血の量なら、まともな人間なら誰でも信じるだろう――ここで誰かが死んだ。それも、ずいぶん乱暴なやり口で、と。


だが、胸は無傷だった。


穴もない。


切り傷もない。


かすり傷ひとつ、ない。


指で肌をなぞる。なめらかで、あたたかい。縫われたのでも、癒えたのでもない。ただ、新しく張り替えられたような皮膚だった。


手が勝手に脇腹へ滑る。


膿んでいたはずの傷も、消えていた。


残っているのは、汚れた血の跡だけ。それと、痛みの記憶――肌よりもっと奥、指の届かない場所に。


「クソ……なんだよ、これ……」


「坊主」老人が言った。「では次は、どうやって衛兵から逃げおおせたのか、聞かせてもらおうか」


顔を上げた。


老人は川岸のすぐそばにしゃがみこんでいた。痩せて、古びた外套をまとい、帽子の下から白髪をはみ出させている。見た目は、どこにでもいる田舎の年寄りだ。若い者に小言を言い、網を繕い、なにか草っぽいものを飲んで、あと二十年もすれば炉端の長椅子で死んでいく――そういう類の。


だが、目つきだけは、そうではなかった。


そういうものを前にも見たことがある、と言いたげな目だった。


日差しが目に刺さる。水が背を冷やす。小川のなかで間抜けな格好のまま、考えは互いに絡まっては、すぐにほどけて散っていった。


チュニックを見て察したのか?


「お前の首には印がある」老人は言った。「喉峡の衛兵がつけるものだ。ひと目で分かるようにな――こいつは正義の手から逃げた咎人だ、と」


喉峡。


その一語だけで、胸の奥で何かが鈍く跳ねた。


腹ばいになり、水の穏やかな一角まで這った。そこは流れがほとんど止まっていて、濁った水面は鏡の代わりくらいにはなる。


覗きこむ。


そして、俺の顔は、そこになかった。


最初は、水が揺れているのだと思った。まばたきをする。もっと顔を近づける。


違った。


映ってはいた。


髪はあった。首もあった。肩もあった。体に貼りついた薄汚いチュニックさえ、ちゃんとあった。


顔だけが、なかった。


目と鼻と口があるべき場所に、ぼやけた何かが横たわっていた。染み。光の、狂った動き。水が人間のかたちを覚えていながら、それがどんな人間だったかを忘れてしまったような。


喉の奥から、短く、みじめな呻きが漏れた。


頬に触れる。


指は肌を見つけた。頬骨。唇。鼻。すべて、あるべき場所にあった。


ただ、水だけが、それを認めようとしなかった。


首には古い傷跡が黒く残っていた。最初に思ったような、ただの切り傷ではない。ぎざぎざの瘢痕が細い環になっている。ところどころ小さな刻み目に食いこんで、有刺鉄線を巻きつけ、肉に食いこむまで放ってから外したような跡だった。


「茨の冠かよ」呟いた。「これ以上、何を寄こす気だ……」


「茨の?」老人がわずかに眉を上げた。「そんな呼び名は、聞いたことがないな」


首を彼のほうへ向けた。


しばらく、どちらも黙っていた。


聞きたいことは、一度に全部あった。喉峡のこと。ヴルダラクのこと。マリヤのこと。あの女が俺から濡れて生きた何かを引きずり出したはずなのに、なぜ心臓がまだ動いているのか、ということも。


