第2話「脱走
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『逃げたいんでしょ、アスゴルド?』
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妙なことに、俺はそのことを考えてすらいなかった。
囚人なら誰だって、自分の枷を外したいに決まっている。
特に、こんな枷なら。
たぶん、アスゴルドならそう望んだはずだ。
仮に、どうにかしてここから抜け出せたとして、そのあとどうする?
俺はまた監視者たちへ目を向けた。
体に震えが走る。
『あなた、迷いと恐怖でいっぱいね、アスゴルド』
また、彼女の声が俺の意識を通り抜けた。
くそ。お前にはあの連中が見えてるのか? あんなものを見て、どうやって怖がらずにいられるんだ。
あいつらが人間に何をできるのか、考えるだけでぞっとする。
俺の故郷にある刑務所の、看守とモップにまつわる下品な噂だって、あれほどは怖くない。
くそったれ。俺は最初からずっと、迷いと恐怖でできてるみたいなもんだろ。どうしてこんな状況になってるのかも分からないんだぞ。
『もちろん見えているわ。ちゃんと計算に入れてる……』
マリアは半分だけこちらへ顔を向けた。唇が、あまりにも落ち着いた笑みの形に伸びる。
まさか、俺の考えてること全部読めるのか?
『あら、違うわ、アスゴルド。人の思考っていうのはね、映像と内なる声がぐちゃぐちゃに絡まった、信じられないくらい面倒な流れなの……』
『私は自分にできる範囲で、その絡まった糸をほどいているだけ』
彼女の視線が下へ落ちた。
俺はまだ、チュニックをまくり上げたまま、布切れを手に突っ立っていた。
両手が反射的に前で交差し、その拍子に布切れが落ちる。
なんで今さら気づくんだよ。
『ははは、アスゴルド。私はこれまで、いくらでも男を見てきたの。だから気にしなくても……』
彼女は自分の腿に手を這わせ、チュニックの裾を少し持ち上げた。
『もっとも、あなたが監視者をそれほどの壁だと思う理由は分かるけど……』
「ヴルダラク?」
思わず声に出ていた。
「え? 何のこと、アスゴルド?」
彼女は驚いたように言った。
木々のあいだで、白い仮面の一つがかすかに揺れた。
俺は口を両手で押さえた。ほかに、もっと隠すべき場所が露わになっていることも忘れて。
『最初から脱走を台無しにしたいの?』
笑みがマリアの顔から消え、代わりに蔑むような目だけが残った。
『それにしても変ね。あなたがあれの正体を知らないなんて。あなた、とても怪しい人だわ……』
あの大男の「優しい撫で方」のおかげで、記憶が吹っ飛んだんだよ。
『ああ、堕ちた騎士……自分の神をあれほど敬っておきながら、あんな罪を犯すなんて。面白い人ね……』
だが、こいつだって、野蛮に摘まれて金属の花壇へ放り込まれた可憐な花、ってわけじゃないだろう。
『はは。もちろん、私も理由なくここにいるわけじゃない』
くそ。こいつが俺の思考を読んでいることを、毎回忘れる。
それなら、この……ヴルダラクたちの思考も読めるのか?
『……人は死ぬと、魂の欠片も消える……』
待て。それって、つまり……
「アスゴルド、いつまで固まってるの。布を拾って、さっさと終わらせなさい」
マリアは背を向けたまま、不機嫌そうに言った。
『計画はあとで話すわ……あなたの同意が必要なの、アスゴルド』
失うものなんてない。
逃げられる可能性があるなら、試してみるしかない。
それでも、その考えだけで体の内側が少し冷えた。
「私は焚き火で温まってくるわ。あなたは自分の用を済ませて」
彼女は俺を見もせず、囚人たちの群れへ戻っていった。
『夜になったら、あなたが何をすればいいのか、私たちがどう動くのかを教えてあげる……それまで休んでいなさい、子猫ちゃん……』
俺は彼女の背中を見送った。
視線が勝手に、その脚へ、腰の動きへ吸い寄せられる。
そのせいで、余計に気分が悪くなった。
こんな場所でも、頭ってやつは本当にろくなことを考えない。
どうして俺なんだ?
マリアの立場なら、堕ちた騎士かマルトを選ぶ。
タイル貼りくらいしか取り柄のない、半死にの移民みたいな男を、どうして必要とする?
俺は壺のそばへ布切れを投げ、チュニックを下ろした。
少しだけ気分はましになった。やはり、体の特定の部位は常に清潔にしておくべきだ。
人類が進化の過程でそれに気づいたのは、いいことだと思う。
いや、待て。この世界にも進化って概念はあるのか?
