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モリアハ  作者: Bitternectar
2/6

第2話「脱走


****


『逃げたいんでしょ、アスゴルド?』


****


妙なことに、俺はそのことを考えてすらいなかった。


囚人なら誰だって、自分の枷を外したいに決まっている。


特に、こんな枷なら。


たぶん、アスゴルドならそう望んだはずだ。


仮に、どうにかしてここから抜け出せたとして、そのあとどうする?


俺はまた監視者たちへ目を向けた。


体に震えが走る。


『あなた、迷いと恐怖でいっぱいね、アスゴルド』


また、彼女の声が俺の意識を通り抜けた。


くそ。お前にはあの連中が見えてるのか? あんなものを見て、どうやって怖がらずにいられるんだ。


あいつらが人間に何をできるのか、考えるだけでぞっとする。


俺の故郷にある刑務所の、看守とモップにまつわる下品な噂だって、あれほどは怖くない。


くそったれ。俺は最初からずっと、迷いと恐怖でできてるみたいなもんだろ。どうしてこんな状況になってるのかも分からないんだぞ。


『もちろん見えているわ。ちゃんと計算に入れてる……』


マリアは半分だけこちらへ顔を向けた。唇が、あまりにも落ち着いた笑みの形に伸びる。


まさか、俺の考えてること全部読めるのか?


『あら、違うわ、アスゴルド。人の思考っていうのはね、映像と内なる声がぐちゃぐちゃに絡まった、信じられないくらい面倒な流れなの……』


『私は自分にできる範囲で、その絡まった糸をほどいているだけ』


彼女の視線が下へ落ちた。


俺はまだ、チュニックをまくり上げたまま、布切れを手に突っ立っていた。


両手が反射的に前で交差し、その拍子に布切れが落ちる。


なんで今さら気づくんだよ。


『ははは、アスゴルド。私はこれまで、いくらでも男を見てきたの。だから気にしなくても……』


彼女は自分の腿に手を這わせ、チュニックの裾を少し持ち上げた。


『もっとも、あなたが監視者ヴルダラクをそれほどの壁だと思う理由は分かるけど……』


「ヴルダラク?」


思わず声に出ていた。


「え? 何のこと、アスゴルド?」


彼女は驚いたように言った。


木々のあいだで、白い仮面の一つがかすかに揺れた。


俺は口を両手で押さえた。ほかに、もっと隠すべき場所が露わになっていることも忘れて。


『最初から脱走を台無しにしたいの?』


笑みがマリアの顔から消え、代わりに蔑むような目だけが残った。


『それにしても変ね。あなたがあれの正体を知らないなんて。あなた、とても怪しい人だわ……』


あの大男の「優しい撫で方」のおかげで、記憶が吹っ飛んだんだよ。


『ああ、堕ちた騎士……自分の神をあれほど敬っておきながら、あんな罪を犯すなんて。面白い人ね……』


だが、こいつだって、野蛮に摘まれて金属の花壇へ放り込まれた可憐な花、ってわけじゃないだろう。


『はは。もちろん、私も理由なくここにいるわけじゃない』


くそ。こいつが俺の思考を読んでいることを、毎回忘れる。


それなら、この……ヴルダラクたちの思考も読めるのか?


『……人は死ぬと、魂の欠片も消える……』


待て。それって、つまり……


「アスゴルド、いつまで固まってるの。布を拾って、さっさと終わらせなさい」


マリアは背を向けたまま、不機嫌そうに言った。


『計画はあとで話すわ……あなたの同意が必要なの、アスゴルド』


失うものなんてない。


逃げられる可能性があるなら、試してみるしかない。


それでも、その考えだけで体の内側が少し冷えた。


「私は焚き火で温まってくるわ。あなたは自分の用を済ませて」


彼女は俺を見もせず、囚人たちの群れへ戻っていった。


『夜になったら、あなたが何をすればいいのか、私たちがどう動くのかを教えてあげる……それまで休んでいなさい、子猫ちゃん……』


俺は彼女の背中を見送った。


視線が勝手に、その脚へ、腰の動きへ吸い寄せられる。


そのせいで、余計に気分が悪くなった。


こんな場所でも、頭ってやつは本当にろくなことを考えない。


どうして俺なんだ?


マリアの立場なら、堕ちた騎士かマルトを選ぶ。


タイル貼りくらいしか取り柄のない、半死にの移民みたいな男を、どうして必要とする?


俺は壺のそばへ布切れを投げ、チュニックを下ろした。


少しだけ気分はましになった。やはり、体の特定の部位は常に清潔にしておくべきだ。


人類が進化の過程でそれに気づいたのは、いいことだと思う。


いや、待て。この世界にも進化って概念はあるのか?