だが、真っ先に口から這い出てきたのは、別の問いだった。


「爺さん……俺の顔、何かおかしいか?」


老人は目を細めた。


それから、鼻で笑った。


「血と泥を落とせば、村の娘っ子らに好かれるくらいの顔はしとるよ」


なるほど。


つまり、これが見えているのは、俺だけだ。


実に心が安まる。まったく結構なことだ。


「まともに質問に答えてくれないか」


「お前も、俺の質問には答えとらんぞ、若いの」


老人はカンカン帽を直し、立ち上がった。膝が、こきりと小さく鳴った。


「だが、まずは川から上がることを勧める。衛兵から逃げたあとに水に浸かっているのは、あまり賢い作戦とは言えん」


たしかに。


俺は小川に転がっているんだった。


用心しながら身を起こす。体に返ってきたのは、痛みではなく、ひどいだるさだった。それは痛みより悪かった。痛みなら、少なくとも自分の身に何が起きたかを教えてくれる。だがこの体は、大したことなど何もなかったとでも言いたげに振る舞っていた。死んで、生き返って、顔もまともに映らないまま目を覚ましただけだろう、とでも。


日が肩をあたためる。あたりには草と、濡れた土と、若葉の匂いが漂っていた。どこか遠くで鳥が鳴いている。


檻と、血と、夜の森と、錆の匂いのあとでは、この世界はいっそ腹立たしいほど心地よく見えた。


「俺はアスゴルドだ」と言った。名前は、口のなかで見知らぬ小石のように響いた。「で、正直に言うと――どこから来たのかも、なんで檻に入れられてたのかも、どんな罪を犯したのかも、覚えてない」


マリヤのことは言うな。


契約のことは言うな。


心臓のことは言うな。


母さんは、俺が嘘をつくと、いつも見抜いた。ほんの少し視線を長く止めたり、手を動かしたり、言い方があまりに平坦だったりすれば、それで終わりだ。真実を隠した引き出しを、もう開けてしまったような目で俺を見るのだった。


無理やり、落ち着いて老人を見る。


「どうやってここに来たのかも、分からない。森に入る前で最後に覚えてるのは、頭を殴られたことくらいだ。同房の連中には、俺の頭がまだ無事すぎるように見えたんだろう」


これは、ほとんど本当だった。


嘘は、芯に本当を混ぜると折れにくい。


老人は帽子のつばの下から俺を見ていた。


「面白いな、坊主。実に面白い。こんなひょろついた若造が、ヴルダラクから逃れられたとは、想像がつかん」


逃れる。


いい言葉だ。


まるで俺が、ただ道を間違えただけみたいな。


「まあ」と老人は続けた。「今ここで、それを問い詰める気にはならんがな。俺の名はゲイル。釣りは後回しだ。まずはお前を、まともな格好にしてやらんとな」


背を向け、小川から離れて歩き出す。


さほど速くはない。年寄りが年寄りのままでいられる程度に。


「よろしく頼むよ、ゲイル……」


振り返った。


緑の野。若い森。目が涙ぐんでくるほどの日差し。


その景色は、檻から見たものとは似ても似つかなかった。


そして何より――あの山だ。


もう、ほとんど見えない。


細く、青ざめて、空のきわにかろうじて残る影。あまりに遠くて、大地の一部というより、地平線についた汚れた染みのようだった。


いったい、どれだけ流されたんだ、俺は。


ゲイルは少し離れた場所で足を止め、問うようにこちらへ首を回した。


後を追った。


***


長いあいだ、森の小道を歩いた。


しかも、二人きりではなかった。


蚊の大群が、付き添っていた。


数匹のいやな奴が耳もとで羽音を立てて人生を台無しにする、というありふれた群れではない。そうじゃない。この吸血鬼どもは、森じゅうでただ一つの温かい肉の塊が俺だ、と決めてかかっていた。顔にたかり、首にたかり、袖の下に潜りこみ、指を、耳を、頬を襲った。


