事件の発端 四 オオカゼ襲来
「若いもんがオオカゼんなか出歩いたらあかん! 持ってかれてしまうがいね!」
「ご、ごめん。タケ婆ちゃん」
注意したこっちが怒鳴られるなんて理不尽だ。でも、鬼気迫る形相で迫ってこられて言い訳なんか引っ込んだ。
『持っていかれる』とは、村独特の言い回しだ。
最近めったに使われないが、『さらわれる』というくらいの意味になる。
この場合、さらうのは風の神様だ。
つまり、オオカゼの中を出歩くと神隠しに遭ってしまうぞとお怒りなのだった。
タケは八花たちをあぜ道の出口まで引っぱってくると、小さな祠の前に立たせた。
祀られているのは人さらいの風の神様。
『クロミミ様』と呼ばれる不吹村の守り神だ。
「ほれ、よう拝まんか。おめえらの分まで差しあげるさけ」
お供え用の石皿に、タケが顔中のシワを寄せながらミカンを二つ足す。
肉親の縁の薄い八花にとって、幼なじみの祖母なら自分の祖母も同然だ。大人しく祠に手を合わせた。
「よしよし。ほんなら、ちゃっちゃと帰れま。よおーく気いつけてな」
満足そうに告げて、タケは自宅とは反対方向へ歩いていこうとする。
「えっ。タケ婆ちゃんは帰らんの?」
「まだ見回っとらん祠が、いくつか残っとるさけ」
タケは非常に信心深い。毎日毎日、村に点在するクロミミ様の祠を掃除して回り、小さなお供え物を置いてくるのだと芽衣が言っていた。
若いころは神通力を持つ神懸かりの巫女だったという噂だが、老いてなおバイタリティあふれる行動は、見ていて不安になるほどだ。
「やめなよ、危ないよ。吹き飛ばされて田んぼに落ちたりしたら――」
「そないヤワじゃねーわいや」
タケは使命感のようなものを全身にみなぎらせ、足取りも確かに歩いていく。
太刀打ちできそうになくて、おろおろしながら後ろ姿を見送った。オオカゼに襲われるたびよろけそうになる自分では、とうてい止められるとは思えない。
諦めて双葉を連れてスクーターまで戻り、ランドセルとトートバッグをカゴに押し込んだ。
「この風だと、もう乗れないと思う。ふーちゃん、家まで頑張ろ」
双葉に前を歩かせ、スクーターを押して後に続く。
周囲には、さえぎるものがない。オオカゼは風の塊となって、好き放題に広大な水田を駆け回っている。
途切れない風の体当たりに耐えているのは人間だけでなく、あちこちの防風林が、しなって歯ぎしりのような音を立てていた。
ときどき双葉が強風に飛ばされかけ、自分も身体を持っていかれそうになる。
前方に建物を見つけ、「ふーちゃん、あれ」と指を差した。
ベンチつきのバス停の小屋だ。
そのとき、ぽつんと頬に雨粒が当たり、あー来ちゃった、と思った直後には横殴りの雨にさらされた。
「姿勢を低くして、あそこまで走って!」
大声で叫び、背中を押しやった。
スクーターは路肩の草地に転がし、自分も荷物だけつかんで走り出す。
視界がたちまち真っ白に煙る中、鈍足の双葉を途中で抱え上げ、無我夢中でバス停へと飛び込んだ。
オオカゼに遭った住民が緊急避難できるよう、村のバス停はコンクリート造りになっている。壁や天井が風雨でビリビリとうるさいが、ここならひとまず安全だ。
双葉と荷物を下ろし、息を切らしてベンチに座り込んだ。
ひどく薄暗いが、スマホで確かめると、まだ午後の三時。壁の時刻表によれば、バスは少し前に出発したばかりで、次の便は一時間以上も後だった。
「タケ婆ちゃん、無事に避難できたかなあ……」
雨粒に打たれたのは数十秒ほどだったのに、手や顔がじんじんと痛がゆい。
パーカーを脱いで絞っていると、同じ濡れ鼠の双葉がハンカチを差し出してきた。
「はーちゃ、つかって」
相変わらず自動販売機よりも愛想のないしゃべり方だけど、自動販売機は自分が使うより先にハンカチを貸さないだろう。
「ありがとね、ふーちゃん」
にっこりハンカチを受け取って、妹の柔っこい髪をわしわし拭いてやった。