こっちにも、地元のダーウィンみたいなやつが?


俺はもう一度、監視者を見た。


いや、もうヴルダラクと呼んでいいのか?


何なんだ、その名前は。


「ぶるっ」


体が震え、俺は焚き火の方へ歩き出した。


ゆっくりと、足を引きずりながら、今の状況を考え続ける。


まあ、夜になれば分かる。


俺はもう一度、監視者たちを振り返った。


あいつらも、まさか思考を読めるんじゃないだろうな?


だって、あいつらは俺の名前を呼んだ。


それに……


****


「お前、あそこであの女とヤってたのか? なんでそんなに遅いんだ、犬っころ」


横になったまま、マルトが頭だけをこちらへ向けて言った。


俺は枷を目の高さまで持ち上げて見せた。


「それがどうした。尻を洗うくらい、手がなくてもできるだろ」


マルトはにやりと笑った。


「犬みたいにな。座って、そのまま……はははは」


俺は引きつった笑みを作った。


正直なところ、どうしてこいつが不満そうに俺へ絡んでくるのか、まったく分からない。


「おや。今また俺に楯突こうとしたな……まあいい。疲れたんだ、タウレア人。続きは明日だ」


マルトは低く唸るように言った。


大人の猫って、一日十六時間くらい寝るんだっけ?


かわいそうなネコちゃん、か。


檻の中では、どれだけ頑張っても眠れなかったのに。


「それと、魔女には気をつけろ……お前も知っているだろう。あいつらがどんな存在で、何ができるのか」


彼の目は閉じた。


だが耳だけは、アンテナみたいに生きていた。


相棒、俺はマクスウェル方程式が何で、何を意味するのかなら知っている。


でも魔女とその能力については、何一つ知らない。


俺は別の囚人たちの方へ目をやった。


マリアは知らない男のそばに座り、笑いながら何かを囁いていた。胸をぴったりと押しつけるようにして。


ふいに彼女は相手から視線を外し、上目遣いでこちらを見た。


あの、同じ薄気味悪い笑みを浮かべたまま。


俺は慌てて顔をそらした。まるで森に興味を引かれたふりをして。


ああ。


これは大変なことになる。


くそ、アスゴルド。


お前、いったい何をやらかしたんだよ。


****


眠りの向こうから、聞き覚えのある音がした。


鈴の音。


あの音だ。


最初は、ほとんど優しかった。


誰かが隣の部屋で、そっと飾りを指で触れているみたいに。


それから音は近づいた。


大きくなったのではない。


近づいたのだ。


俺が目を開けかけた瞬間、鈴の音は刃物で切られたみたいに途切れた。


囚人たちは全員眠っていた。


あまりにも整然と。


あまりにも動かずに。


森は暗く、そして……白い仮面は一つも見えなかった。


そのことが、なぜか少しも安心につながらなかった。


化け物が視界から消えたからといって、どこかへ行ったとは限らない。


俺は別の囚人たちの方を見た。


妙な動きがある。


マリアが立ち上がり、例の男と一緒に荷車の方へ歩いていった。


俺がさっき使った水壺のある場所だ。


男は彼女の後ろをおとなしく歩いていた。少しだけ頭を垂れている。


手を引かれているのではなく、思考を引かれているように見えた。


彼の枷の鎖はほとんど鳴らなかった。


いや、鳴っていたのかもしれない。ただ、その音がひどく遠かった。


二人はゆっくり荷車に近づいた。


男は角の向こうへ入り、見えなくなる。


マリアだけが、そこに立っていた。


ほとんど何も見えない。


夜の闇がすべての細部を、すべての……輪郭を隠し、俺には影と想像だけを残していた。


この濃い森そのものが、闇のもう一つの源みたいだった。


あいつらは、同じ側にいる。


木々はただ野営地の周りに立っているのではない。


見ていた。


荷車の足元に、男の影が地面へ広がった。


木の車輪の下から、彼の脚だけが見えている。


マリアがその上へ屈み込む。


一瞬、彼女の影が男を丸ごと覆った。


まるで箱に蓋をするみたいに。


チュニックの布が小さく揺れた。


彼女は上に降りた。


影が重なる。


荷車が小さく軋む。


低い呻き声がした。


湿っていて、気まずくて、耳に残る声だった。


まったく。


こんな状況でも、人間の「生物としての都合」は勝つのか。


いや、逆に言えば、なぜ悪い?