払いのけ、自分の肌をひっぱたき、一分ごとに、水疱瘡と疥癬と人生の選択ミスに同時に見舞われた男へと近づいていった。


そのうち、妙なことに気づいた。


ゲイルには、奴らは近寄りもしないのだ。


一匹たりとも。


蚊は、老人のまわりの見えない壁にぶつかっては、すぐさま脇へ弾かれていく。


「なあ爺さん」首の一匹をまた叩き潰しながら言った。「蚊ってのは、古びた爺さんより、若い血のほうがうまいらしいな」


にやりと笑われた。


「いや、坊主。奴らはただ、結界を越えられんだけだ」


「結界?」


ゲイルは、人間にはなぜ口があるのかと訊かれたような、心底の驚きを浮かべてこちらを見た。


「お前の故郷では、自然力についてよほど知られておらんようだな」


「まあ、うちじゃ趣味が違ったんでね」


「お前は南方の者に見える。タウレイ大陸の出ではないのか?」


タウレイ。


大陸が、もう一つ。


いいねえ。世界は広がり、俺は間抜けになっていく。


「かもな」と言った。「言っただろ。今の俺の記憶は、殴られたじゃがいもの袋みたいに働くんだ」


「お前の健忘は、思ったより重症のようだな」


ゲイルはカンカン帽を額まで引き下げ、また歩き出した。


数歩、急いで近づく。蚊はたちまち退いた。消えはしない――ただ、見えない何かの境界の外で旋回している。閉ざされた扉の前で、性懲りもなくうろついていた。


「自然力とは」ゲイルが言った。「まわりにあるすべての力のことだ。風、熱、腐敗、水、草の伸び、根に潜む毒、石のなかの冷たさ。それ自体には、名がない。ただ、在る。空気のようにな」


はいはい。


中学理科のお時間だ。


ずいぶん奇妙で、田舎くさくて、沼の匂いのする理科だがな。


「そして、現象の神と契りを結べば」と彼は続けた。「その力に名とかたちが宿る。神は、己の性質をお前に通してやる。ただし、ただではない。かならず、何かを取る」


足を止めた。


「待て。契り?」


その言葉が、内側を不快にひっかいた。


マリヤ。


錆。


『お前はただ、はいかいいえを言えばいい』。


「破れば終わりの、神との契りだ」ゲイルは言った。「お前は、神が授けものに見合うと認めたものを差し出す。お前にとって貴重とは限らん。他人に分かるとも限らん。だが、神にとっては貴重なものだ」


「じゃあ、あんたは何を差し出したんだ?」


老人はカンカン帽のふちを手でなぞった。


そのときになって、ようやく気づいた。その手には、指が二本足りない。


もげたのではない。


腐ったのでもない。


断ち落とされていた。


切り口は平らで、清潔だった。余分なぶんを誰かが正確に測り、丁寧に取り除いて、その仕上がりに満足した、とでもいうように。


「神が、指二本をどうするってんだ」


「ああ、坊主。喉峡さえ覚えとらん人間に説明するのは、難しいことだよ」


「やってみてくれ」


「アフリスがこの代償に満足した、とだけ言っておこう」


「アフリス?」


ゲイルは、すぐには答えなかった。


小道のわきの茂みへ手を伸ばす。ただ、葉に触れた。


はじめは、何も起きなかった。


それから、緑が黒ずんでいった。


しおれるでも、垂れるでもなく、色そのものを吸い出されたように。葉は縁から黒くなり、丸まり、乾いた葉脈の網が浮き上がる。細い枝は白茶け、ひび割れ、灰色の粉になって崩れはじめた。潰した薬のような、苦い匂いが漂った。


「ゲイル」一歩下がって言った。「ふざけんな。こんなもん、理科で片づくかよ」


「理科?」


問うように、こちらを見られた。


手はまだ、茂みに置かれたままだった。


茂みは、死につづけていた。


「アフリスは、毒の女神だ」老人は言った。「彼女を通して、俺は自然力を変えられる。毒のかたちを与えてやる。無論、際限なくとはいかん。力は、どれだけの自然力を集め、留め、向けられるかにかかっている」


