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事件の発端 三 双葉を探せ(レベル3)

 八花の家は水田地帯のど真ん中にある。一帯を不吹村(ふふきむら)という。


 大学からの帰宅には、高速道路のインターにほど近い、田舎としてはそれなりに栄えている街の幹線道路を南下する。

 延々と愛車のスクーターを走らせていくと、周囲からは建物が減っていき、やがて郊外型のチェーン店やコンビニすらも珍しくなって、明らかに人口密度が薄くなる。

 そうして行政区分上の市から村に入ると、ずいぶん狭くなった道の両側に見えるのは、あぜで仕切られた広大な水田と、水田に点在するこんもりとした林ばかりだ。


 どれも小さな林ではあるけれど、強い南風から家屋を守る重要な防風林。

 稲作を営む昔ながらの農家のお屋敷は、今でも木々に隠すようにして建ててある。

 こうした住まいの形態を散居村と呼ぶそうで、そのために不吹村の風景は他の地域とは一味ちがうのだという。


 たとえば稲穂が実る秋の収穫期、点々と繁る農家の防風林は、まるで黄金の海に頭を出した無数の小島のようになる。

 特に、雨上がりの朝焼け時には薄く靄までかかり、幽玄な夢のように綺麗だ。


 その時期ばかりは、県内外からカメラを担いだ人たちが集まり、村は少しだけ騒がしい。

 けれど八花は、田植えに備えて水を入れただけの、ちょうど今ごろの景色がいちばん好きだった。


 今日みたいに気持ちのいい五月晴れの昼下がり、水の入った何千枚という田んぼは、すべて空を映す鏡になる。

 その真っただ中へ赤いスクーターを走らせてゆくと、大らかな青空と白いちぎれ雲とが天地に広がり、まるで空の中を走っているみたいに錯覚した。


 アスファルトは滑走路みたいな一直線だ。

 このままスピードを上げ続けて、とんっと弾みをつけたら、きっと本当に離陸できる。


 ……かもしれないと、いつも考える。

 考えながら、制限速度を越えかけたところでアクセルグリップを緩める。

 そんな日々の繰り返し。


 普段は歌でも口ずさみながらトロトロと帰る道のりだけど、今日は自己最短記録で走破した。

 門の前にスクーターを停め、ヘルメットを脱ぎながら借家の自宅へと駆けこむ。

 住民のほとんどが顔見知りの不吹村では、いまだに鍵をかけるという習慣がない。荷物を玄関に放り出し、築三〇年の平屋の廊下をミシミシ言わせて奥へ進んだ。


「ナギさん、ナギさーん。いるの、いないの」

 呼びかけながら、もう一度、電話をかけてみた。いつまでも呼び出し音が鳴るだけで、留守番サービスにも切り替わらない。

 ざっと見た限り、昼間のあいだに帰宅した様子もなさそうだ。


 ナギは『双葉をよろしく』と言っていた。『ごめん』とも。


 急に動悸を感じて胸を押さえた。

 どこかで潮騒が鳴っている。分かってる。こんなの空耳だ。


 強く頭を振って幻聴を追いだし、玄関へ引き返した。

 とりあえず双葉と合流だ。

 通学用のバッグから財布の入ったサブポーチを取り出し、肩へ斜め掛けにした。

 ナギがくれた白い棒が気になって、これもポーチに突っ込んだ。


   ※  ※  ※


 今日はコスプレ撮影があったので、『夕方まで遊んできていいよ』と双葉には言ってある。いつものように、村の公民館の図書室で本を読んでいるだろう。

 何年か前に〝地域交流センター〟と名称が変わったが、公民館なものは公民館だ。再びスクーターを走らせ、道を急ぐ。


 途中、あぜ道の入り口に見覚えのある物体を発見した。


「あ」


 と、声を上げるあいだに数メートルほど行きすぎ、急ブレーキで停止する。

 ヘルメットを脱ぎ、路肩にスクーターを残して駆け戻った。

 若草色のランドセルと、パステルカラーのトートバッグ。どちらも双葉の持ち物だ。拾い上げて周囲を見回した。


「ふーちゃん、いるのー?」


 あぜ道の両側は水田の一部をつぶした(ふき)畑。青々とした葉が腰の高さにまで育ち、風に吹かれて、ざわざわと音を立てている。


 ふいの突風に全身を押され、あぜから滑り落ちそうなった。

「ひあっ……とと、危ない」

 体勢を立てなおし、風上を振り仰いだ。


 村の南側には森深い山々が連なっている。

 その寝そべる黒犬の背中のような稜線に沿って、長々と覆い被さる分厚い雲。

 温かい南風が山を越えて吹きこみ始めた証拠で、これから『オオカゼ』がやってくるという前触れだ。


 春先から初夏にかけて、不吹村には特有の山颪(やまおろし)が吹き荒れる。

 ときに風速何十メートルにもなるこの強烈な局地風は、最も標高の高い乙女山を中心とした山々の形状と、村の位置と、今の時期に起こりがちな気圧配置とが織りなすフェーン現象だ。


