表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神に祝福された街  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/12

第五話 マルタの夜

マルタは、その夜一人だった。


夫は仕事が忙しく、帰りが遅くなる日だった。


子供のアランがいなくなってから、家の中は静かすぎた。


静かすぎて、いろんな音が聞こえた。


家が沈む音。

時間が腐る音。

自分の胸の中で何かが蠢く音。


マルタはろうそくを持って、台所に立った。


何か食べようと思ったが、食欲がなかった。


ぼんやりと窓の外を見ると、夜の街が静まり返っている。


その向こうに、黒く光る水面が見えた。


街の中央にある、聖なる池。


昼間は街の子供たちが水を汲みに行く場所だ。

夜は誰もいない。


  『子供のことを……確認したいかい?

  なら、池の中を覗いてご覧』


老婆の言葉が、もう何十回も頭を流れた。


「馬鹿馬鹿しい」


マルタは声に出して言った。


「あんな老婆のたわ言なんか、気にしちゃいけない」


でも足は扉の方へ動いた。


家の扉をゆっくり開けた。


夜風が思っていたよりも、冷たかった。


石畳の上を、マルタのサンダルの音だけが響いた。


池に近づくにつれ、水の匂いがしてきた。


冷たく、少し藻の混じった、澄んだ水の匂い。


昼間は美しいその池が、夜は黒く、深く、底の見えない鏡のように広がっていた。


マルタは池のほとりに立った。


水面に、空の星が映っている。


そして自分の顔が映っている。


「……何もいないじゃない」


マルタは呟いた。


「いつもの池だわ。

何もおかしくない。

子供達もいるわけがない」


でも。


ろうそくの光が揺れて、水面が揺れた。


揺れが収まったとき、映っているものが、わずかに、ほんのわずかに変わった。


マルタは目を凝らした。


自分の顔のはずだった。


自分の目と、鼻と、口のはずだった。


でも何かが違う。


目の位置が、少し、ずれている。


いや、目の数が……。


左の頬の下に、もう一つ、目があった。


まぶたの形をした膨らみ。

その下に、黒く光る眼球。


「——ッ」


マルタは息を詰めた。


足元が揺れた気がして、倒れそうになって、ろうそくを落とした。


炎が消えた。


暗闇の中、水面だけがかすかに光っている。


そこに映っているのは。


もう、人の顔ではなかった。


顎が二股に分かれ、首から複数の腕のような何かが生えていて、頭部が球形ではなく、何か別の形で……。


「違う」


マルタは叫ぼうとした。


「違う違う違う、私はマルタよ、アランの母親よ、私は——」


口を開けた瞬間。


声が出なかった。


代わりに、口の奥から、柔らかくて湿った何かが、ゆっくりと滑り出てきた。


細く、長く、暗闇の中でうっすら光る、触手のような何か。


それは空気を味わうように、しばらく揺れて。


それからゆっくりと、また口の中に引っ込んでいった。


マルタは地面にへたり込んだ。


体が震えて止まらない。


でも不思議なことに、恐怖の次に来たのは……奇妙な安堵だった。


ああ、そうか。


これが本当の自分なのか。


アランが消えたのも。


カルが消えたのも。


この街の「神隠し」も。


全部、こういうことだったのか。


マルタは池を見た。


水面の底に、透明な繭のようなものが沈んでいた。


いくつも、いくつも。


その中に、小さな形が見えた。


アランだ。


アランが、繭の中にいる。


変容の途中で、ゆっくりと眠るように、繭の中にいる。


それはもう人間の形ではなかった。


しかしマルタには、それが確かにアランだとわかった。


そして、愛しいと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