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事件の屈折 四 祈りを捧げよ

 八花は障害物だらけの廊下を走りながら、ナギが消えた経緯を考えていた。


 おそらく梅園は、適当な理由をつけてナギを連れ出し、夕方のうちに現場の作業小屋に閉じ込めた。

 誰かの命令か、本人の思いつきかはともかく、最初は一時しのぎのつもりだったと思う。雨が上がれば工事が再開され、作業員たちが戻ってくるからだ。

 その日のうちに場所を移すなり、強引に説得するなりの予定だったのに、予想外の土砂崩れのせいで小屋が埋まってしまった。


 第一報を聞いて、梅園は青ざめたに違いない。

 もしも調査中に死体が出てきて、しかもロープで縛られていると分かったら、もっと本格的な調査が警察によって行われたはずだ。梅園の行動も詳しく調べられ、厳しい追及を受けたことだろう。


 しかし実際は、捜索に一週間をかけたにもかかわらず着衣しか見つからなかった。

 この不可解な状況に、梅園はパニックに陥ったはずだ。

 ナギが逃亡したと勘違いしていた彼女からすれば、衣服が丸々出てきたことも、変装のために服を替えたとしか考えられなかったのかもしれない。


 ……まあ、普通は身体だけ消えたなんて思わないよな。

 黒い煙が天井を流れていくのが見えて、走りながら姿勢を低くする。


 ひょっとして、家の中の物が動いていたのも気のせいじゃなかったのかな。ナギの手がかりを探すために、留守のあいだに忍び込んでたとか?

 あれ。でも、そのころはユツギたちが家を見張っていたから、侵入されていたのを知っていたはず。

 そういえば、火をつけにいったらナギに脅されたって言ってたけど、あれも何かの勘違いじゃなくて、ユツギの仕業だったとか?


「でも、いったい何で……」

 呟いたら煙を吸い込んでしまい、ちょっとむせた。


 ようやく廊下の突き当たりまでやってきた。渡り廊下への鉄の扉だ。

「ふーちゃん、少しだけ待っててね」

 双葉を床に下ろし、近くに転がっていたイスを引き寄せる。

 脚を両手で握り、背もたれの部分で押し上げるようにして、旧式の特殊錠を上向きにがつんと叩いた。代々の生徒たちに受け継がれてきた裏技だ。

 手が震えて、なかなか成功しなかったけれど、何度めかのチャレンジで錠が外れる。


「開いたよ、ふーちゃん。さあ――」

 勢いよく扉を押し開き……声を失った。

 渡り廊下のその先には、奈落へ向かうような暗がりが広がっているだけだ。


「……なんだこれ」

 ようやく呟いた言葉が、びょうびょうと吹きつける風に散っていく。

 目を疑いつつ、渡り廊下の端まで行ってみた。

 かつて西棟への扉があった場所は、今は壁や床が取り払われ、柱と梁ばかりになっている。そっと身を乗り出してみると、だいぶ下のほうに解体途中の教室が見えた。

 外からは工事が始まっているとは思えなかったけど、実際は西棟から先に行われた後、例の移築費用の問題とやらで、中途半端なまま放置されていたようだ。


「どうしてこういう、ずさんな真似を……」

 恨み言を呟いてみても、どうにもならない。

 どうりで茨木の見回りが早く終わったはずだ。さっき喚いていたのは、これを教えようとしていたのかもしれない。


 東棟の奥から爆発音が響き、地震みたいな震動に襲われた。渡り廊下が釣り橋のように揺れ、しゃがみ込んで手をついた。

 たぶん、残りの一斗缶に引火したんだろう。開け放ったままの扉からは、黒煙が塊になって吐き出されている。

 急いで引き返し、双葉を外に運び出してから鉄の扉を閉め切った。

 これで完全に袋小路だけど、煙に巻かれるよりは、ずっといい。


 渡り廊下の幅は約二メートル、長さは十メートルほどだ。

 今は屋根が取り払われているけれど、構造自体は鉄筋で補修されており、左右に胸までの高さの手すりがある。


 腕で風を防ぎながら、手すりごしに下をのぞいてみた。

 さすがに四階は高くて、落ちたら命が無事かも怪しい。

 周囲を見回せば、外壁に沿って、シートの固定を兼ねた工事用の足場が張り巡らされている。あれを伝えば降りられそうだけど、渡り廊下から飛び移るには、ちょっと距離が遠すぎる。少なくとも、双葉を抱えては無理だろう。