こっちにも、地元のダーウィンみたいなやつが?
俺はもう一度、監視者を見た。
いや、もうヴルダラクと呼んでいいのか?
何なんだ、その名前は。
「ぶるっ」
体が震え、俺は焚き火の方へ歩き出した。
ゆっくりと、足を引きずりながら、今の状況を考え続ける。
まあ、夜になれば分かる。
俺はもう一度、監視者たちを振り返った。
あいつらも、まさか思考を読めるんじゃないだろうな?
だって、あいつらは俺の名前を呼んだ。
それに……
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「お前、あそこであの女とヤってたのか? なんでそんなに遅いんだ、犬っころ」
横になったまま、マルトが頭だけをこちらへ向けて言った。
俺は枷を目の高さまで持ち上げて見せた。
「それがどうした。尻を洗うくらい、手がなくてもできるだろ」
マルトはにやりと笑った。
「犬みたいにな。座って、そのまま……はははは」
俺は引きつった笑みを作った。
正直なところ、どうしてこいつが不満そうに俺へ絡んでくるのか、まったく分からない。
「おや。今また俺に楯突こうとしたな……まあいい。疲れたんだ、タウレア人。続きは明日だ」
マルトは低く唸るように言った。
大人の猫って、一日十六時間くらい寝るんだっけ?
かわいそうなネコちゃん、か。
檻の中では、どれだけ頑張っても眠れなかったのに。
「それと、魔女には気をつけろ……お前も知っているだろう。あいつらがどんな存在で、何ができるのか」
彼の目は閉じた。
だが耳だけは、アンテナみたいに生きていた。
相棒、俺はマクスウェル方程式が何で、何を意味するのかなら知っている。
でも魔女とその能力については、何一つ知らない。
俺は別の囚人たちの方へ目をやった。
マリアは知らない男のそばに座り、笑いながら何かを囁いていた。胸をぴったりと押しつけるようにして。
ふいに彼女は相手から視線を外し、上目遣いでこちらを見た。
あの、同じ薄気味悪い笑みを浮かべたまま。
俺は慌てて顔をそらした。まるで森に興味を引かれたふりをして。
ああ。
これは大変なことになる。
くそ、アスゴルド。
お前、いったい何をやらかしたんだよ。
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眠りの向こうから、聞き覚えのある音がした。
鈴の音。
あの音だ。
最初は、ほとんど優しかった。
誰かが隣の部屋で、そっと飾りを指で触れているみたいに。
それから音は近づいた。
大きくなったのではない。
近づいたのだ。
俺が目を開けかけた瞬間、鈴の音は刃物で切られたみたいに途切れた。
囚人たちは全員眠っていた。
あまりにも整然と。
あまりにも動かずに。
森は暗く、そして……白い仮面は一つも見えなかった。
そのことが、なぜか少しも安心につながらなかった。
化け物が視界から消えたからといって、どこかへ行ったとは限らない。
俺は別の囚人たちの方を見た。
妙な動きがある。
マリアが立ち上がり、例の男と一緒に荷車の方へ歩いていった。
俺がさっき使った水壺のある場所だ。
男は彼女の後ろをおとなしく歩いていた。少しだけ頭を垂れている。
手を引かれているのではなく、思考を引かれているように見えた。
彼の枷の鎖はほとんど鳴らなかった。
いや、鳴っていたのかもしれない。ただ、その音がひどく遠かった。
二人はゆっくり荷車に近づいた。
男は角の向こうへ入り、見えなくなる。
マリアだけが、そこに立っていた。
ほとんど何も見えない。
夜の闇がすべての細部を、すべての……輪郭を隠し、俺には影と想像だけを残していた。
この濃い森そのものが、闇のもう一つの源みたいだった。
あいつらは、同じ側にいる。
木々はただ野営地の周りに立っているのではない。
見ていた。
荷車の足元に、男の影が地面へ広がった。
木の車輪の下から、彼の脚だけが見えている。
マリアがその上へ屈み込む。
一瞬、彼女の影が男を丸ごと覆った。
まるで箱に蓋をするみたいに。
チュニックの布が小さく揺れた。
彼女は上に降りた。
影が重なる。
荷車が小さく軋む。
低い呻き声がした。
湿っていて、気まずくて、耳に残る声だった。
まったく。
こんな状況でも、人間の「生物としての都合」は勝つのか。
いや、逆に言えば、なぜ悪い?
