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事件の発端 五 遭遇事故

 あの日、ナギは八花にこの横笛を持たせ、短いメロディの運指を教えた。


「えっと、確か……」


 記憶をたどりながら、まずは指だけ動かしてみる。

 それから吹き口をくわえ、緊張しながら息を込めた。

 けれど、すうすうと息が抜けただけで、まったく音なんか出てこない。


 むくりと双葉が起き上がった。


「よんだ?」

「ん? あ、ごめん。起こしちゃった?」

「……?」


 まだ眠たそうに口元をもにょらせつつ、双葉が横笛をじっと見る。


 その直後、落雷のような衝撃音が轟き、頑丈な小屋がびりびりと震えた。

「ひっ……」

 思わず耳を押さえて身を縮めた。屋根に何かが落ちてきたのだ。


 おそるおそる顔を上げたとき、その何か(・・)が屋根から飛び下りてきた。


 逆光でシルエットくらいしか分からないが、たぶん若い男の人だったろう。

 けれどその人物が振り返ったとき、確かに人の形だったはずのシルエットは、輪郭のあいまいな何かの影法師にすり変わっていた。


 漆黒の色をしたそれは、次第に大きく膨らみながら、じりじりと近づいてくる。

 そうして窮屈そうに軒をくぐり、呆気にとられているこちらの前で、ゆらりと止まった。


 八花は身体ごとのけぞるようにしてその曖昧なものを見上げた。

 ほんの三畳ていどの小屋なのに、この影法師は、なぜだか世界を丸のみできそうなほど巨大な姿でそびえ立っている。


 これは夢?


 こぷん。

 かすかな音が耳もとで鳴った。深い水中から泡が立ち昇るような音。

 濃い潮の香りもする。


 たぶん連想のせいだろう。目の前の影法師を、永遠の夜に包まれた深海の一部なのだと、不思議なほどすんなりと思い込んだ。

 幾億という時の巡りを経て、たまさか意思を生じさせたものが、どうした理由か本来の居場所を離れてこんなところにいる。


 のっぺりとした漆黒だった影法師の中に、星が一つ瞬いた。

 ちらちらと鱗をきらめかせて泳ぐ小さな深海魚。

 ときおり流れ星が通るのは、もう少し大きな魚のそれ。

 流れ星が走るたび、小さな星が消えては現れ、消えては現れ、ときにはその流れ星も、もっと大きな流れ星につかまり、食われて消える。そうして大きな流れ星は稲妻をまとって龍になる。うねりながら昇っていく。

 そんな原始的な弱肉強食の営みを、定点撮影の写真のように、いくつもの満月が白い光で照らしている……。


 はっと幻視からさめ、目を瞬いた。

 見ていたものは白い珠だった。影法師が首から下げている、青白い月のような珠を連ねた飾りの輪。

 視線を上げると、影法師のてっぺんに、水中から見上げた太陽のような金色の単眼が燃えていた。


 いきなり息が苦しくなり、勝手に手足が震えだした。

 目が合っただけで、心と身体の深いところを支配されたみたいだった。


 殺される。

 殺される。

 力のないものは食われて死ぬ。


 何か尋常でない化け物が、手を伸ばせば簡単に打ち払われるほどの距離にいる。

 逃げなければと思うのに、縫いとめられたように身体が動かない。


(こちらによこせ)


 怒声とも咆哮ともつかないものが重圧とともに降ってきて、ぐぐっと頭を押さえつけられた。

 金縛りにあっていなかったら、きっとひれ伏すように倒れていた。


(その龍笛は、人草ごときが穢してよい品ではない)


