第六話 鏡
ルシアは翌朝、自分の部屋の鏡を割った。
理由は自分でもわからなかった。
ただ朝起きて、寝室の鏡の前に立ったとき、鏡に映った自分の顔を見た瞬間、体が動いていた。
鏡の枠を両手で掴んで、壁から引き剥がして、床に叩きつけた。
夫が飛び起きて「どうした?大丈夫か?」と叫んだ。
「ごめんなさい。割ってしまって」とベルタは言った。
「今、鏡の中に見えてしまったの。
でも、もう見たくないから」
「何が見えたんだ?どうした?」
ルシアは床の破片を見た。
割れた鏡には、無数の自分の断片が映っている。
その断片のひとつひとつに、本当の自分の顔が映っている。
多脚で、複眼で、顎に毒牙が生えていて、胴体が幾節かに分かれている自分の顔が。
「何でもないわ」
ルシアは言った。
「床を踏んだら危ないから、片付けといて」
それだけ言って、着替えを取り、台所に降りていった。
朝ごはんを作った。
パンを切り、スープを温め、夫と娘の分を皿に盛りつけた。
何も変わらない朝だった。
ただ、台所の窓ガラスに自分の顔がうっすら映るたびに、視線をそらした。
ベルタは、ルシアに会いに行った。
「マルタを見た?」
「いいえ、昨日から」
「昨夜、池の近くにいたわよ。
うちの夫が見たって。
地面に座って、ぼんやりしてたって」
ルシアは表情を固くした。
「老婆の言葉を気にして、確認しに行ったんだわ……」
「出鱈目よ。あんな言葉、聞いちゃだめよ」ベルタは言った。
ルシアがふと、ベルタに聞いた。
「今日の私、どう見える?」
割った鏡の記憶が、まだ目の裏に貼りついている。
「え?今日もルシアは綺麗よ。青い目に艶のある茶色い髪が美しいわ」
「ありがとう。そうよね。そうだわ」
「そうよ。ふふっ。変なことを聞くのね」
二人はしばらく微笑みあっていた。
その時、エリーナが二階から降りてきた。
「おばさん、こんにちは」
「こんにちは、エリーナちゃん」
ルシアはエリーナを見た。
美しい子だ。
本当に美しい。
均整のとれた顔、艶のある髪、宝石のような薄緑の目。
神に祝福された子。
でも今日のエリーナの首の後ろに、昨日より少し太くなった白い線が見えた。
ルシアは視線をそらした。
見なかったことにした。
その夜、ルシアは夫に言った。
「ねえ、あなた、街を出ない?」
夫は驚いた顔をした。
「なんで急にそんなこと言うんだ?」
「なんとなく。
旅をしたいなと思たの」
「エリーナもいるのに、いきなり何を言い出すんだ?」
「だから、エリーナと一緒に。
三人で」
夫はしばらく考えてから、首を横に振った。
「ダメだよ。
ここが俺たちの街だろう。
仕事もあるし、家もある」
「……そうね」
「明日になれば落ち着くって。
カルやアランのことが続いてるから、みんな不安になってるんだよ」
「そうね」
「さあ、寝よう。もう遅いよ」
「……うん」
ルシアは布団の中で、目を閉じた。
鏡の中に見えた姿は、何だったの?
幻覚?どうしよう。怖い。
瞼の裏に、割れた鏡の断片が見える。
複眼の自分が、見ている。
眠れなかった。




