02 名付けられた風の囁きと、開店の準備
三週間後、廃墟は窓から差し込む光が穏やかに反射する優雅で静謐な空間へと変貌を遂げていた。一階はカフェスペースと厨房、二階はエリスの住居。
建物の修繕が終わり、カフェのメニュー試作に取り掛かった夜のこと。前世で疲れた時に絶対食べたいお菓子ランキング一位だった、特製の紅茶のスコーンを焼いていた。
バターと小麦粉の芳醇な香りが真夜中の館に満ちていく。その時、厨房の窓が一陣の風もなしにカタンと揺れた。
「今、風は吹いてないはず」
焼き上がったスコーンを網に乗せ、紅茶を淹れる準備をしながら窓の外に目を向けた。石壁に囲まれた庭の大きな樫の木の下。何か白い光の粒が集まっているのが見える。なんだろうあれ。
(あれは妖精……?)
妖精は魔法使いや、聖職者などのごく限られた人間にしか視認できない存在だとされている。エリスの不老の体と創造魔法の才能はどうやら妖精を見ることまで可能にしているようだ。ちょっとびっくり。
白い光の粒はよく見ると掌サイズの小さな人型をしている。光沢のある白いローブを纏い、背中には透明な羽を携えている。警戒していると動くもの。
館の周りを飛び回り、時折、エリスの開いた窓に近づいては中に漂うスコーンの香りに吸い寄せられているのが見て取れたから、驚かせないよう窓のサッシを開ける。
焼きたてのスコーンを一つ、ソーサーに乗せて窓枠に置いてみた。熱い紅茶は小さな体を溶かしてしまうかもしれないので、冷ましたミルクティーを小さなグラスに添える。小さなお客さんだからね。
「よろしければ召し上がれ。少しお腹が空いたから、夜食はいかが?美味しいからね」
囁いたら白い妖精たちは一斉に動きを止める。警戒心を抱きながらもスコーンから立ち上るバターの香りと魔力から発せられる無害で優しい気配に引き寄せられる。やがて、大胆な一匹が光の速度で窓枠に飛び乗り、焼きたてのスコーンの周りを旋回していく。
小さな手をスコーンに触れた瞬間、妖精は目を丸くした。ニコニコと笑みが自然と浮かんでしまう。
「ふう、う……」
妖精が発したのは風のささやきのようなか細い音。声が何を言っているのかはっきりと理解できた。可愛い。
「なんてあたたかく美味しい香り……こんな食べ物初めてだ……うん」
彼は小さな身体をスコーンにぴったりと寄せ、焼きたての温かさにうっとりと頬を擦りつけた。微笑む。
「それはよかった。では、また明日、美味しいお菓子を用意してお待ちしておりますね」
スコーンを堪能する姿を邪魔しないよう、窓を閉め、その場を離れた。
妖精カフェティンクル・ウィスパーの最初のお客さまはこうして、人知れず決定。
翌朝、早朝から厨房に立っていた。今度は一口サイズのレモンタルトと、甘さ控えめのハーブキャンディを作る。昨夜の風の妖精はスコーンの熱を警戒していたようだったから、冷たいものも用意してみよう。
焼きたてのタルトを冷まし、ハーブキャンディをトレイに並べたら再び窓を開けた。館の庭の樫の木からは昨夜の白い光の粒が集まっていた。
窓枠にタルトを置くと昨夜の大胆な妖精、光沢のある白銀のローブを纏った少しリーダー格に見える個体が、 警戒しつつも真っ先に近づいてきた。優しく微笑み、話しかける。
「おはよう。昨夜のスコーンはお口に合った?」
妖精は小さく頷き、風のささやきがエリスの耳元で言葉になる。
「至高の味。我らの知る木々の蜜や花の露とは、まったく異なる甘さだ」
「それはよかった。今日はレモンを使ったタルトです。少し酸味がありますがいかが?」
妖精はタルトの周りをぐるりと旋回し、小さな指で表面の砂糖菓子のレモンに触れた。
「風を司る者。館の庭を守護している。お前は我らを脅かさないのか?」
「脅かすつもりはありません。寛げる場所を作りたいだけです。私の名前はエリス・ファインと申します」
一礼したら妖精は困ったように首を傾げた。
「名前?我ら風の妖精に個別の名は不要だ。我々は風」
「 不便でしょう。最初のお客さまです。お礼に名前を付けます」
目を細め、庭の樫の木から窓辺に舞い込んできた一枚の小さな葉に視線を移した。
「風のささやきのように優しく、館に光を運んでくれた……名前はリーフはいかがですか?英語で葉。風と共に舞い光を運ぶ、美しい響き」
リーフ。響きは風の妖精の白い光を、一瞬、虹色に輝かせた。
「リーフ……個別の名……悪くない」
リーフと名付けられた妖精はレモンタルトを抱え込み、残りの小さな妖精たちに向かって何かを囁いた。他の妖精たちも恐る恐るキャンディやタルトに近づき、小さな手で触れて歓声を上げた。
その日からリーフと彼の仲間たちはエリスのカフェ準備の協力者になる。
人間では不可能な領域で発揮された。風だ。
「リーフ、天井の装飾に溜まった数年分の埃をどうにかできる?」
尋ねるとリーフはお安い御用だとばかりに小さな羽根を高速で羽ばたかせた。カフェの空間に一陣の透明な風が巻き起こり、埃や塵は完璧に吸い上げられて窓の外へと排出される。
「完璧!掃除機いらず」




