事件の屈折 五 クロミミ様
こつぜんと現れた人影に、八花は状況も忘れて見とれていた。
冴え冴えとした月の光を浴び、その月さえ惑わすような光沢を放つそれは、人の手では織りなすことのできない霊妙なる装束。
――わ、わ。この人、神様だ。ユツギと同じ……!
見知らぬ神様は烏帽子のようなものを被っており、そのわきには妙なものが突き出している。犬や狼についているような、艶のある黒毛の大きな耳だ。
黒い耳。まさか……。
思わず唾をのみ、おそるおそる口を開いた。
「お尋ねします。あなたはクロミミ様ですか?」
「さよう」と黒耳の神様は、満足そうに笑みを深くする。
意志の強そうな短めの眉と、真紅をさした唇との対比が、麗しい細面に妖しい魅力を添えていた。
男装の麗人、というのだろうか。洒脱に着こなした衣装も、たぶん男物。それも、ぬばたまの黒衣に銀の刺繍という、ほれぼれするような渋い趣味だ。
「宴の余興が始まらぬゆえ、飽いて散歩をしておった。こうして巡り合うたも、縁というもの。娘よ、そこな幼子を助けたいのであろう。その願い、特別に叶えてくれようぞ。じゃが――」
クロミミ様は音もなく渡り廊下に舞い降り、扇の先を突きつけてきた。
「そなたの命は、わらわがもらう。そなたら人草にとって、命はいまだ何物にも替えがたきもの。そうした命の一つを救うのならば、やはり命の一つを代とするのが相応であろう?」
とても上機嫌に言われて、おずおずと挙手した。
「あのう、天地の秤器とやらで計ったりとかは、してもらえないんでしょうか?」
黒耳の神様は淡い紫水晶の目をすがめ、唇の片端を上げた。
「その話ならば、風狼どもから聞いておるぞ。そなた、気付いておらなんだか。あれは、ただのいかさまじゃ」
「ど、どういうことですか?」
聞き返した声にかぶさって、また東棟の奥から爆発音がした。
ぎしぎしと校舎が揺れ、悲鳴とも歓声ともつかないどよめきが地上から上がる。ここからはよく見えないけれど、けっこうな数の野次馬が詰めかけているようだ。
「一つ言うておく」
クロミミ様が絵になる仕草で扇を広げた。
「奴と違って、わらわは面倒が大嫌いじゃ。そなた、此度の取り引きが不服であらば、執りやめようとも、いっこうに構わぬ。願ったのはそなたで、わらわではない。姉妹そろって一つきりの命を落とすというのも、また趣深いでの」
もののあわれとは、このことじゃ――夢見るように呟き、切れ長の目を細めている。
な、なるほど。昔話や伝承どおりの、気ままで残酷な性格をしていらっしゃる。
「……分かりました。どうすればいいですか?」
間に合うかも分からない救助を待ったり、クッションになって守りきる可能性に賭けたりするより、この申し出を受けたほうが確実だろう。
こちらの返答に、クロミミ様はあでやかに微笑んだ。
「覚悟が見たい。一つきりの命を失う恐怖を越え、見事、自らをなげうってみせよ。そなたの天晴れな振る舞いこそが、わらわの求める興であり、欲する贄でもある」
クロミミ様は、笑うと何だか芽衣に似ていた。
どのパーツが似ているというより、年上の従姉妹がいたらきっとこんな感じ、という全体的な印象だ。
「私が果たせば、本当に双葉を助けてくれますよね?」
「おお、誓うとも。そなたに声をかけたは気まぐれからじゃが、嘘などつかぬ」
八花が頷いて立ち上がると、クロミミ様は嬉しげに扇を揺らした。
「そなた、美しい横顔をしておるの。決意を背負った、潔い表情じゃ。かつて村の田畑のため、贄となった乙女らにも引けをとらぬ。ちと華が足りぬが、気に入った。果たした後は花園に入れ、末永く愛でてやろうほどに」
覚悟を決めて手すりを乗り越えようとしたとき、「はーちゃ!」と声がした。
双葉が目を覚まし、ぐるぐる巻きの身体を起こそうと、もがいている。
自分が死んだら、双葉は一人きりで残される。どんな境遇に置かれるのか心配だったし、『一緒にいる』との約束を破ってしまうのが後ろめたい。
十枝もナギも、残されるほうを思って、こんな気分を味わっただろうか。
ごめん、ふーちゃん。やっぱり浴衣は縫ってあげられそうもないよ。
でも、ずっと遠くから見守っ「はーちゃ、でんわ!」
え。
慌てて手すりから降り、スマホを拾う。
またしても反射的に動いてしまったけど、着信なんか来るわけない。とっくにバッテリーは切れているのだ。
なのに――ちょうど手に取ったとき、画面に光が灯った。
と同時に着信音が高々と鳴り響き、焦ってとにかく通話に出る。
「もしもし?」
『――おい、少しばかり離れていろ』
鼓膜にユツギの怒声が突き刺さる。
とっさに耳からスマホを離すと、画面から不気味なものが湧いて出た。真っ黒い藻のような何かが、ずるりと出てきて手首に絡みついたのだ。
ぎゃ――――――っ! 何これ、何これ! もずく?