あいつらは全員、喉峡へ向かっている。
それが何なのかは知らないが、明らかに人生の「終着点」だ。
アスゴルドの体は、その影と音が描くものに、まったく反応しなかった。
この体に残っているのは、痛みと恐怖と羞恥だけなんじゃないか。
しばらく俺は横になったまま、その光景を見つめていた。
だがやがて目を閉じ、もう一度まどろみへ戻ろうとした。
そういえば、俺は夢を見ていなかったんじゃないか?
突然、短く、引き裂くような男の悲鳴がした。
その声はくぐもっていた。
手や布で塞がれたのではない。
夜そのものに塞がれたみたいだった。
森が息を吸い、声が焚き火まで届く前に飲み込んだように。
俺は目を開け、また暗闇を凝視した。
荷車の下で、男の脚が痙攣していた。
踵が土を掻き、靴のつま先が開いては閉じる。
体はもう逃げる権利を失っているのに、脚だけが逃げようとしているみたいだった。
普通の人間なら嫌悪を覚える、気味の悪い動きだった。
マリアはまだ上にいた。
だが、その影はもう、情欲に動く人間のものではなかった。
あまりにも鋭く、あまりにも正確だった。
男に触れているのではない。
目に見えない何かを、男の中から絞り出しているようだった。
彼女の手の下には、他人の胸郭に埋め込まれた見えないレバーがある。
そんなふうに見えた。
風もないのに、彼女の髪が持ち上がり、ゆっくり揺れている。
くそ。
何が起きている?
俺は少し身を起こし、もっとよく見ようとした。
その瞬間、片方の靴が最後に一度だけ跳ね、つま先を上に向けたまま固まった。
もう片方はまだ震えていた。
だがそれは、生きた体の一部というより、糸で吊られた物の揺れ方だった。
俺に見えたのは、荷車の下から突き出たまま動かなくなった靴の影だけだった。
そして分かった。
これはもう、セックスには見えない。
捕食だ。
『まあまあ、アス・ゴルド。覗き見なんて、恥ずかしくないの? はははは……』
頭の中で、女の高い笑い声が弾けた。
俺は驚いて跳ね起き、危うく脳卒中でも起こすところだった。
『まるで、両親のそういう場面をうっかり見てしまった小さな男の子ね……』
俺は黙った。
その挑発には反応しない方がいい。
あの大柄な男に、いったい何をしたのかなんて、聞かない方がいい。
『アスゴルド。そろそろ……脱走の計画を話しましょう』
俺は振り返り、野営地全体を見回した。
だがマリアは見えない。
あの女、どこにいる?
『でもその前に、私たちは契約を結ばなければならない』
声が急に真面目になった。
静かで、厳しく、空間そのものに沈んでいくような声だった。
契約?
『私は自分の力を完全には使えない。この枷と檻があるかぎり……メルドライト。モリアハの深淵から掘り出されたものよ……』
メルドライト?
ふいに、かすかなカモミールの匂いがした。
それから……錆の匂い。
二つは混ざり合い、ゆっくり踊るみたいに一つの奇妙な香りになった。
不快で、なのにどこか惹きつけられる。
誰かの手が俺の肩に触れた。
俺はびくりとし、飛び退こうとした。
だが体が動かない。
その場に縫い止められたように立っていた。
心臓は、実験用のネズミがプラスチックの飼育ケースから逃げようとしているみたいに暴れていた。
手は温かく、柔らかかった。
もう一つの手が、反対の肩へ滑るように落ちてくる。
二本の腕が這い、絡まり、俺を抱き込んだ。
匂いが濃くなる。
「そうよ、アスゴルド。契約。これが、私たち二人で枷の力を越えるために必要なの」
彼女は突然、俺の耳元で囁いた。
それでも声は、さっきと同じように真剣だった。
「あ……契約って……どういうものなんだ? 紙か? 署名が必要とか? 条件は? 当事者の責任とか……」
何を言ってるんだ、俺は。
オフィスって場所は、俺の思考パターンまでこんなふうに刷り込んだのか?