黒くなった葉を見ていた。


彼の欠けた指を。


その笑みを。


なぜか、それはもう、ただの老人の笑みには見えなくなっていた。


「たとえば俺の結界も」ゲイルは続けた。「壁ではない。まわりの空気を、小さな生き物にとって不快なものに変えているだけだ。蚊はそれを感じて、避けて通る」


「避けなかったら?」


「死ぬ」


別の人間が「濡れる」とでも言うのと同じ調子だった。


唾を飲んだ。


「契りは、神とだけ結ぶものなのか?」


ゲイルは俺を見た。


いや。


俺を、ではない。


俺のチュニックの穴を。


つい先ほどまで、傷があったはずの場所。あるいは心臓。あるいは、マリヤが俺から引きずり出した、何だか分からないもの。


それから老人は顔を背け、また歩き出した。


「いいや、坊主」と彼は言った。「神とだけ、ではない」


***


つまり、ここには唯一の神などいない。


そして、ただの魔法でもない。


ここには、見えざる取引の市場が丸ごと広がっているのだ。指を、血を、記憶を、あるいは自分の何かの一部を差し出して、汚れた手で世界に触れる権利と引き換える――そういう市場が。


結構なことだ。


この土地の経済は、もう気に入らなくなってきた。


一時間ほど歩いた。


「ただ釣りをしていた」老人にしては、ゲイルはずいぶん遠くまで来ていた。とはいえ、道すがら淀みはたしかにあった。静かで、緑がかって、葦とトンボのいる。釣りには申し分のない場所だ。


もっとも、血まみれの逃亡者を、どことも知れぬ方向へ連れていってさえいなければ。


結界を俺にも広げてくれと頼んだ。すぐにではない。蚊が俺の首を、何かの伝染病が流行る国の地図に変え終えたあとで、ようやく。


ゲイルは、何も訊かずに応じた。


近づくと、あの疼く雲は退いていった。


蚊は隣を飛んではいたが、もうたからなかった。ときどき特に図々しいのが顔のそばまで寄ってきて、見えない熱にでも当たったように空中で震え、ふいに脇へそれていく。


背後に、何匹の死骸が残っているのかは、訊かないことにした。


やがて、森がまばらになりはじめた。


木々の間から、屋根が見えてきた。


村だ。


はじめは、少し嬉しくさえあった。


人。家。足の下のまともな地面。檻でもなく、死んだ仮面のいる森でもなく、胸から何かを引きずり出してそれを代償と呼ぶ魔女でもない。


それから、近づいた。


すると、その嬉しさは、勝手にしぼんでいった。


家々は日干し煉瓦でできていて、白い漆喰が塗られていた。屋根は藁と、枝と、黒っぽい粘土。もとの世界では、建築の動画をよく見ていた。あれは俺を落ち着かせた。人が粘土をこね、炉を積み、壁をならす。二十分のあいだ、世界が理解できるものになった。


ここでも、すべては整然としていた。


整然と、しすぎていた。


戸口にゴミは転がっていない。柵に洗濯物は干されていない。犬の声も、鶏の声も、子供の声も聞こえない。蠅さえ、ほとんどいない。


窓は、重い木の鎧戸で閉ざされていた。暑さを避けるためではない――ただ、閉ざしてあるのだ。ぴったりと。板の隙間を、ぼろ布で塞いである戸もあった。


その隙間の一つに、闇を見た。


室内の薄暗がりではない。


そこには光の入る余地など、家のなかに最初からなかった、とでもいうような黒だった。


「なあ爺さん、みんなはどこだ?」


ゲイルは少し先を歩いていた。


「昼餉の刻だ。この村では、昼には仕事を放り、家族と食い、祈り、休むことになっている」


まるでシエスタだな。


だが、爺さん――みんなが祈っている時間に、なんであんたは釣りに行ってたんだ?


