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(断章 壱)

 これはトキハカシの語る常世話(とこよばなし)


 ときは昨夜へと遡る。

 ところは閑寂な山の中。小雨のそぼ降る夜半の出来事である。


 周囲には林道を照らす灯火も、人家の明かりも見当たらぬ。

 とうに月の出ている頃合いではあるが、雲は梅雨の訪れを予感させる厚みで広く天を覆っている。遥かに煙る街並みの夜景が、かろうじて小雨の底にのぞくのみである。


 森深い山の急勾配には、土の匂いも濃厚な、大きく山肌のえぐれた場所がある。一面に植林がなぎ倒され、大量の土砂とともに、工事車両や仮設の作業小屋をのみ込んでいる。


 まるで巨大な土竜が暴れたようなありさまは、古来、この地にはよくある山津波。かねてよりの長雨に、またぞろ地盤が緩んだものらしい。

 宵のうちに崩れて通報がゆき、駆けつけた人間らによって、ひとまずの立ち入りを禁ずる縄が打たれている。

 幸いにも工事関係者が引き上げた後の崩落であり、人的被害はなかろうとの判断で、詳細な調査は天候の回復を待って翌朝以降に行われる見込みである。


 しかして張り巡らされた縄の奥、まだ柔らかく崩れやすい土山の上には、のっそりと影法師が立っていた。


 人にしては輪郭が異なり、獣にしては大きすぎる。

 現世に久しく見かけぬ神人(かむびと)の一柱である。


 神人ではあるが、近在の者とは匂いが違う。装束が濡れることにも頓着せず、足元の土くれを見つめている。

 微動だにせぬそのさまは、地中のかすかな物音と些々とした雨音とを聞き分けんとするかのようである。


 神人が緩慢に首を巡らせた。

 振り仰いだ雨雲の下には飛行する無数の星。それらは突如として方向を変え、箒星さながらに尾を引きながら影法師のもとへやってきた。


 飛来した小さき星々の中に、ひときわ目を引く二つがある。

 紅の星と翠の星である。

 しなやかな魚のように神人の前へと泳ぎ出た。


「我が君よ」


 紅の星が明朗な少女の声で呼びかけた。

「一同、欠けることなく御前に揃いましてございます」

 翠の星。小さき星々。ともに頭を垂れるように揺れ動く。


(遅い。ようやくか)


「我が君にはお分かりいただけないでしょうが、トキハカシを越えての移動は、下々には難儀な旅路なのでございますよう」

 軽やかに宙返りをし、紅の星魚(ほしざかな)は興味深げに周囲を見回した。


「ここが先刻、かの御方が身罷られた現場でございますか。あな、おいたわしや。人草(ひとくさ)の身に堕ちたとはいえ、尊き身空が、まあ呆気ないことで」

(まったくだ。間抜けなざまでくたばったあげく、いらぬ手間を――)

「おっと、いけませぬなあ」


 紅の星魚は得意げに主の言葉をさえぎった。


「お探しの姫御は、人草の中にお育ちでございましょう。とすれば、音を使わぬ会話には不慣れでいらっしゃるはず」

(……どうしろと言うのだ)

「これしきの献言で不機嫌にならないでくださいな。簡単な話でございます。せっかくの初対面、ぜひ御自身の肉声で御心をお伝えなさいませ」


 神人はひるんだように顎を引いた。

「あ」「あ」と、つたなく発声を試み、空咳をする。


「えいくそ、妙な塩梅だな」

「普段から横着なさっているからです。長いこと誰ともしゃべっていない引きこもりみたいな声になっておられますね。まあ、似たようなものですけれど」

「やかましい」

「――我が君。少々よろしいでしょうか」


 翠の星魚が主に詰め寄った。低い男の声である。


「そのお姿、いかがなさいました。いつの間に御眼を損ねられたので?」

「それは無論、山犬女めに食わせてしまわれたのだ。『貴公ならば一つ二つ減ったところでお困りにならぬでしょう』などと、うまいこと挑発されて」


 詰問に答えたのは紅の星魚。

 神人は苦り切った態度を隠さない。


「見てきたように言うのはやめろ」

「ははあ。やはり図星でございましたか」

「贄が足らんと山犬女がほざくので、少々融通してやったまでだ。文句があるか」

「とんでもございません。わたくし、いたく感激しております」


 大げさに声を高ぶらせ、紅の星魚は忙しなく宙を泳ぎ回る。


「不当な要求にも耐え、見事、交渉をまとめておいでになった……。この尊大で口下手な我が君が、そうまでなさるとは。いやはや、御身の切なる願い、わたくし涙を禁じえませぬ」

「お前、やはり面白がっているな」


 一方、翠の星魚は凶暴な唸り声を発し、わなわなと光を震わせている。


「おのれ、強欲な山犬め。山盛りの宝珠をせしめておきながら、あまつさえ我が君を……!」

「お前もつまらんことで騒ぐな。眼の一つや二つ、いずれまた生える」

「ですが、あまりにも慮外な振る舞い」

「おれとて、山犬風情の言いなりになるなど業腹なのだ」


 必ず報いを受けさせるが、すべては目的を遂げた後の話。そう諭されて、不承不承に引き下がる。


「しかし我が君。いずれにか生えるとして、その無様なお姿で姫御とお会いになりますので?」


 紅の星魚に指摘され、神人が返答に窮することしばらく。

 影法師の輪郭がゆがみ、ねじれ、曲がりだす。人によく似た形へと変化する。


「誤魔化しますか。姑息ですなあ」


 大いに嘆息した紅の星魚を、神人は勢いよく指ではじいた。

 中空の金物を打ったような音がした。


「いちいち減らず口をたたくな。もういい、さっさと道案内をしろ」

「はいはい喜んでー。我が君が見失うほどの速度で飛んでごらんにいれますので」


 朗らかに恨み言を吐き、紅の星魚が夜空へと飛翔する。

 翠の星魚もまた一礼して飛び立った。

 その後を、小さき星々の光が昇る滝のように続いてゆく。


 と、神人の姿が、かき消えた。


 すでに小雨は上がっている。

 厚い雨雲が切れ、ようよう差した月影が崩れた山肌を照らすばかりである。

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