 手の中の横笛がひとりでに跳ね上がった。

 くるくると影法師のほうへ飛んでいき、ぽちゃんと深海の闇に沈んで消える。


 はっ。はっ。空気が薄くて、短い呼吸をくり返した。

 悔しい。

 悔しい。

 それを返せ。

 ナギが故郷を出るとき、たった一つだけ持ち出したもの。

 自分に託してくれた、大切な笛だったのに。


 ふいに影法師が、たじろいだ。金色の視線を横へ向け、(お前は)と呟く。


 まずい。

 ぎぎっと首をねじると、視界の端に、かろうじて双葉の姿が確認できた。

 異形の化け物を前にして、いつもどおりの無表情で首をかしげていた。


「おじちゃ、だれ」


 ま、マイペースぅ……。

 だけど、おかげでちょっとだけ気力が戻ってきた。

「……ふ、ちゃん。逃げ……」


 影法師は双葉を眺めやり、感慨深そうに輪郭を震わせた。

(そうか。そなたが)

 漆黒の深海の一部が、ぞろりと腕のように伸び始める。


 あ。やばい。


『ほんとにごめんね。双葉のこと、よろしく頼みます』


 ナギの言葉を思い出したとき、火事場の馬鹿力みたいな瞬発力が出た。

 金縛りを振り切って双葉に飛びつき、漆黒の腕をはねのける。


 小さな身体を胸に抱え込んだ瞬間、薄くなっていた空気がゼロになり、またしても手足が動かなくなった。たぶん、今の行動が化け物のお気に召さなかったんだろう。

 さすが馬鹿力、尽きるのも馬鹿みたいに早いな!


「……い、息……っ」

「はーちゃ?」

 腕の中で双葉は目を丸くしている。


「――おやおやあ。お姿が見えなくなって引き返してみれば、哀れな人草の娘をおどかしていらっしゃる」


 わざとらしいほど朗らかな女の子の声が、いきなり耳に飛び込んできた。


「ほうほう、これは。つまり、『道草を食おうと』なさっておいででしたか? さすが我が君、お上手でございます。わたくし、一本とられてしまいました」


 あはははは、と自分で言った下手な冗談で笑っている。

 声の出どころは頭の上だ。ギリギリまで眼球を動かすと、紅に光る蛍のような星が、ゆらゆらと宙を泳ぎ回っていた。


「では、我が君。そろそろ参りましょうか」

(いや、もう見つけた。この幼児(おさなご)だ)

「ええ。そのようでございますねえ」


 あくまでも星は、にこやかな調子で応じている。


「ですが我が君、どうかここはお引きになり、いったん御魂(みたま)をお鎮めくださいませ。それとも御姿を鏡でご覧になりますか?」


 化け物と紅の星は根比べするように黙っていたが、


(……いいだろう、お前の意見を容れる)

「恐れ入ります」


 その会話と同時に、呼吸と身体が解放された。夢中で空気を吸い込み、吸いすぎて今度は咳き込んだ。

 そうしてやっと余裕ができて、改めて周囲を見まわしたけれど、化け物も、しゃべる星も、もう姿がない。


「――た、助かった……の?」


 腕の中で、くああと双葉が欠伸した。

 いつもと同じ、何の感情も見えない無表情。


 道路に水しぶきが上がり、白いライトの光が横切った。ブレーキをきしませながら停車したのは、遅れに遅れていた路線バスだ。

 車体スピーカーから戸惑う声が聞こえてきた。

『お客さーん、乗るの? 乗らないの?』


「あ。……のっ、乗ります。乗せてください!」


 荷物と双葉を抱えてバスに飛び乗った。

 いつの間にか雨は上がっていたが、スクーターを拾ってのんびり帰ろう、なんて気持ちは、なえていた。


 何だったんだ、あの化け物。


 シートに倒れ込むと、双葉が背中をぽんぽんしてくれた。

 バスが動きだしてやっと、さっきは思ったよりも危険な状態にあり、たぶん本当にきわどいところで助かったのだ、と実感する。


 笛を盗られたままだったが、その悔しいという感情も、命あってこそ持てる。

 きちんと説明して謝れば、きっとナギも許してくれるだろう。

 ……たぶん。

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