もう一度、村を見渡す。


手入れの行き届いた家々。清潔な庭。閉ざされた扉。一つの顔もない。鎧戸の向こうに、一つの動きもない。


村の真ん中に、巨大な石のオベリスクがそびえていた。


高く、白く、文字も絵もない。ただ、漆喰を塗ったまっすぐな柱。日を浴びて、ほとんど美しくさえ見えた。


ほとんど。


それが、地面に突き立てた巨大な骨に似ている、と考えさえしなければ。


「あれは何だ?」


「記憶だ」ゲイルは言った。


「何のだ?」


「忘れんほうがいいこと、についてだ」


実に役に立つ説明だ。


ありがとうよ、先生。


いちばん大きな建物に近づいた。それは他の家から少し離れて建っていて、幅が広く、低く長い離れがあり、ゲイルの足の下で軋む玄関先がついていた。


「爺さんゲイル、あんた、ここじゃちょっとしたお偉いさんか?」


「俺は村の教師だよ、坊主。だから学校に住んでいる」


彼は扉を手前に引いた。


扉は、あっさりと開いた。


外からは閉ざされて、死んだように見える建物にしては、あまりにあっさりと。


「入れ、アスゴルド」


「喜んで……」


なかへ入った。


***


なかは、清潔だった。


それが、なぜか、汚れよりも神経に障った。


明るい壁。白っぽくなるほど磨き込まれた板の床。素焼きの器と、乾いた薬草の束と、なにかの根の束を並べた棚。隅には、低い炉。壁には、白墨の跡だらけの黒板。


机は、一つも見当たらなかった。


その代わり、扉の枠には刻み目があった。


たくさんの刻み目が。


高さは、ばらばらに。


子供たちの背丈を測っていた跡のような。


目をそらした。


なぜだかは、分からない。


ただ、見ていたくなかった。


ゲイルは奥の扉の向こうへ消えた。そこから、すぐに腐った肉の匂いが漂ってきた。重く、生あたたかく、おぞましい。ただ鼻に届くだけでなく、舌の上に横たわるような匂い。


顔をしかめた。


老人は、湯気の立つ素焼きの水差しを持って戻ってきた。


「爺さん、この臭いはなんだ?」


「すまんな。この村では、誰もトーリと契りを結んでおらん。この季節は、蓄えがすぐに傷む。深い地下蔵でも、いつも助かるとは限らんのでな」


「トーリ?」


「氷雪の神だ」


彼は水差しを卓に置き、棚へ手を伸ばした。


中を覗きこむ。


ただの湯だ。


少なくとも、見た目は。


「どんな茶が好みだ、坊主?」


「緑茶……とか?」


「ふむ。それは知らんな。深紅の睡蓮、星詠みの花、昏花モーリ……なら出せるが」


なんだよ、この土地のものは、いちいち。


茶の名前まで、呪いをかけてきそうな響きだ。


「あんたの見立てに任せるよ、爺さん」


「信じるよ」という言葉は、飲みこんだ。


マリヤのあと、俺は誰も信じる気などなかった。とりわけ、ひと触りで茂みを殺せる人間は。


「よろしい、坊主。では、モーリを淹れよう」


彼は乾いた花の包みを取り出した。花は黒に近い暗色で、葡萄酒色の葉脈が走っていた。乾ききった花は、小さくねじれた虫の死骸に似ていた。


ゲイルはそれを水差しに放りこみ、蓋をした。


煎じられているあいだに、老人は外套と、薄い襟巻きと、カンカン帽を外した。すべてを扉のそばの掛け釘にかけた。


帽子を取ると、いっそう老けて見えた。


そして、なぜか、いっそう頑丈に見えた。


肉体のことではない。体は相変わらず干からびて、骨ばって、鳥のようだった。だが、田舎くさい無害さの一部が、消えていた。カンカン帽が、衣服ではなく、蓋だったとでもいうように。