※ ※ ※
バスの到着時刻はとっくに過ぎたけれど、まだまだ到着しそうにない。オオカゼで運行が遅れているのだろう。
服や髪は湿っているけれど、風邪をひく心配はなさそうだった。
オオカゼが吹くと必ず気温は上昇する。むしろ蒸し暑くて不快なくらいだ。
軒先から見上げた空は夕方の暗さになっていたが、雲は薄く、風もだいぶ弱まっている。雨さえ上がればスクーターで帰宅できるだろう。
ナギに何度めかの電話をかけてみたけれど、やっぱり今度も繋がらない。
溜息をつき、バッテリーの心もとなくなったスマホをスリープに戻す。
ベンチに引き返すと、双葉はランドセルを枕にうたた寝をしていた。
うにうにと長い寝言がもれているけれど、何の夢を見てるんだろう。ていうか、寝言では普通にしゃべれるのって謎すぎる。
スマホをポーチに突っ込んだとき、例の白い棒が目に留まった。
いつだったか、ナギが一度だけ身の上らしきものを語ったことがある。
どんな事情かは言わなかったが、家族も友人も捨てて十枝についてきたそうだ。
十枝も、幼いころに他界した実父も、肉親とは縁の薄い生い立ちだった。
つまり八花の身寄りは、双葉とナギの二人だけということになる。
自分の帰る場所が一つしかないように、ナギだって他に帰る場所などないはずだ。
「ナギさん、どうしちゃったんだろ……」
そばの街灯に明かりがついた。ぬれたアスファルトに光が反射し、バス停の中も薄明るくなる。
そのオレンジ色を黄昏みたいだと思ったとき、とある記憶が蘇った。
改めて棒を手に取り、ためつすがめつ観察する。
受け取ったときには気付かなかったが、部分的にノミで削ったような跡があり、数ミリほどの穴が等間隔に並んで空いていた。
「……思い出した。これ、横笛だ……」
ナギが身の上を語ったそのときの、こんな黄昏色の光の中。
まるでマジシャンのように、何もないところから取り出してみせたもの。
それがまさに、この笛だった。
※ ※ ※
それは、まだ残雪の残る春先のころ。双葉が生まれる日の夕暮れ時のこと。
そのときの八花は、今の双葉よりも少し大きかったくらい。夕陽に染まったナギの後ろを付かず離れず、川原の土手を歩いていた。
『十枝さん、大丈夫かな』とナギが憔悴しきった様子で呟くのを、『きっと大丈夫だよ』と励ます。そんな会話をくり返しながらの、あてのない散歩の最中だった。
双葉はひどい難産で、十枝はもう何時間も陣痛に苦しんでいた。当時の不吹村でもすでに珍しい話だったけれど、十枝は病院ではなく自宅での出産を選んだのだ。
そんな状況で家を離れるはめになったのは、寝室からうめき声が聞こえるたびに、ナギが蒼白な顔で廊下を右往左往したせいだった。
長丁場のお産で気が立っていた助産師のお婆さんが、山姥もかくやという形相で『散歩なら外でおやり!』と、蹴り飛ばさんばかりにナギを追い出した。
八花は、いわば巻き添えというか、お守り役である。
『十枝さん、大丈夫かな』
『きっと大丈夫だよ』
記憶が絡まるほど同じ会話をくり返し、気付けばループが破れていた。
川原で遊んでいた子どもたちが帰ってしまい、もう誰もいない夕暮れ空の下。ナギが空中からつかみ取るようにして例の横笛を出してみせた。
『僕は家族も友人も捨てて郷里を飛び出した。この笛は故郷から持ち出した唯一のものなんだ』
あまりに切ないような顔で語るものだから、手品のタネを聞きそびれた。
代わりに『吹いてみせて』とせがむと、ナギは困ったように、ちょっと笑った。
『今はまだ駄目。きっと口うるさい奴が来ちゃうから』
だけど――と。
ナギは村の遥かまで見渡せる土手の上で、目に映る景色よりもずっと遠くを見通すような眼差しになって、こう告げた。
『いつか、この笛の音色が必要になるかもしれない。よかったら、八花ちゃんも覚えておいてくれるかな』