 風に乗って消防車のサイレンが聞こえてきた。

 月影を映した水田の向こうに、ぽつぽつと見え始めた赤い光。合流しながら一列となり、見る間に学校の敷地へと流れ込んでくる。


 サイレンと半鐘の騒音。それらと人の気配とで、あっという間に地上は賑やかになった。

 すぐに放水も始まるだろうけど、正直なところ『これで助かった』とは思えない。

 この強風では、たぶんはしご車は使えない。火の回りだって予想よりも速いだろう。一部が焼け落ちれば、きっと芋づる式に全体が倒壊する。


 ……どうしよう。

 手すりを背にして座り込んだ。


 こんなことなら、火傷を負ってでも炎を越えて戻ればよかった。身動きもできないくらいに梅園をたたきのめしておくんだった。

 警察に頼らずに乗り込んできたのもまずかったし、そもそもユツギに双葉を託しておけば、誘拐自体が起こらなかった。

 どうしようも何もない。今のこの状況は、すべて自分が選択してきたことの結果じゃないか。


 ぐるぐる巻きになっている双葉の姿が、じわりと涙でにじむ。

「……ふーちゃん」

 ごめん、と続けそうになり、ぐっと言葉をのみ込んだ。


 こっちが迷っていると、双葉はさらに迷う――そうだよね、篠田先生。

 ごしごしと顔をぬぐい、両手で頬を張った。

 まだ最悪の事態ってわけじゃない。不安がらせてどうするんだ。


「ふーちゃん、消防車が来てくれたよ。救助を待ってるあいだにガムテープをはがしちゃおう」

 なるべく明るく告げて、双葉のそばに寄る。

 ソーイングセットのハサミも試したけれど、歯が立たないどころか刃が曲がった。結局、テープの継ぎ目から根気よくはがすしかなくて、何とか外せたのは口の周りだけだ。


 滑らかだった肌は赤く荒れてしまい、唇も腫れて痛々しい。

「どう? どこか痛いところとか――」

「はーちゃ、でんわ」

「え」


 面食らいつつも、条件反射でスマホを取り出していた。

 スリープを解除すると、並んでいたのは茨木からのメッセージだ。警察に梅園を引き渡し、二人が取り残されていると消防に伝えたという。

 こちらからの返信には、四階の渡り廊下で立ち往生していると打って送った。すぐに知らせてくれたようで、下からサーチライトの光が伸びてくる。眩しさに顔をしかめつつ、大きく手を振って位置を知らせておいた。