 気象学的な正式名称もあるけれど、村の皆は昔なじみの言葉で『オオカゼ』と呼んで恐れている。もちろん八花もだ。

 こんなところで襲われたら、ひとたまりもなく吹き飛ばされてしまう。


「ふーちゃん、どこー?」


 頭上の空は、刻一刻と鈍い色味を帯び始めている。

 オオカゼにざわつく葉ずれの音は、いやに潮騒とそっくりだ。

 急に不安が胸へ迫って、つい大声で叫んだ。


「もう帰るよー! ふーちゃんってばー!」


 あぜ道の先で葉っぱの波が割れ、ぴょこっと双葉が顔を出した。

「いた、ふーちゃん!」

 畝に座り込んでいたらしく、身体が蕗の葉に隠れてしまっている。

 コロポックルか。


「何でこんなところにいるの。てっきり公民館に行ってるのかと」

 ほっとして駆けつけると、双葉はいつもの表情のない顔でまばたきし、舌っ足らずに「やすみ」と答えた。

 膝の上には貸し出し用の分類シールが貼られた文庫本。

 忘れてた。そういえば木曜は休館日だ。


「だからって、よそさまの畑なんかで読書しなくても」

 呆れ声に、双葉は隣で傘を広げる大きな葉っぱを頭上に寄せた。

「ふきごっこ」


 周りで蕗の葉がざわついている。

 おうむ返しに聞き返した。「『蕗ごっこ』?」

「おひさまにあたる。おおきくなる」

「ふーちゃん、蕗の真似してたんだ?」

 双葉は、こっくり頷いた。


 この春、小学二年生となった義妹は、クラスでいちばん低い身長に、ちっとも日焼けしない細っこい手足。

 頭の中身も、何となく小さめだ。


「ええと、風が強くなってきたし、雨も降りそうだよ」

 ほら、と指した雲はいっそう厚みを増していて、もはや丸めた濡れおしぼりみたいになっている。

「そういうわけで、蕗ごっこの続きは今度にしない?」

 双葉は無表情のまま、またこっくりして腰を上げた。


 ……素直で聞き分けはいい子なんだけどな。


 手を繋いであぜ道を引き返しながら、表情の乏しい横顔を見下ろした。

 地味顔の実父に似ている自分とは違い、義妹は普通に美人だった十枝と、現世ばなれした美人であるナギの血とを、それはそれは色濃く継いでいる。


 白々とした涼しげな肌と、雲隠れの月を連想させる、長い睫毛にけぶった目もと。

 名工が会心の一筆を走らせたような、人形めいた柔らかな眉。

 小さく結ばれた唇は子どもらしくない艶やかな赤で、椿の花びらをついばんでいるようにも見える。


 今は、まだいい。

 自然と様づけしたくなるカリスマの片鱗もすでに見え隠れするけれど、どちらかと言えば可愛らしさが勝っていて、ちょっと目を引く程度の幼女でしかない。


 でも、あと何年かして子どもらしさの保護膜を失ったとき、美人のサラブレッドなこの子は、小さな頭の中身も年相応に成長しているのだろうか。

 たとえば道端で自称紳士のおじさんとかに声をかけられても、『ふきごっこ』などと呟かずにお断りのできる、そんな普通の自衛観念を育ててやれるだろうか。


 ナギの血が半分も入っているかと思うと、正直、どうにかできる自信はないのだけど。


「そういや、ふーちゃんは今日は何を読んでたの?」

 大事そうに抱えている文庫本のデザインが、何やら毒々しい黒と赤だ。

 双葉が腕を突き出し、表紙を掲げて見せてくれた。

 オスカー・ワイルド作『サロメ』。

 読書の素養がない自分には、見たことも聞いたこともないやつだ。


「ふうん。ふーちゃんって、いつも難しそうな本を読んでるよね。それ面白い?」

「すてき」

「素敵か。そっかあ……」


 すでに常用漢字も読み下せるのに、なにゆえ発する言葉がカタコトなのだろう。

 いまどき自動販売機だってもう少し愛想よくしゃべる。

 本当に……どうにかできる自信がない。


 つい溜息をつきそうになったとき、視界の隅に人影を見つけ、思わず二度見した。

 あぜ道をのしのし歩いてゆくのは、芽衣の祖母、宮ノ内タケだった。


「タケ婆ちゃーん、早く帰らないとオオカゼが来ちゃうよ!」

 老婆にしては大柄な背中に呼びかけると、タケがこちらに気付いて目をむいた。


「八花に双葉、おめえら何しとん!」

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