『あなたは、ただ「はい」か「いいえ」と言えばいい』
はいか、いいえ。
何だ、それ。
急に頭がぐらついた。
快感に近い高揚が押し寄せ、心地よい波が体を走る。
カモミールの匂いから、もう一つの匂いが消えたように感じた。
錆はその中に沈み、見えなくなった。
「は……はい……それとも……い、いいえ……」
『アスゴルド。自由になるために、私と契約する覚悟はある? はいか、いいえ』
顔の筋肉が働くのをやめたみたいだった。
俺にできるのは、何かをもごもご言うことだけだった。
思考が絡まり、森の縁が脈を打つ。
壊れた三次元空間の中に立っている気がした。
あるものは大きくなり、あるものは小さくなり、それでいてすべてが、本来の形から少しずつ伸びていた。
『はいか、いいえ……』
高揚はさらに強くなった。
誰かを抱きしめたい。
それから口づけて、離したくない。
話したい。
話したい。話したい。話し続けたい。
「は、は、はい……」
それでも、薬のようなこのぼんやりした感覚は、俺の判断を完全には奪わなかった。
同意する方が、あの喉峡へ連れていかれるよりはましだ。
これは勇気でもなければ、覚悟でもない。
俺はただ、確実な終わりの代わりに、正体の分からない悪を選んだだけだ。
突然、すべてがぷつりと終わった。
視界は元に戻った。
静寂。
自分の心臓の音だけが聞こえるほど、静かだった。
肩にあった手も、彼女の気配も、もう消えていた。
「馬鹿が……」
マルトの荒い猫のような声が聞こえた。
「え……?」
俺は彼を見た。
マルトは横になったまま、苛立たしげにこちらを見ていた。
背後から、チュニックを掴まれた。
指か、爪か。
それが肩甲骨のあいだの布へ食い込む。
マリアなのか?
世界は動き出したのではなかった。
弾け飛んだ。
野営地の端が細い裂け目へ縮み、背後へ消える。
まるで、野営地そのものの目の前で扉を叩き閉められたみたいだった。
焚き火は橙色の傷口になり、次の瞬間には闇に塞がった。
木の幹は横を流れていくのではない。
目の前に生え、すぐ背後へ倒れていく。
無限に、黒く、濡れて。
足音は聞こえなかった。
マリアの息も聞こえない。
聞こえるのは、顔を裂く風と、手首を打つ鎖と、耳元で響く彼女の笑い声だけだった。
その笑いは、楽しいものではなかった。
崖から落ちながら、自分が飛べることに突然気づいた人間は、きっとこんなふうに笑う。
冷たい空気が、ジェットエンジンの噴流みたいに顔を打った。
それから匂い。
カモミールと錆。
腐った針葉樹の森の匂いと混ざっている。
錆はどんどん濃くなっていった。
もう金属の匂いではない。
開いた傷口の匂いだ。
次に起きたことが、俺をさらに深い恐怖へ突き落とした。
闇の中から、仮面が現れた。
最初は一つ。
高い枝のあいだに。
次にもう一つ。
横から。近すぎる距離で。
そのあと、一気にいくつも。
あいつらは走っていなかった。
木々の梢を、蜘蛛のように這っていた。
枝から枝へ跳び移っているのに、枝はほとんどしならない。
まるで森の方が、自分から背中を差し出しているみたいだった。
その動きは歪んでいた。
速いのではない。
途切れ途切れで、引き裂かれたような動きだった。
世界が、あいつらの体を描き終えるのに間に合っていない。
まず仮面が現れ、次に長い腕、次に胴体の代わりの空白、そして全身が揃ったと思った瞬間、もう別の場所にいる。
白い顔が、壊れたフィルムのコマみたいに闇の中で瞬いた。
いくつもの喉が、同時に啼くように、しゅう、と鳴った。
歯の根が痛くなる音だった。
一体が、すぐそばにいた。
近すぎて、仮面の笑みの切れ込みまで見えた。
そして理解した。
あれは彫られたものではない。
動いている。
「ア……ア……アスゴルド……」
それはそう呻いた。
名前は、耳に届いたのではなかった。
歯の根を通り、喉を通り、背骨を通って響いた。
そいつは、長すぎる糸で操られる関節人形のように動いていた。
骨ばった手がこちらへ伸びる。
すると、俺とそれとの間の空間が、急に樹脂みたいに粘った。
何かが喉を掴み、後ろへ引き戻そうとする。
皮膚ではない。
チュニックでもない。
俺そのものを。
なぜかまだ「アスゴルド」という名に反応してしまう、俺の中のどこかを。
「触るな、歩く死体」
深く、腹の底から響く女の声がした。
マリアに似ていた。
だがその声は、いったん地面を通ってから戻ってきたみたいだった。
「今夜の私は、もう満ちている」
彼女は、俺には理解できない言葉を叫んだ。
それは物語に出てくるような呪文ではなかった。
祈ることを強いられた石が出す音に近かった。