 他には芽衣からの新しい着信。電話をかけてみると、ワンコールですぐに繋がった。

『やっと出た! もう、今どこや? サイレン聞こえとるけど、まさか火事になっちょる校舎のとこじゃないやろな!』

 息を切らして叫ぶ電話口からも、サイレンの通り過ぎていく音がする。

「芽衣のほうこそ、どこにおるん? 神楽はどないしたが」

『そんなん、どうでもええなが! 八花の一大事やろが!』


 簡単にこちらの状況を説明した。火災に巻き込まれたが無事でいることを伝えると、良かった、と芽衣が声を震わせる。

『しゃんと気い持っといてな。うちも、もうすぐそっちに着くさけ――』

 耳障りな電子音とともに、いきなり通話が切れた。

 確認すると、こんなときにバッテリー切れだ。

 おかしい。いつの間にこんなに減ってたんだろ。あれか、梅園が怒濤のごとくリダイヤルしたせいか。

 電源のオンオフを試したり、振ってみたりもしたけれど、画面さえ復活しない。


「はーちゃ、でんわ」

 再び双葉が告げた。

「ごめん、バッテリーがなくなっちゃった。でも、こっちを発見してもらえたよ。大人しく救助を待ってよう」

 双葉は少し考えるような間を置き、「それとね」と続ける。

「やくそく、やぶった。ごめんなさい」

 人間にない力を使って、一斗缶の液体を操ったこと。


「いいんだよ。そんなの、もう」

 腰を下ろし、役立たずになったスマホをぽんと放り出した。

「はーちゃんこそ、ごめんね。あんなことさせちゃって」

 身動きもできないのに、助けようとしてくれた。

 その貴重な勇気と優しさに比べたら、誰かに目撃される心配なんて、ぜんぜん取るに足らないことだ。

 ガムテープの上から、何度も何度も頭をなでてやる。

「ありがとね、ふーちゃん」



   ※  ※  ※



 謝罪を伝えて安心したのだろう、やがて双葉は小さく寝息を立て始めた。

 そういえば、クラスメイトにケガを負わせた日も、ずいぶん眠たがっていた。いくら神様の娘でも、こんな小さな身体では、金属の容器を破裂させるほどの力は負担だったことだろう。


 何かの崩れるような音と震動は、依然として治まる気配がない。

 風に流れゆく煙は白と黒。そこに大量の火の粉が乗って、一緒に夜空へ舞い上がる。まるで無数のきらめく昆虫が、後から後から逃げ出していくような光景だ。


 放水が始まってだいぶ経つけれど、火の勢いが弱まったようには思えない。

 田んぼの向こうにも赤い回転灯の光っている場所がある。この風で農家の防風林に飛び火したようだ。

 こっちの消火が進まないのは、きっと延焼を防ぐのに人手を割かれているせいだろう。


 校舎の奥でひときわ大きな爆発が起こり、渡り廊下が傾いた。

 端から見れば、ほんのわずかな傾き。でも、命を預けているこちらにとっては、大地が転覆する前触れのようにも感じられる。

 いつ崩れるか分からない。片手で手すりをつかみ、もう片方の手で眠り込んだ身体を抱え込む。


 双葉と話して落ち着いたせいか、さっきまでの動揺が嘘みたいに消えていた。

 生まれ育った村の景色や、そこに灯った明かりの一つ一つまでもが、やけに細部までクリアに見える。ミシンの針が布に降りるのを見守るときのように、すうっと五感が研ぎ澄まされていった。

 頭の中には、自分の行うべき作業が順序よく並んでいる。

 梅園は捕まったし、こっちの位置も伝えた。少しだけど芽衣とも話せた。

 残る作業は、あと一つ。


 手すりの隙間から、もういちど下を確かめた。

 いよいよとなったら、飛び降りる。

 きっと無事にはすまないだろうけど、もしかして、という希望はゼロじゃない。

 もしかして――自分がクッションになれば、双葉だけでもきっと助かる。

 観念したとか、開き直ったとか、そういう捨て鉢な気持ちとはちょっと違う。

 ほんの少しでも可能性が残っていて、自分にそれができるということ。

 おかげで、こんな状況であっても冷静でいられる。


 風が強くて少し寒かった。

 パーカーを置き忘れてきたことには、少し前から気付いていた。梅園の火を消し止めたときに使って、そのままだ。

 パーカー自体は惜しくないけど、ポケットには最後の勾玉が入っている。

 ご利益のあるお守り。

 もし助かったとしても、焼け跡から探し出すなんて不可能だろう。


 それだけが心残りだったけど、失うことは避けられない運命だったような気もしていた。

 もともと三つめの願い事のときに消滅していたはずのものだ。

 期日の月はとっくに昇っている。もしここに勾玉があったって、もう神様は叶えない。


 あ。あった。

 あと一つだけ、他にもできること。望みを失ったとき、きっとみんなが自然に行うこと。

 目を閉じ、誰にともなく祈りを捧げる。

 どうか、お願いします。この子だけでも助けてください。





「――美しき心がけよの」


 鈴の鳴るような涼しげな声が、なぜか頭上から降ってきた。

「哀れなる人草の娘よ。そなたの切なる願い、わらわが引き受けようぞ」


 真ん丸な月のかかった夜空の上。

 恐ろしく長い黒髪をなびかせて、不思議な人影が薄く笑っていた。

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