「坊主、年寄りを手伝ってくれ。茶を注いでくれんか」


水差しを取った。


蓋は熱かった。湯気が、きのこじみた、湿った匂いになって顔を打った。


自分のぶんを少しだけ注ぐ。


それから、ゲイルの杯を満たしに、彼のそばへ寄った。


そして、傷跡を見た。


首に。


俺のと、ほとんど同じ。


古い瘢痕の、細い環。鮮やかでも、新しくもない。とうに癒えている。年月に擦り減って、ほとんど消えかけている。だが、かたちは、同じだった。


茨の冠。


ただし、この冠は、数時間前のものではない。


何十年も前のものだ。


水差しが、手のなかで震えた。


卓の上に、暗い雫が一つ落ちた。


「どうかしたか、坊主?」


まばたきをした。


「いや」


彼の杯を満たす。水差しを置く。向かいに座った。


ゲイルは穏やかに見ていた。


穏やか、すぎるほどに。


「この茶は、疲れを取る」と彼は言った。「昼と、寝る前に、よく飲むんだ」


ああ。


そうだろうとも。


飲めよ、アスゴルド。お前はたかだか、まともに顔も映らないまま異世界で目を覚まして、魔女とヴルダラクと胸の穴をくぐり抜けてきただけだ。毒の女神つきの爺さんが淹れた草の煎じ薬だぞ。何か起きるわけがない。もちろんだ。