あいつらは全員、喉峡こうきょうへ向かっている。


それが何なのかは知らないが、明らかに人生の「終着点」だ。


アスゴルドの体は、その影と音が描くものに、まったく反応しなかった。


この体に残っているのは、痛みと恐怖と羞恥だけなんじゃないか。


しばらく俺は横になったまま、その光景を見つめていた。


だがやがて目を閉じ、もう一度まどろみへ戻ろうとした。


そういえば、俺は夢を見ていなかったんじゃないか?


突然、短く、引き裂くような男の悲鳴がした。


その声はくぐもっていた。


手や布で塞がれたのではない。


夜そのものに塞がれたみたいだった。


森が息を吸い、声が焚き火まで届く前に飲み込んだように。


俺は目を開け、また暗闇を凝視した。


荷車の下で、男の脚が痙攣していた。


踵が土を掻き、靴のつま先が開いては閉じる。


体はもう逃げる権利を失っているのに、脚だけが逃げようとしているみたいだった。


普通の人間なら嫌悪を覚える、気味の悪い動きだった。


マリアはまだ上にいた。


だが、その影はもう、情欲に動く人間のものではなかった。


あまりにも鋭く、あまりにも正確だった。


男に触れているのではない。


目に見えない何かを、男の中から絞り出しているようだった。


彼女の手の下には、他人の胸郭に埋め込まれた見えないレバーがある。


そんなふうに見えた。


風もないのに、彼女の髪が持ち上がり、ゆっくり揺れている。


くそ。


何が起きている?


俺は少し身を起こし、もっとよく見ようとした。


その瞬間、片方の靴が最後に一度だけ跳ね、つま先を上に向けたまま固まった。


もう片方はまだ震えていた。


だがそれは、生きた体の一部というより、糸で吊られた物の揺れ方だった。


俺に見えたのは、荷車の下から突き出たまま動かなくなった靴の影だけだった。


そして分かった。


これはもう、セックスには見えない。


捕食だ。


『まあまあ、アス・ゴルド。覗き見なんて、恥ずかしくないの? はははは……』


頭の中で、女の高い笑い声が弾けた。


俺は驚いて跳ね起き、危うく脳卒中でも起こすところだった。


『まるで、両親のそういう場面をうっかり見てしまった小さな男の子ね……』


俺は黙った。


その挑発には反応しない方がいい。


あの大柄な男に、いったい何をしたのかなんて、聞かない方がいい。


『アスゴルド。そろそろ……脱走の計画を話しましょう』


俺は振り返り、野営地全体を見回した。


だがマリアは見えない。


あの女、どこにいる?


『でもその前に、私たちは契約を結ばなければならない』


声が急に真面目になった。


静かで、厳しく、空間そのものに沈んでいくような声だった。


契約?


『私は自分の力を完全には使えない。この枷と檻があるかぎり……メルドライト。モリアハの深淵から掘り出されたものよ……』


メルドライト?


ふいに、かすかなカモミールの匂いがした。


それから……錆の匂い。


二つは混ざり合い、ゆっくり踊るみたいに一つの奇妙な香りになった。


不快で、なのにどこか惹きつけられる。


誰かの手が俺の肩に触れた。


俺はびくりとし、飛び退こうとした。


だが体が動かない。


その場に縫い止められたように立っていた。


心臓は、実験用のネズミがプラスチックの飼育ケースから逃げようとしているみたいに暴れていた。


手は温かく、柔らかかった。


もう一つの手が、反対の肩へ滑るように落ちてくる。


二本の腕が這い、絡まり、俺を抱き込んだ。


匂いが濃くなる。


「そうよ、アスゴルド。契約。これが、私たち二人で枷の力を越えるために必要なの」


彼女は突然、俺の耳元で囁いた。


それでも声は、さっきと同じように真剣だった。


「あ……契約って……どういうものなんだ? 紙か? 署名が必要とか? 条件は? 当事者の責任とか……」


何を言ってるんだ、俺は。


オフィスって場所は、俺の思考パターンまでこんなふうに刷り込んだのか?