パニックのあまり悲鳴も声になってない。スマホを放り出し、尻餅をつきながら、めちゃくちゃに腕を振り回した。
このもずく! ほどけないんですけど! どんどん出てくるんですけど!
(――八花、落ち着け)
呼びかけが間近で聞こえ、ぎゅっとつむっていた目を開ける。
こちらを背にかばうようにして、クロミミ様と対峙している真っ黒な影法師。
最初に出会ったときの、一つ目の化け物みたいなほうのユツギだった。
(どうしてお前はそう早まるのだ。まったく、自分を粗末にしおって)
もずくが、いまいましげに八花の腕を放し、影法師の中へと戻ってゆく。
腰が抜けた……それどうなってんの?
「えっと、助けにきてくれたのかな。ありが――」
お礼を言おうとしたら、「だいたいだな」と頭の上から怒鳴られた。
「おれとの取り引きも終わっとらんのに、二股をかけようとするとはどういう了見だ!」
「ちょっと、二股って何。人聞きの悪い言い方しないでくれる」
ユツギは抗議を黙殺すると、双葉のほうへ手のひらを向けた。そのとたん、ゆですぎたきしめんのように、ガムテープが、べちゃっとゆるむ。
「ふーちゃん、大丈夫?」
急いで這い寄り、大量のガムテープをはぎとった。良かった、肌は赤くなってないし、粘着剤も綺麗に取れてる。
「おい、結界とは姑息な真似をしてくれたな、この山犬ふぜいが」
ユツギが空中から直刀を取り出し、鞘を払った。
「わらわが山犬ならば、ぬしは海蛇ふぜいであろう?」
クロミミ様は婉然と扇をもてあそんでいる。
「あれしきの結界に難儀するとは、たかが知れる。余興を邪魔した無礼は見逃してやろうほどに、ほれ若造、疾く去ぬるがよい」
「横から割り込むような真似をしておいて、何をぬかす。貴様こそ、とっとと消えろ」
ユツギの周囲に怒気がみなぎり、輪郭が一瞬、かげろうのように揺れる。
八花は双葉を抱え、渡り廊下のすみっこまで下がった。
頭を押さえつけてくるような威圧感が、神様たちから放たれ続けている。
いつぞやみたいな急激なものではないけれど、だいぶ息が苦しいし、身体も重いしだるい。低気圧が近づいているときの体調不良に似ていて、両者の険悪さが増すたびに、嵐が迫ってくるのをひしひしと感じる。
うう……やめてえ。ケンカならよそでやってえ。
「よもや忘れてはおるまいな。ぬしとの約定は、今宵の月が昇るまで。とうに月は、そこにおる」
クロミミ様が音を立てて扇を閉じると、桜の枝から花びらが吹き飛ばされてゆくように、麗人の姿が崩れてゆく。
代わりに現れたのは、紫水晶の瞳と黒毛の耳をもち、禍々しいような黒い炎をまとう四つ足の獣だ。おどろおどろしさでは、ユツギの影法師姿に勝るとも劣らない。
(ははは! 約定を破ったからには、食われる覚悟はできておろうな!)
クロミミ様が咆哮すると、両眼の上に、ぞろりと三つめの目が開く。
その一つだけが、ユツギと同じ燃えるような金色だ。
「はっ。やれるものなら、やってみろ」
ユツギが牙をむくようにして笑った。
「ちょうどいい、そいつも返してもらおうか」
ユツギもクロミミ様も、周囲の景色が歪んで見えるほどの殺気を漂わせている。
そのくせ、ひどく楽しそうで、嫌な予感しかしない。
天の一喝みたいな雷鳴が轟き、おびえたように大気が震えだした。
(宴じゃ、宴じゃ!)
どこからともなく歓喜の声が聞こえ、旋風が次々に夜空へと吹き抜けてゆく。
見る間に広がっていった雨雲から、たたきつけるような雨が降り始めた。




