第七話 ルシアの選択
三日後、マルタが姿を消した。
夫が帰ってきたら家に誰もいなかったと言う。
荷物はそのままで、扉は開けっ放しで、台所のテーブルの上に冷えたスープが残っていた。
「マルタが消えたの」
「もしかして、神隠し?」
「でも、大人が神隠しになるなんて聞いたことないわ」
街がざわめいた。
捜索が行われたが、またも見つからなかった。
ルシアは、池の近くから動けなかった。
マルタが最後に目撃されたのが、この池のほとりだったと、誰かが言っていた。
静かな池だった。
水は澄んでいて、空が映っている。
底が見えた。
池はそれほど深くない。
底の石が見えて、水草がゆらゆらと揺れていて。
ルシアは目を細めた。
水草の向こうに、何かある。
透明な、丸い形のものが。
いくつも。
大きさは、子供ほど。
「——」
ルシアは息を止めた。
逃げなければ。
今すぐここから離れなければ。
エリーナを連れて、セバスを連れて、この街から出なければ。
でも足が動かなかった。
なぜか、足が動かなかった。
本当に動かないのではなく、動かすことを、身体が拒否していた。
この街を出てはいけない、という何かが、骨の芯から這い上がってきて、足の裏から地面に根を張るように、ルシアをそこに留めていた。
「行かなければ」
声に出した。
「行かなければ、行かなければ、行かなければ」
呪文のように唱えながら、一歩、また一歩と、足を動かした。
やっと池から離れた。
家に帰った。
エリーナが玄関で待っていた。
「おかあさん、遅かったね」
「うん、ごめん」
ルシアはエリーナを抱きしめた。
小さな体。
温かい体。
「エリーナ」
「なに?」
「……何でもない」
ルシアはエリーナの首の後ろに、そっと手を当てた。
白い線が、指先に触れた。
細い、ひびのような線。
ルシアは手を離した。
「ね、お母さん、今夜なんのご飯?」
「……シチューよ」
「やった!」
エリーナが笑う。
その笑顔は、本当に美しかった。
神に祝福されたような、完璧に整った笑顔だった。
ルシアは笑い返した。
泣きそうになりながら、笑い返した。
いつから。
いつから、この街はこうだったのか。
自分はいつから、「それ」だったのか。
エリーナはいつから、「それ」を孕んでいたのか。
わからない。
わからないから、笑っていた。
笑い続けていた。
夜、夫が眠ってから、ルシアは台所に座った。
テーブルの上に、あの泥で作られた仮面を置いた。
棚の奥から取り出した、ゴットが作った素焼きの仮面。
手に取ると、軽かった。
素朴な模様が彫ってある。
ゴットはこれを、子供の異変を隠すために作っていたと言ったらしい。
大人には見せるなと子供たちに言った、とエリーナから聞いた。
どうして大人には見せるなと言ったのか。
ルシアは今、わかった気がした。
大人が見れば、怖がるから。
怖がって、火をつけるから。
ゴットは知っていたのだ。
老婆も知っていたのだ。
二人は子供たちを守ろうとしていた。
この街の「変化」から守るのではなく。
変化しつつある子供たちを、「怖がった大人たち」から守ろうとしていた。
そうか。
じゃあ、誰が悪者だったのか。
ルシアは仮面を持ったまま、エリーナの部屋に入った。
眠るエリーナの顔に、そっと仮面を当てた。
ふわっと一瞬仮面が光って、首の後ろの線が消えた。
ルシアは線に気づくたびに、こうして隠していたのだろう。
何かをしなければ、気が狂いそうだったから。
「ごめんね、エリーナ」
囁いた。
「お母さんが……もっと早く気づいていれば」
何に気づけばよかったのか。
気づいたとして、何ができたのか。
何もできなかった。
きっと、最初から。