杯には手を触れなかった。


ゲイルは、それを察したように微笑んだ。


それから自分の杯を取り、一息に飲み干した。


水面からは、まだ湯気が立っていた。


顔色ひとつ変えなかった。


「熱いだろ」と言った。


「年を取ると、いろいろ鈍るのでな」


あるいは、いろいろ効かなくなる、か。


待った。


一つ。


二つ。


三つ。


老人は向かいに座ったまま、生きて、満足げで、頬にほんのり赤みまで差していた。


杯を取り、ごく小さく一口すすった。


味は、匂いと嚙み合わなかった。


匂いは、きのこと、濡れた土。


だが舌の上では、甘く、渋く、熱い赤い果実の汁のようだった。一口飲むと、口のなかに妙なぬくもりが残った。


不快、ではない。


それが、不快だった。


「今どこにいるのか、と訊いていたな」ゲイルが言った。


「訊いたな」


「ここはオランド公爵領だ。オランド王国で、いちばん大きい」


中世の封建区分か。


あとは重い年貢と理不尽な領主でも揃えば、言うことなしだな。


「王国は、モロクの帝国には属しておらん」と老人は続けた。「だが、帝国と交易し、余計に怒らせぬよう努めている」


「この大陸には、帝国まであるのか?」


「おお、ある。モロク大帝国だ。大陸の大半を占めておる。その中心の地に、聖なる山モリヤがそびえ、帝国の上には、全能にして唯一の神モロクが輝いている」


唯一。


視線を上げた。


「あんた、アフリスがいるって言ったろ。トーリも。ほかの神々も」


「我々にとっては、な。帝国にとっては、すべてが違う。モロクは唯一。ほかは、その僕か、悪魔か、あるいは焼き捨てるべき偽り――それを口にする者もろとも、な」


堕ちた騎士。


檻。


殴打。


『我が神』。


つまり、アスゴルドはモロクを侮辱したのだ。


あるいは、もっと悪いことを。


「そもそも、モロクってのは何なんだ?」と訊いた。「アフリスが毒で、トーリが氷雪なら、モロクも何かの現象を司ってるってことだろ?」


ゲイルは、窓へ指を上げた。


閉ざされた窓へ。


鎧戸は細い光の筋だけを通していて、その筋は床の上に、刃のように横たわっていた。


「お前自身、その存在を感じていたはずだ、坊主。肌のぬくもりに喜んだとき。その光に目を細めたとき。夜より昼のほうが安全だと決めたとき」


黙って、床の光の筋を見た。


モロク――太陽。


こいつらは、太陽を崇めているのだ。


もっとも、顔のない人間と、魔女と、毒の契りのあとでは、太陽崇拝など、ほとんど理にかなって聞こえた。


「そうだ」ゲイルは言った。「お前の驚きは、どんな健忘よりも雄弁だ。南方の出は、まだ説明がつく。だが、モロクを知らんとは……」


「爺さん」遮った。「あんた、ミノダルって奴が誰か、知ってるか?」


ゲイルは、黙った。


考えこんだのではない。


まさに、黙りこんだのだ。


彼の手が一瞬、杯の上で止まった。それからゆっくりと下ろされた。見たのは、俺の目ではなく、俺のチュニックの穴だった。


胸を。


肌の下で、間違った何かが脈打っている、その場所を。


「初めて聞く名だ」と彼は言った。


あまりに、早かった。


「神は多いのだよ、坊主。すべてを知ることなど、できはせん」


彼は杯を取り、指のあいだで回し、微笑んだ。


だが、その笑みは、口より上へは昇らなかった。


よし。


こいつは知っている。


あるいは、知ることを恐れている。


信じたふりをした。


結局のところ、もしゲイルが過去に咎人だったなら、首のこの古い冠が本当に喉峡からの逃亡を意味するなら、こいつからは少なくとも、情報を引き出せる。


こいつが、俺から何かを引き出そうと決める、その前に。


杯を卓に戻した。


「俺たちが喉峡へ運ばれるとき、暗い森を抜けた。ひどく古い森だ。深くてな。ヴルダラクがいた。あんた、あれがどこか知ってるか?」


ゲイルは目を上げた。


「喉峡への道に、そんな森は一つしかない。モリヤの森だ。大陸で、いちばん古い」


「遠いのか?」


「滅びの喉峡とモリヤの森は、北にある。大陸の、反対の端だ」


彼を凝視した。


「なんだって?」


「あそこから逃げたあとで、ここで目を覚ましたのなら、裂けた道に呑まれたのだろう。ままあることだ。道はときに裂ける。世界は、いつも綺麗に縫い合わされているわけではない」


思い出した。マリヤと俺のまわりで、森が黒い筋になって流れていったのを。


ヴルダラクが枝を這っていったのを。


そのうちの一体が、俺の名を、声ではなく骨で口にしたのを。


また杯を取った。


飲むためではない。


ただ、手が、何かを掴んでいる必要があった。


湯気が顔まで昇ってきた。


甘い。


きのこの。


あたたかい。


「あんた、俺がどうやって監視役から逃げたのか、訊いてたよな」と言った。「それは、そんなにあり得ないことなのか?」


ゲイルは、杯を回す手を止めた。


「坊主、ヴルダラクの本性は死だ。比喩ではない。詩的な意味でもない。死だ。奴らは人ではないし、これまで一度も人であったことがない。生者を欺くようには、欺けん。疲れさせることもできん。怯えさせることもできん……」