ヴルダラクの骨ばった腕が、ばきりと鳴る。
折れたのではない。
畳まれた。
関節が一つずつ、間違った順番で、内側へ。
その体が見えない拳の中の濡れた紙みたいに縮んでいくあいだ、仮面だけは俺を見ていた。
一瞬、あの生き物の内側には肉も骨も血もなく、形を被った空洞だけが詰まっているのだと思えた。
そして、その形までもが潰れた。
白い仮面は、最後まで笑ったまま、闇へ落ちていった。
背後の笑い声が、掠れた息へ変わった。
錆の匂いが鼻の奥を焼くほど強くなる。
首筋に、何か温かいものが触れた。
雫なのか、飛沫なのか、息なのか、分からない。
残りの仮面たちが一斉に鋭く鳴いた。
だが、追っては来なかった。
梢の上に並んだ。
電線に止まる鳥みたいに。
ただし、あまりにも長く、あまりにも静かで、あまりにも死者じみていた。
俺たちと奴らのあいだに、見えない線が引かれたようだった。
あるいは、俺が一瞬だけ、喉峡へ運ばれるべき者ではなくなったように。
しばらく、移動は続いた。
森は視界の端で溶け、滲んでいく。
意味の分からない陶酔感は、まだ俺を放さなかった。
そして恐怖よりも、思考よりも深い場所で、ひどく動物的な確信が目を覚ました。
もしあの仮面たちが、いつかもう一度近づいてくるなら。
逃げても無駄だ。
土の中に隠れるしかない。
ふいに、すべてが止まった。
俺は太い木の根のあいだに倒れていた。
目の前には、女の黒い影が立っている。
影はとても滑らかに、ゆっくりと近づいてきた。
まるで浮いているように。
「マ、マリア……何が起きてるんだ……」
彼女は近づいてくる。
さらに近くへ。
そしてようやく、俺はその顔を見た。
あの美しい女の顔ではなかった。
見る影もなく歪んでいた。
カモミールの匂いは消えている。
目は、まるで瞼が存在しないみたいに大きく見開かれていた。
破れた血管が、白目に赤い染みを残している。
その視線にも、表情にも、嫌悪と蔑みがあった。
俺は起き上がろうとした。
後ろへ這おうとした。
だが動けない。
手足が命令を聞かない。
しびれ切って、自分のものではなくなったみたいだった。
彼女はもう、ほとんど俺の真上にいた。
ゆっくりと屈み込む。
「あ……あ……」
かすかな呻きが、俺の喉から漏れた。
マリアは俺の上に座り、顔を俺の顔へ近づけた。
その瞬間、顔の造作が急速に、あり得ない速さで変わり始めた。
またマリアだった。
真剣で、ぞっとするほど美しいマリア。
「アスゴルド。ツケを払う時間よ」
何かが、突然、俺の胸郭へ突き刺さった。
俺は視線を下げる。
彼女の手だった。
その手は、まるで先にメスで皮膚を裂かれ、次に鋸で肋骨を押し開かれたあとみたいに、俺の胸へ入っていた。
叫ぼうとした。
だが声が消えていた。
彼女は乱暴に手を引き抜き、立ち上がった。
指のあいだに、何かを握っている。
それは脈打ち、血を滴らせていた。
錆の匂いがさらに強くなり、ついにカモミールを完全に塗り潰した。
体から、すべての力が抜けていく。
それでも痛みはなかった。
意識が遠のき、あたりを真っ黒な闇が満たしていく。
遠くで、声が聞こえた。
「私、マリア・ビヴルフは……あなたと偉大なるミノダルの御前に誓う……」
その先の言葉は、意味のない音へ崩れていった。
彼女の影は、どこか古いリズムに合わせるように身をくねらせていた。
見えない太鼓に操られているみたいに。
遠くで、ぐちゃり、という湿った音がした。
そこで俺の意識は途切れた。
****
小川の音が、少しずつ大きくなっていった。
濡れたチュニックが体に張りついている。
「おい、若いの。生きてるか?」
声がした。
俺はうっすら目を開け、すぐに強い日の光に目を細めた。
待て。
俺は自分の手を見た。
枷がない。
「おい、大丈夫か?」
ようやく声の主へ目を向ける。
外套をまとった老人だった。
白髪と、手入れされていない髭。
急に気分が悪くなった。
俺は横を向き、吐いた。
反射的に胸を掴む。
布は濡れていた。
皮膚は無事だった。
傷もない。
血もない。
だが指の下で、何かが鈍く、よそよそしく打った。
心臓が、本来あるべき場所より少し深いところで鳴っているみたいだった。
口の中には、錆の味が残っている。
老人はその動きに気づいた。
視線が一瞬、俺の胸に留まる。
「小川に流されて、この岸へ打ち上げられていたんだ。わしはよくここで魚を釣る」
俺は目を細め、老人を見た。
「あなたは誰ですか? それに、ここはどこなんです?」
老人はすぐには答えなかった。
彼はまだ、俺の顔ではなく、俺の胸を見ていた。




