第8話 水面の真実
翌朝、ベルタが来た。
顔が青白かった。
「昨夜、見てしまったの」
ルシアは何も聞かずに、ベルタを台所に通した。
「台所の鍋に水を張ったら、映ったの。
料理中に、ふと覗き込んだら」
「……」
「最初は自分だと思った。
でも、違った」
ベルタは震える手でコップを握った。
「複眼なの。
目がたくさんあって、顎が……顎が変な形で、体が節みたいになってて」
「——」
「ルシア、あなたは?
あなたはまだ、見てないの?」
ルシアは答えられなかった。
「まだ見ていないなら、見ない方がいい」
「実はもうとっくに、見ていたわ」ルシアはため息をつきながら言った。
ルシアの答えに、ベルタは唇を噛んだ。
「街を出ようって、夫に言ったの。
一人でも、街から出てみようとした。
でも、動けないのよ。
どうして?
頭では出ようって思ってるのに、足が……体が、ここを離れようとしないの」
「私もよ。体が、動いてくれないの」ベルタがルシアに同意する。
「何なの、これ」泣きそうになりながら、ルシアがつぶやく。
「どうなってるの?私にも理解できない」ベルタも泣きそうになりながら、言った。
「何なの、この街は?もうすぐ、きっと私の可愛いエリーナもいなくなるわ」
「そんな。どうして……」
「わからないのよ!」ルシアは声を荒げた。
ベルタが黙った。
二人の間に、沈黙が落ちた。
窓から朝の光が入ってくる。
きれいな光だった。
どこまでも、きれいな光だった。
エリーナは、まだ家にいる。
今頃、本を読んでいるか、窓から外を見ているか、猫と遊んでいるか。
明るくて、素直で、笑顔の可愛い娘が、家にいる。
何も言わない。
何も変えない。
何もわからなかった顔をして、シチューを作って、エリーナの笑顔を見て、夫と眠ろう。
知ってしまったことを、知らなかった頃には戻れない。
でも、知っているふりをしないことはできる。
目をつぶることは。
できる。
……できるはずだった。