彼の声が、遠ざかった。


小さくなったのではない。


本当に、遠ざかっていった。


俺たちのあいだに、長い廊下が急に伸びて、ゲイルは家の反対の端から、まだ話しつづけている――そんなふうに。


まばたきをした。


壁が揺れた。


座っているのに、足の下の床が、やわらかく傾いだ。


なんだよ、これ。


杯を見た。


ほとんど飲んでいない。


ほとんど。


だが、たぶん、茶のせいではなかった。


たぶん、湯気のせいだった。


空気の。


俺がとうに吸いこんで、匂いと名づけてしまった、あの温かい甘さそのものの。


部屋が、ゆっくりと傾いでいく。


床の明るい筋が広がり、太く、濁っていった。閉ざされた鎧戸の向こうのオベリスクが、壁を透かして浮かび上がってくる――白く、名もなく、骨に似て。


立とうとした。


手が、卓から滑り落ちた。


「ゲイル……」


彼は俺を見ていた。


そして、微笑んでいた。


大きくはない。


勝ち誇ってもいない。


ほとんど、慈しむように。


それが、何より恐ろしかった。


助けを求めたかった。


卓に掴まりたかった。


せめてクソの一言くらい吐いてやりたかった。


だが、舌は、濡れた雑巾のように重かった。


倒れる前に最後に見たのは、ゲイルの指だった。右手に残った、三本の指。


それが、卓を叩いていた。


一つ。


二つ。


三つ。


授業の終わりまでの時間を数える、教師のように。


***


鈴の音が、だんだん大きくなっていった。


はじめは、遠かった。


眠りの壁の、どこか向こうで。


やがて、近づいてきた。


細い金属の声が、互いに絡み合い、震え、呼んでいた。この音は、もう知っていた。知りすぎるほどに。


目を開けようとした。


すぐには、開かなかった。


全身が冷えきっていた。


小川のあとのようではない。水のせいではない。


裸のまま石の上に置き去りにされ、そもそも生きているべき存在だということすら忘れられたときの――そういう冷たさだった。


まぶたが、ようやく剝がれた。


俺は、台の上に寝かされていた。


全裸で、何ひとつ身につけていなかった。


両腕は左右に開かれ、革帯で縛られていた。両脚も。もう一本の帯が胸を通り、もう一本が腹を通っていた。帯自体は冷たいのに、その下の皮膚は焼けるようだった。


身をよじった。


台は、軋みもしなかった。


腐った肉の臭いが鼻を突いた。あまりに強く、意識が痛いほど冴えた。アンモニアのように。ただ、もっと悪い。アンモニアなら、少なくとも、それがどこから来たのかを脳にすぐ想像させたりはしない。


部屋は、狭かった。


窓はない。


壁ぎわの棚に、蝋燭が一本。その炎が震えて、まわりの影が生きているように見えた。天井には、乾いた薬草の束が吊るされていた。赤い糸で括られたものもある。ほかは――何か黒っぽい、干からびた腸に似たもので。


背後で、金属の音がした。


刃と刃。


ゆっくりと。


丁寧に。


そして、ゲイルの声。


彼は、口ずさんでいた。


「……朝の光がお前の眼を照らす、

その眼は死人のように昏かった。

惜しむらくは、刃が……」


凍りついた。


この歌は、前にも聞いた。


檻で。


堕ちた騎士が、闇のなかで歌っていた。


あるいは、俺がただ、気が触れかけているだけか。


それも一つの逃げ道だ。正直、最悪の結末というほどでもない。


叫ぼうとした。


喉から出たのは、湿った掠れ声だけだった。


もう一度、試みた。


何も。


声が、消えていた。


いや。


消えたのではない。


どこか脇に置かれて、戻し忘れられた、とでもいうように。


首を回した。


壁ぎわに、編み籠が置かれていた。


はじめは、ぼろ布が入っているのだと思った。


やがて、その「ぼろ布」の一つがわずかに動き、指が見えた。


人間の。


灰色に、腫れ上がって、爪が黒い。


そのそばに、丸っこい何かが、髪を巻きつけて転がっていた。ひと切れの皮膚。耳の切れ端。赤みを帯びた骨――端だけが、あまりに清潔で、長いこと擦り削ったとでもいうように。


世界が、たった一つの思いに縮んだ。


嫌だ。


嫌だ。


嫌だ。


もがきはじめた。


革帯が手首に食いこんだ。台は、微動だにしない。肩の下のどこかで、何かが濡れた音でぐちゅりと鳴り、この台の面がただ冷たいだけではないと悟った。


この台は、俺が乗せられる前から、もう汚れていたのだ。


歌が、途切れた。


金属が、最後にもう一度、鳴った。


足音。


ゆっくりと。


落ち着いて。


俺の上に、ゲイルの顔が現れた。


カンカン帽がないと、ほとんど見知らぬ他人だった。白髪が、こめかみに貼りついている。その目には、小川で俺を見たときと同じ、やわらかく観察する色があった。


ただ今になって、理解した。あれは、同情ではなかった。


あれは、興味だった。


教師が、新しい課題を見つめていたのだ。


老人は、微笑んだ。


「怖がるな、坊主」と彼は言った。「そう痛くはせん」


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