『あなたは、ただ「はい」か「いいえ」と言えばいい』


はいか、いいえ。


何だ、それ。


急に頭がぐらついた。


快感に近い高揚が押し寄せ、心地よい波が体を走る。


カモミールの匂いから、もう一つの匂いが消えたように感じた。


錆はその中に沈み、見えなくなった。


「は……はい……それとも……い、いいえ……」


『アスゴルド。自由になるために、私と契約する覚悟はある? はいか、いいえ』


顔の筋肉が働くのをやめたみたいだった。


俺にできるのは、何かをもごもご言うことだけだった。


思考が絡まり、森の縁が脈を打つ。


壊れた三次元空間の中に立っている気がした。


あるものは大きくなり、あるものは小さくなり、それでいてすべてが、本来の形から少しずつ伸びていた。


『はいか、いいえ……』


高揚はさらに強くなった。


誰かを抱きしめたい。


それから口づけて、離したくない。


話したい。


話したい。話したい。話し続けたい。


「は、は、はい……」


それでも、薬のようなこのぼんやりした感覚は、俺の判断を完全には奪わなかった。


同意する方が、あの喉峡へ連れていかれるよりはましだ。


これは勇気でもなければ、覚悟でもない。


俺はただ、確実な終わりの代わりに、正体の分からない悪を選んだだけだ。


突然、すべてがぷつりと終わった。


視界は元に戻った。


静寂。


自分の心臓の音だけが聞こえるほど、静かだった。


肩にあった手も、彼女の気配も、もう消えていた。


「馬鹿が……」


マルトの荒い猫のような声が聞こえた。


「え……?」


俺は彼を見た。


マルトは横になったまま、苛立たしげにこちらを見ていた。


背後から、チュニックを掴まれた。


指か、爪か。


それが肩甲骨のあいだの布へ食い込む。


マリアなのか?


