事件の悪化 九 三つめの願い事
深夜になって布団を抜け出した八花は、庭の物置からハシゴを出してきた。
長いこと使ってないのでギシギシ言うけど、まあ大丈夫だろう。
軒に引っかけて屋根へ登り始めると、上からユツギが顔を見せた。
「こんな夜更けに、酒盛りの誘いか? どうしてもと言うなら受けて立つが」
「違う。昼間あんなに苦しんでいたくせに、また酔い潰れたいわけ?」
いつもどおりに威張っているユツギだけど、どこか警戒しているように感じる。
萩本と会うときも墓参りのときも、こっちの行動を見張っていた。何か仕掛けてくると気付かないほうがおかしいか。
もちろん自分も緊張気味だ。ハシゴを登りきり、四つん這いになって、さらに上へと移動する。両手で瓦をつかんで足場を確かめると、棟をまたいで慎重に立ち上がった。
「ユツギは高いところが好きみたいだからさ、どんなふうに見えてるのかなって思ったんだけど……」
下にいたときには感じられなかった風が吹いている。上から押し包むようだった蛙の声が、今は足元から押し上げてくるようだ。
晴れ渡った夜空の下に広がるのは、昼間とは少しだけ違う気配を宿した、けれど見慣れた不吹村の景色。
「平屋の屋根に登ったくらいじゃ、あんまり変わらない……かな。もっと高い建物に上がるか、空でも飛ばなきゃ違いは分からないかも」
「飛んでみるか?」
ユツギは軒のほうに腰を下ろしたまま、じっとこちらを見上げている。
「やめとく。やみつきになったら困るから」
何とか自然に笑えたと思う。
真ん丸には少しだけ足りない月が、天頂と田んぼの両方に輝いていた。
さすがに星影は映っていないけれど、星の代わりに、家々の明かりが夜の大地に散らばっている。
黒々とした防風林の奥に見え隠れする、人々の営みの明かりたち。
「『家族』ってさ、すごく包容力のある入れ物だと思わない?」
「……また、ずいぶんと藪から棒だな」
ユツギが戸惑ったように眉根を寄せる。まあ、そうだね。
「だってさ、年齢や性別が違っても、血が繋がってなくても、一つ屋根の下で暮らしていいんだよ。そんな仕組みって、ほかにないよ」
愛し合っていても、分かり合えなくても、何なら憎み合っていてすら構わない。どんな関係を放り込んでも成立してしまう、ごった煮の壺。
もし家族という概念がなかったら、誰もがガラスボトルで波間を漂うみたいにして、それぞれに暮らすしかなかったかもしれない。
「確かにな。あれは、切っても切れない腐れ縁の最たるものだ」
心当たりがあるようで、ユツギがうんざりと溜息をつく。
いまいち共感してもらえてないけど、うん、そういう関係もあるよね。
背中に手を回し、ベルトに挟んでおいたものを抜き取った。
「これ、渡しておこうと思って」
ナギの白い笛。軽く投げ渡したそれを、ユツギが片手で受けとめる。
「いいのか? お前にとっても奴の形見だろう」
「うん。だけど形見なら、あたしには双葉で充分だから」
それもそうだな、とユツギが、苦いような顔をする。こちらが勾玉の包みを取り出すと、焦ったように腰を上げた。
「待て。その……まだあと一日ある。そう急ぐこともなかろう」
「そうかもしれないけど、もう決めたから」
なるべく淡々と告げた。そうしないと、余計な感情がこもってしまいそうだった。
「ユツギ、三つめの願い事を叶えて。今夜から百年の間、あたしたちの前に姿を現さないで」
二つだけ望みを叶えてもらい、三つめで追い返す。
それが定石に込められたヒント。
ユツギは悪い奴ではないけれど、人間とは違う常識の中で生きている存在だ。
簡単に世界を壊してしまえる、神様の名を持つ魔人。ほんの気まぐれの遊びにだって、人間なんかに勝ち目はない。
きれい事を言っている場合ではない、と忠告したのは誰だったか。
望みを貫くために、理不尽に引っこ抜かれないために。たとえ罵られたって、要領よく立ち回るって決めたんだ。
手のひらの上で包みを開いた。
最後の勾玉は、まっさらな白。すべてを白紙に戻すのにふさわしい。
古ぼけた屋根瓦が、月光を浴びて濡れたように光っていた。
凹凸の繰り返し模様がきらめくさまは、まるで渚のさざ波のよう。この世の法則どおりに、光のさざ波は高いほうから低いほうへと流れて見える。
