事件の発端 六 大いに問題ある現実
八花たちが自宅にたどり着くころには、すっかりオオカゼも治まっていた。
ナギが戻っているかと淡い期待を抱いていたけれど、家の中に明かりはない。
「ただいまー」
がっかりして玄関の照明をつけると、オオカゼのせいでひどく蒸していた。
「部屋の窓を開けてきて。あと、うがいと手洗い」
双葉を奥へ向かわせ、キッチンに入って冷蔵庫をのぞいた。もう買い物に行くのも面倒だし、あり合わせのもので簡単にすませてしまおう。
「ふーちゃーん。晩ご飯、パスタでいーい? トマトのやつー」
ストッカーをあさりつつ声を上げたが、反応がない。
あれ、と思っていると、壁一枚へだてて話し声が聞こえた。
「ナギさん?」
慌てて駆け込んだ隣の茶の間では、予想外の光景がくり広げられていた。
キテレツな格好の見知らぬ青年が、にこやかに双葉と語らっているのだ。
二十代の後半くらいのその青年は、八花には最初、舞台衣装のままで楽屋を抜け出してきた歌舞伎役者のように見えた。
今どきありえない床を引きずるようなダークブルーの長髪も、大ぶりのアクセサリーで盛られたアクの強い装束も、自己顕示欲まみれのフェイスペイントも、一瞬ここが自分の家だという事実を忘れるほどの非日常感。
何だか目が回りそう。
だけど歌舞伎役者がうちを尋ねてくる理由なんかない。
「あの、どなたで……あ! ひょっとして芽衣のお知り合いですか?」
イケメンが刀剣を振り回す和風コンテンツが流行している、そのうち男装にチャレンジするかもしれないからと、芽衣に履修しておくよう言われていた。
何事にも研究熱心だから、詳しいレイヤー仲間を紹介してくれたのかもしれない。
どうりで歌舞伎の舞台衣装にしては違和感あると思ったよね!
とはいえ。
歌舞伎役者が訪ねてきたと考えるよりは現実的だけれど、面識もない人間が勝手に家に上がり込んでいるというこの現実には、大いに問題がある。
パスタの袋を握りしめ、双葉の前にまわる。
それとなく視線をさえぎると、青年の微笑みがスンっと消え、虫けらでも見るような目つきでにらまれた。
「なるほど、お前が八花か。胤違いの姉だとかいう」
「……どちらでそれを?」
「今し方、双葉どのに教えていただいた」
双葉は『双葉どの』で、こっちのことは『お前』か。
そうか、こいつ嫌な奴だったのか。だったら芽衣の友だちじゃないな。
ナギや双葉といると、たまにこういう態度の人を見るけど。
まあ気持ちは分からんでもないけど。慣れたけど。
むかつくものはむかつくんだ。
「誰」と肩越しに小声で聞くと、双葉は、こてんと首をかしげた。
知らないでしゃべってたのか!
個人情報をむやみに教えては駄目だと後で言い聞かせなくては……。
「うがいと手洗い、まだでしょ。先にすませてきて」
肩を押すと、双葉は「うがい、手洗い」と素直に復唱し、ととと、と洗面所へ向かう。
八花は改めてキテレツ青年に向き直り、努めて毅然と問いかけた。
「それで、そちらはどなた様ですか」
青年は顎をつまみ、何やら考え込むようなそぶりをみせた。
自分の知る限り、レイヤーという人種は美男美女ぞろいなのだが、この男も画になるイケメンだ。
性格はともかく、雰囲気のある古風な話し方や気合いの入った金色のカラコン、本物の風格たっぷりの衣装など、細部にまでこだわった本気ぶりは嫌いではないのだけど。
「奴はナギと名乗っていたそうだな。ならば、おれのことはユツギと呼べ」
はい?
あ。レイヤー名ってこと?
「ええと、つまりユツギさんはナギさんのお友だちで?」
「あんな奴と友人であってたまるか! ……昔、少々かかわりがあったというだけだ」
「そ、そうでしたか」
いきなり怒りだしたので、ちょっと引いた。
いろいろ面倒くさそうな人だなあ。
「すみません、ナギさんはあいにく不在なんですが」
「それも含めて、お前には重要な話がある。だが、まずはこれを返そう」
ユツギが腕を差し伸べながら手首をひるがえした。
ナギによく似た仕草だなと思ったら、その手には見覚えのあるものが握られていた。
「そ、それって」
息をのんだ。化け物に取られたばかりの白い横笛だ。
「この龍笛は、本来であれば人草などが触れてよい品ではない。先ほどは激昂のあまり冷静さを欠いてしまったが、お前がこれを所持していた事実は、畢竟、奴がお前に託したいと望んだことにほかならない。ならば、資格があろうとなかろうと、お前が持っているのが正しかろう。強奪するような真似をしてすまなかった」
ダークブルーの睫毛で金色の瞳をけぶらせながらユツギは語った。
金色の……まるで水中から見上げた太陽のような金色の……?
