03 貴族の令嬢が、なぜこんな小さな港町で
次にテーブルの脚のわずかな傾きを直そうとして苦戦する。
「リーフ、テーブルをほんの少しでいいから、支えてくれない?」
リーフは仲間の妖精数匹と共にテーブルの下に潜り込むと小さな体から放出する魔力と風の力で、テーブルを正確に水平に保った。その間に魔力で生成した専用の木片を、わずかな隙間に差し込み、テーブルを固定する。
最大の仕事は妖精の結界、フェアリー・ヴェールを張ること。ティンクル・ウィスパーという名に込めたエリスの願いは、妖精たちが気兼ねなく訪れる、穏やかな休憩所である。
リーフたちはエリスの許可を得て、館の周囲に微細な魔力の膜を張った。普通の人間が館に近づいた時、なんとなく心地よい場所だと感じさせる心理的な結界。
妖精やわずかに魔力に感応する人間にとっては館がキラキラと光り、美味しいお菓子の香りがするように感じられるように設定する。
本当にカフェの準備は整った。貴族の義務ではなく望んだティータイムを始める準備が。厨房の真新しいオーブンを撫でた。
「リーフ、いよいよ明日に開店する。人間のお客さんが来てくれるといいんだけど」
窓枠に座っていたリーフはレモンタルトのかけらを口に運びながら、楽しそうに笑う。
「心配するなエリス。セレーネの港町にお前の魔法の香りは、すでに風に乗って届いている。こんなにも美味しいものが待っているなら我々だって毎日でも通う」
小さくウィンクした。楽しさに小さく笑う。
セレーネの港町に噂が流れ始めた。
「元ファイン侯爵令嬢が町の外れの幽霊屋敷を買い取り、カフェを開くらしい」
興味津々に貴族の令嬢が、なぜこんな小さな港町で……ましてや廃墟を買い取ってまで商売を始めるのか。王都の貴族が経営する店といえば高級な宝飾店か、社交界のサロンが関わる店。カフェなどという一般市民の飲み物を提供する店ではない。
館の周りには以前までとは違う、心地よくて、何か甘い香りが漂う気配が漂い始めていた。
ついに開店当日。白いエプロンを身に着け、深呼吸をした。カフェスペースは簡素ながら温かみのある空間に仕上がる。アンティーク調の木製テーブルが四つ。
窓際には海が見えるカウンター席を一つ。メニューボードには丁寧にカリグラフィーで文字が書かれている。
セレーネ産のハーブと王都の高級茶葉をブレンドした海の囁き
本日のスイーツ
黄金色のアップルパイ、妖精が愛するスコーンと自家製ジャム、港の風のようなレモンタルト
「よし」
深呼吸し、ドアの前に立てかけた看板の裏返しにされていた面を表に向けた。
妖精カフェティンクル・ウィスパーOPEN
カランコロン。ドアの上のベルが鳴ったのは開店から一時間後、太陽が真上に昇り始めた頃。
入ってきたのは初日に館まで案内してくれた、港湾組合の組合長ゲイル。大きな体でカフェの入り口を塞ぐように立ち、顔には戸惑いが浮かんでいた。
「お、お嬢さん、本当に開店したのかい?一体どういうつもりなんだ?こんな場所で……?」
「ゲイル様いらっしゃいませ。ここはもうファイン侯爵令嬢の館ではありません。ティンクル・ウィスパーという一軒のカフェですよ」
にこやかに迎え入れたらゲイルはしぶしぶといった様子で、一番奥の席に腰を下ろした。
「じゃあ、まぁ、一番甘くないものをくれ。仕事中だしな」
「かしこまりました。当店の自慢はセレーネのハーブを使った紅茶です。心身の疲れを癒やすブレンドを淹れましょう」
丁寧に茶葉を計り、湯を注ぐ。立ち昇る湯気と香りは追求した最高の一杯の香りを再現していた。ゲイルは運ばれてきたカップから立ち上る香りを一嗅ぎしけで、表情を変える。
「こいつは王都で飲むような香りだ。ハーブティーじゃないな」
「淹れ方に少しだけ工夫を凝らしました」
ゲイルは一口飲んで目を丸くした。荒っぽい漁師の彼には繊細すぎる味だったかもしれない。お茶の奥深さや飲んだ瞬間、肉体の疲労がすっと引いていくような感覚に驚きを隠せなかった。
「へぇ。悪くない。いや、これは実に旨い」
紅茶を飲み干すと少し居心地悪そうに。
「それでお嬢さん。どうしてここなんだ?王都で優雅に暮らせたはずなのに。旦那様に見捨てられて仕方なくこんな商売を」
カップを拭きながら答える。
「ふふ、不老なのです、ゲイル様」
ゲイルは思わず咳き込んだ。
「ご冗談を。そんなお伽噺のような話を」
「本当のことです。ずっと今の姿で生きるでしょう。数十年の間で老いていく人と添い遂げる人生は重荷で。だから自由を選んだのです」
窓の外に目を向けて微笑んだ。
「誰にも縛られず時間を気にせず、ひたすら美味しいお菓子と心安らぐ飲み物を作り続けたい。場所はティータイムを始めるための最高の場所なのです」
エリスの言葉は水面に波紋を広げるように、ゲイルの心に響いた。
「ティータイム、か……ははっ、貴族の考えることはよく分からんが、茶は美味かった」
ゲイルは代金を支払い、店を出て行った。出て行く間際、後ろを振り返り一つ助言を残した。
「お嬢さん。ここは漁師町だ。紅茶もいいが腹にたまるものも置いときな。午後の疲れには甘いものより塩気が欲しくなるもんだ」
「ああ……塩気。承知しました」