「昨日の晩のこと、覚えてる? 酔っぱらって天秤の話をしてくれたよね」
ナギはユツギと十枝を天秤にかけた。そうして、置いていかれたユツギ。
勾玉に小さなヒビが入り、白い幼芽が顔を出した。ふわりと宙に浮き、するすると茎を伸ばし始める。
「ユツギは気付いてるかな。ナギが母さんを選んだのは、母さんが元の世界に戻りたかったからで、戻りたかったのは、あたしがいたからだよ」
ガラスボトルの中でうずくまって、母さんを待ち続けていたから。
母さんはナギとあたしを天秤にのせて、どっちを選ぶか決めなきゃいけなかった。
「母さんが戻ってきて、ナギも一緒で、双葉が生まれた。あたしは幸せな時間を過ごしたけど、それはユツギの失ったものの上に成り立ってたんだね」
誰にだって大切な人たちがいて、誰のことも大切なのに、望むと望まざるとにかかわらず、どっちかを切り捨てなければならないこともある。
誰かの決意が他の誰かに悲しみを強いる。思いもよらない場所で、思いもよらない影響を及ぼし合っている。
「また今度もあたしの幸せのために、つらい立場になってもらわないといけない」
ユツギは俯き、こちらの言い分をじっと聞いている。
骨折り損の役ばかり押し付けられる、心優しき魔人。
「恨んでくれて構わないし、心から悪いと思ってる。だから、百年たったら双葉を迎えに来ていいよ」
勾玉から伸びた茎が、茂る葉が、生贄に捧げる白いヒトガタを編んでゆく。
完成したら、また情けないような後ろ姿をさらすんだろう。
「そのあいだに、あの子が誰かを選んでたら、ごめん。でも、ほら。そのころには、少なくともあたしはいなくなってるからさ」
はじかれたようにユツギが顔を上げた。「違う、おれは」
置いてけぼりをくった子どもみたいな、寂しげな表情。
金色の瞳は今にも泣きそうで、どうして、と思う。
ああ、そうか。
こっちが泣きそうな顔をしているせいだ。
引きつりそうになりながら、無理やり笑った。
「ありがとう。神様にも抵抗できる方法を与えてくれて」
ちゃんと最後まで、ずる賢い主人公らしく振る舞わないとな。
「八花、おれは――」
ユツギが何かを言いかけ、諦めたように口を閉ざす。
くそ、と小さく呟いたとき、どこかで巨大なものの動くような気配があり、ごとごとと瓦屋根が鳴り始めた。
「……地震?」
思わず呟いたけど、いや、でも、これは。
顔を上げ、夜空を見渡した。
大気がゆがんで、月が星のように瞬いて見える。何か大きな力に押し曲げられて、きしみながら元に戻ろうとしているのだ。
「いったい――きゃあ」
反動が空気の塊となって襲来し、バランスを崩して膝をつく。無我夢中で屋根に伏せ、次々に降りくる見えない波に翻弄された。
上空に響き渡る轟音の中、かつんと鳴った音が何かを確かめる余裕もない。
激しい大気の鳴動の向こうに、何かの咆哮を聞いた気がした。
唐突に始まった奇妙な嵐は、終わり方も唐突だ。
気付けば辺りは静まりかえっていた。恐る恐るといった様子で蛙の鳴き声が戻ってきて、八花も、こわごわ目を開ける。
ユツギの姿が見当たらない。白いヒトガタも綺麗に消え失せている。
「ユツギ」声を上げてみた。「ユツギ、いないの?」
返事がない。姿を現すこともない。
上体を起こし、茫然として座り込む。
定石と言ったくらいだから、こっちが何を言い出すかなんて予想してたはず。
対抗策を用意していた可能性も考えていたけど、何も言ってこなかった。それとも、今の嵐がそうだった?
手足の震えが止まらなくて、ぎゅっと指を握り合わせた。
天の怒りっていうのは、たぶんああいうのを言うんだろう。
天罰をくらって死ぬのかと思った。
でも、ユツギは願い事を聞き入れてくれて、姿を消した――。
震えが治まるのを待ってから、慎重に屋根を降りる。地面に足が届いて、ようやく肩の力が抜けた。
「終わったんだ。これでやっと……」
ふらふらしながらハシゴを片付けようとしたとき、小さな光が目にとまった。
月光を反射して、雑草のあいだで白くきらめいたものがある。
「――え。な……嘘でしょう?」
慌てて拾い上げ、絶句した。
身代わりになって消えたはずの、生贄の勾玉だった。