世界は動き出したのではなかった。


弾け飛んだ。


野営地の端が細い裂け目へ縮み、背後へ消える。


まるで、野営地そのものの目の前で扉を叩き閉められたみたいだった。


焚き火は橙色の傷口になり、次の瞬間には闇に塞がった。


木の幹は横を流れていくのではない。


目の前に生え、すぐ背後へ倒れていく。


無限に、黒く、濡れて。


足音は聞こえなかった。


マリアの息も聞こえない。


聞こえるのは、顔を裂く風と、手首を打つ鎖と、耳元で響く彼女の笑い声だけだった。


その笑いは、楽しいものではなかった。


崖から落ちながら、自分が飛べることに突然気づいた人間は、きっとこんなふうに笑う。


冷たい空気が、ジェットエンジンの噴流みたいに顔を打った。


それから匂い。


カモミールと錆。


腐った針葉樹の森の匂いと混ざっている。


錆はどんどん濃くなっていった。


もう金属の匂いではない。


開いた傷口の匂いだ。


次に起きたことが、俺をさらに深い恐怖へ突き落とした。


闇の中から、仮面が現れた。


最初は一つ。


高い枝のあいだに。


次にもう一つ。


横から。近すぎる距離で。


そのあと、一気にいくつも。


あいつらは走っていなかった。


木々の梢を、蜘蛛のように這っていた。


枝から枝へ跳び移っているのに、枝はほとんどしならない。


まるで森の方が、自分から背中を差し出しているみたいだった。


その動きは歪んでいた。


速いのではない。


途切れ途切れで、引き裂かれたような動きだった。


世界が、あいつらの体を描き終えるのに間に合っていない。


まず仮面が現れ、次に長い腕、次に胴体の代わりの空白、そして全身が揃ったと思った瞬間、もう別の場所にいる。


白い顔が、壊れたフィルムのコマみたいに闇の中で瞬いた。


いくつもの喉が、同時に啼くように、しゅう、と鳴った。


歯の根が痛くなる音だった。


一体が、すぐそばにいた。


近すぎて、仮面の笑みの切れ込みまで見えた。


そして理解した。


あれは彫られたものではない。


動いている。


「ア……ア……アスゴルド……」


それはそう呻いた。


名前は、耳に届いたのではなかった。


歯の根を通り、喉を通り、背骨を通って響いた。


そいつは、長すぎる糸で操られる関節人形のように動いていた。


骨ばった手がこちらへ伸びる。


すると、俺とそれとの間の空間が、急に樹脂みたいに粘った。


何かが喉を掴み、後ろへ引き戻そうとする。


皮膚ではない。


チュニックでもない。


俺そのものを。


なぜかまだ「アスゴルド」という名に反応してしまう、俺の中のどこかを。


「触るな、歩く死体」


深く、腹の底から響く女の声がした。


マリアに似ていた。


だがその声は、いったん地面を通ってから戻ってきたみたいだった。


「今夜の私は、もう満ちている」


彼女は、俺には理解できない言葉を叫んだ。


それは物語に出てくるような呪文ではなかった。


祈ることを強いられた石が出す音に近かった。


ヴルダラクの骨ばった腕が、ばきりと鳴る。


折れたのではない。


畳まれた。


関節が一つずつ、間違った順番で、内側へ。


その体が見えない拳の中の濡れた紙みたいに縮んでいくあいだ、仮面だけは俺を見ていた。


一瞬、あの生き物の内側には肉も骨も血もなく、形を被った空洞だけが詰まっているのだと思えた。


そして、その形までもが潰れた。


白い仮面は、最後まで笑ったまま、闇へ落ちていった。


背後の笑い声が、掠れた息へ変わった。


錆の匂いが鼻の奥を焼くほど強くなる。


首筋に、何か温かいものが触れた。


雫なのか、飛沫なのか、息なのか、分からない。


残りの仮面たちが一斉に鋭く鳴いた。


だが、追っては来なかった。


梢の上に並んだ。


電線に止まる鳥みたいに。


ただし、あまりにも長く、あまりにも静かで、あまりにも死者じみていた。


俺たちと奴らのあいだに、見えない線が引かれたようだった。


あるいは、俺が一瞬だけ、喉峡へ運ばれるべき者ではなくなったように。


しばらく、移動は続いた。


森は視界の端で溶け、滲んでいく。


意味の分からない陶酔感は、まだ俺を放さなかった。


そして恐怖よりも、思考よりも深い場所で、ひどく動物的な確信が目を覚ました。


もしあの仮面たちが、いつかもう一度近づいてくるなら。


逃げても無駄だ。


土の中に隠れるしかない。


ふいに、すべてが止まった。


俺は太い木の根のあいだに倒れていた。


目の前には、女の黒い影が立っている。


影はとても滑らかに、ゆっくりと近づいてきた。


まるで浮いているように。


「マ、マリア……何が起きてるんだ……」


彼女は近づいてくる。


さらに近くへ。


そしてようやく、俺はその顔を見た。


あの美しい女の顔ではなかった。


見る影もなく歪んでいた。


カモミールの匂いは消えている。


目は、まるで瞼が存在しないみたいに大きく見開かれていた。


破れた血管が、白目に赤い染みを残している。


その視線にも、表情にも、嫌悪と蔑みがあった。


俺は起き上がろうとした。


後ろへ這おうとした。


だが動けない。


手足が命令を聞かない。


しびれ切って、自分のものではなくなったみたいだった。


彼女はもう、ほとんど俺の真上にいた。


ゆっくりと屈み込む。


「あ……あ……」


かすかな呻きが、俺の喉から漏れた。


マリアは俺の上に座り、顔を俺の顔へ近づけた。


その瞬間、顔の造作が急速に、あり得ない速さで変わり始めた。


またマリアだった。


真剣で、ぞっとするほど美しいマリア。


「アスゴルド。ツケを払う時間よ」


何かが、突然、俺の胸郭へ突き刺さった。


俺は視線を下げる。


彼女の手だった。


その手は、まるで先にメスで皮膚を裂かれ、次に鋸で肋骨を押し開かれたあとみたいに、俺の胸へ入っていた。


叫ぼうとした。


だが声が消えていた。


彼女は乱暴に手を引き抜き、立ち上がった。


指のあいだに、何かを握っている。


それは脈打ち、血を滴らせていた。


錆の匂いがさらに強くなり、ついにカモミールを完全に塗り潰した。


体から、すべての力が抜けていく。


それでも痛みはなかった。


意識が遠のき、あたりを真っ黒な闇が満たしていく。


遠くで、声が聞こえた。


「私、マリア・ビヴルフは……あなたと偉大なるミノダルの御前に誓う……」


その先の言葉は、意味のない音へ崩れていった。


彼女の影は、どこか古いリズムに合わせるように身をくねらせていた。


見えない太鼓に操られているみたいに。


遠くで、ぐちゃり、という湿った音がした。


そこで俺の意識は途切れた。


****


小川の音が、少しずつ大きくなっていった。


濡れたチュニックが体に張りついている。


「おい、若いの。生きてるか?」


声がした。


俺はうっすら目を開け、すぐに強い日の光に目を細めた。


待て。


俺は自分の手を見た。


枷がない。


「おい、大丈夫か?」


ようやく声の主へ目を向ける。


外套をまとった老人だった。


白髪と、手入れされていない髭。


急に気分が悪くなった。


俺は横を向き、吐いた。


反射的に胸を掴む。


布は濡れていた。


皮膚は無事だった。


傷もない。


血もない。


だが指の下で、何かが鈍く、よそよそしく打った。


心臓が、本来あるべき場所より少し深いところで鳴っているみたいだった。


口の中には、錆の味が残っている。


老人はその動きに気づいた。


視線が一瞬、俺の胸に留まる。


「小川に流されて、この岸へ打ち上げられていたんだ。わしはよくここで魚を釣る」


俺は目を細め、老人を見た。


「あなたは誰ですか? それに、ここはどこなんです?」


老人はすぐには答えなかった。


彼はまだ、俺の顔ではなく、俺の胸を見ていた。


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