八花はおそるおそる横笛を受け取った。
ごくり。
「あの、もしかしてユツギさんて、バス停で出会った一ツ目の――」
言いかけたとたん、頭を押さえつけるような例の威圧感に包まれて、ぶあっと冷や汗が止まらなくなった。
ユツギの瞳は爬虫類みたいな光彩をもち、薄く笑った口元には、八重歯と呼ぶには鋭すぎる牙までのぞいている。
「命が惜しくば、先ほどの姿は忘れろ。良いな?」
ひい。
※ ※ ※
不吹村は、昔から人の入れ替わりの少なかった土地だ。
村のお年寄りたちには、他から流入してきた人たちのことを、いまだに『旅の人』と呼ぶ習慣がある。
ナギも、そう呼ばれていた一人だった。
村に来る前の経歴を語りたがらず、長いこと不思議な『旅の人』をしていた家族について、八花は今日、いくつか新事実を知った。
ナギは、何も持たずに電話をかけることができる。
マジシャン顔負けの手品が使える。
突然に現れて、突然に姿を消すことができる。
同じ手品の使える知り合いがいる。
知り合いの正体は一ツ目の化け物で、勝手に家に上がり込んだり、人をおどしたりする。
ナギさん、いい加減に帰ってきて。分かるように説明して。
風呂あがりの双葉に夕食を取らせて寝室に追いやったのち、ふすまの陰から室内をのぞいた。
周防家の昭和然とした茶の間では、古式ゆかしく、ちゃぶ台が現役だ。
その年季の入ったちゃぶ台に片肘をついて、ナギの派手な知人は、つまらなさそうにテレビを眺めている。
シュールなコラ画像にしか見えないのがなんとも……。
ぎょろりと動いた金色の目玉と目が合って、やむなく茶の間に足を踏み入れた。
「お待たせしました。粗茶ですが」
湯飲みを差し出し、お盆を抱えて何となく正座してしまう。
ユツギが身を起こすとなぜかテレビが切れて、ますます現実みが遠い。
ナギさん助けて。ほんとに早く帰ってきて。
「十枝は死んだのか」
ユツギの視線が整理ダンスの上の小さな仏壇に向けられた。
八花の実父のものと一緒に、十枝の位牌や遺影が並んでいる。
「二年ほど前に。母のこともご存じなんですか?」
「多少な。十枝に、もともと子がいたとは知らなんだ」
ユツギは悼むように目を伏せ、そうか死んだか、と呟いた。
「それはそうと、双葉どのは」
「就寝するよう言いました。いつもならもう寝ている時間ですから」
嘘です。
まだ六時を回ったところで、さすがに小学生でも寝かせるには早すぎる。
ユツギはあからさまなガッカリ顔だが、会わせるつもりはないので諦めてほしい。
こいつは危険な奴だと姉としての勘が言っている。
じっとユツギを観察していたら、何だか手がわきわきし始めた。
さっき仕草が似ていると感じたが、そういえば人間離れした手足の長い体つきや、オーラっぽいものがあるところも(方向性は違うけど)そっくりだ。
たまに母さんがナギを着せ替え人形にして遊んでいたけれど、その気持ちが分かる気がした。
こういう人を着飾らせると、すごく似合うし、映えるんだ。
紺色の濃淡を上品に使った重ねの着物に、光の加減で虹色にも見える不思議な羽衣。縁取りの刺繍や横髪を束ねた組み紐は瞳の色に合わせた金色だ。差し色としてあしらわれている宝石はたぶん珊瑚だろう。
満月を連ねたような首飾りは、玉の一つ一つがピンポン球くらいある。白瑪瑙みたいな細かい縞が入っていて、清浄な感じでとても綺麗だ。
最初は奇抜さばかりが目についたけれど、こうして改めて観察すると、今まで見たことがないような風変わりな素材ばかりだった。
デザインだって和風っぽいというのが分かるくらいで、縫い合わせも機能もよく分からない。ちょっとその場で回って後ろ姿とか動きとかも見せてもらえないだろうか。
そもそも、こんなに袖も裾も引きずっていたら、布地だけでも結構な重量になる。でも、そんなふうにはぜんぜん見えない。やっぱ織りに秘密があるのかな。
ぐうう。ルーペで見たい。記憶が鮮明なうちにクロッキー帳に描きとめたい。
でも、お客さんの前だから。化け物だけどナギのお客さんだから……!
手と手をつかみ合わせて必死にわきわきを押さえ込んでいると、さすがに不審だったのか、ユツギが警戒するように目をすがめた。
何か企んでいると思われたのかもしれない。まあ、間違ってないけど!
「それで、重要なお話とは何でしょう?」
用件を促すと、ユツギは表情を改めて居住まいを正した。
「単刀直入に言う。天地の秤器に交わした契約により、双葉どのをもらい受けたい」
アメツチノハカリニカワシタケイヤクニヨリ……?
「あー……『もらい受ける』とは、どのような意味で?」
「嫁にもらっていく、と言っているのだ」
嫁て。
「うちの双葉はまだ八歳なのですが……」
「年の差など問題ではない」
ユツギがほんのり頬を赤らめて咳払いする。
お客さんの前だけど、思わず頭を抱えてしまった。
いつか道端で釣るのでは、という姉馬鹿な心配が、こんなに早く当たるとか……。




