事件の悪化 七 母子手帳の謎
萩本が寝起きしているという離れの建物は、一言でいえば猫屋敷だった。
八花が腰かけている縁側に、まず三匹。
こぢんまりとしたお座敷には四匹。
そして縁側に面した庭にも、よく見ると二匹いる。
発見できないだけで、まだまだ物陰に潜んでいると思う。
子ども用の絵本に、こういうのあるよね。
『なんびき隠れているか探してみよう!』みたいな?
午後すぎの半端な時間は、猫たちのお昼寝タイムらしい。まどろむ彼らのオーラは、動物というより、物言わぬ妖精のそれだ。
盆に茶器を載せて、萩本が奥から戻ってきた。
「仕事を辞めて暇になってね、たまたま居着いた野良猫を飼い始めたんだよ。最初は一匹だったのに、いつの間にか集まってきちゃってさ。こんな田舎の山奥だってのに、いったいどっから聞きつけてくるんだろうって、不思議でしょうがないよ」
隣に腰を下ろし、掃除が大変でさ、と苦笑いでぼやく。
迷惑そうにしながらも、世話を楽しんでいるのだろう。家屋に荒れた雰囲気はなく、どの猫も毛並みが良くて健康そうだ。
座敷で寝ていたサビ猫が伸びをして、萩本の身体に頭をすり寄せる。こちらにも太った三毛がやってきて、ひとの膝を座布団にして勝手に丸まった。
「悪いね、こいつら我が物顔でさ。適当にあしらって構わないから」
あっけらかんと萩本が笑う。
「大丈夫です。うちにも猫みたいなのが一人いるんで」
綺麗に三毛の入りまじった首筋をなでてやる。双葉の髪の触り心地も、だいたいこんな感じでして。
お茶と一緒に出された和菓子の包みは、途中で買ってきた手土産だ。
緑茶で喉を潤しながらの猫の話の後、十枝が病死したことを報告した。そして、つい最近、ナギもまた命を落としたことも。
萩本はナギの死に驚いていたけれど、十枝については重く頷いただけだった。
「そりゃあつらかったろうね。じゃ、今は妹さんと二人きりの暮らしかい。あの子は、ちゃんと大きくなったかね」
「いえ、相変わらずですね。この春やっと小学二年生になりましたけど、幼稚園児に交じっても違和感ないくらいです」
「そうかい。お腹の中にいるときから、ずいぶん小さかったからねえ」
霞む山並みに目を向け、萩本が湯飲みを傾ける。
節の目立つその手には年輪のようなシワが刻まれている。双葉を無事に誕生させてくれた、恩義ある手だ。
「――妹は、母のお腹にいるときから異常なほど発育が遅かった。だから、生まれてくるのに十九カ月もの時間が必要だったんですか?」
問いかけながら、持参したものを取り出し、萩本の前に並べた。
二冊の母子手帳と、夏に撮影した例の写真。
萩本が警戒するように目を細めた。
「十枝さん、あんたにはすっかり打ち明けたのかい?」
「いえ、母は何も。私が気付いたのは、つい昨夜のことで、まったくの偶然です」
新しく発見した日付の古い手帳をA、もともと持っていたほうをBとする。
AとBは日付以外はだいたい同じ。でも、もう一つだけ違いがある。
Aのほうは、途中で記録が途切れているのだ。
最初は単純に、双葉の前にもう一人、弟か妹が生まれる予定だったのかなと思った。不幸にも死産してしまい、悲しい記憶をこっそり封印したのかと。
けれど、きちんと内容を確認したら、辻褄の合わない点があった。
Aでは八月に妊娠。翌年の五月に出産予定だったが、二月に記録が途切れている。
そしてBのほうは、六月に妊娠、翌年三月に出産。
どちらにしても、夏に臨月を迎えられない。
何かの間違いだと決めつけることもできたけど、仮に、どちらも正しいと考えてみたら、思わぬひらめきが降りてきた。
もしかして、Aの時期に妊娠して、Bの時期に出産したのでは?
それで、妊娠期間十九カ月だ。
普通ならありえない話だけれど、そもそも双葉は普通の子どもではない。明らかに他の子と違う成長速度を思えば、とても十カ月では発育しきれなかったはずだ。
八花や周囲の人間が不自然さを感じなかったのは、おそらくナギも十枝も普通には生まれてこないことを知っていて、悟られないよう行動していたせいだ。
十枝は自宅で仕事をしていたから、うまく立ち回れば、妊娠中に目撃される機会を極力おさえられる。人に会う必要があるときには、きっとナギが認識阻害をかけた。
八花に対しても、当時はろくな知識もなかったので、ごまかすのは簡単だ。
出産時の危険を考えれば、さすがに第三者の協力は不可欠だけれど、それだって、関係者の多くなりがちな町の病院ではなく、小さな助産院を頼った。出産場所も自宅を選ぶという念の入れようだ。
そうやって十枝たちは、双葉の普通でない身の上を隠し通していたのではないか。
「秘密をあばきたいわけではないんです。ただ……実は今、妹の今後について考えあぐねている問題があって、何かしら判断の材料になるかもしれないと」
決断を下す前に、判断を間違えないように、きっと自分は知っておかなくてはいけない。そんな気がする。
「ご迷惑はおかけしません。当時の話を聞かせてもらえませんか?」
萩本はじっと黙り込んでいたが、やおら息をつき、肩をすくめた。
「話と言われても、アタシは何も知りゃしないよ」
そう告げて、膝に乗ろうとするトラ縞猫を慣れた手つきで追い払う。
「現役のころはね、そりゃあいろんな赤ん坊を取り上げたもんだよ。望まれた子、望まれない子、健康な子、訳ありの子……お産なんてプライベートの最たるもんだからさ、どんなに普通に見える家庭にも、多かれ少なかれ何かしら問題があるんだってのが分かっちまう。部外者のアタシが詮索したり、口を突っこんだりしても何にもならない、それぞれの事情ってやつがね」
だから、いつも仕事をするときは、生まれてくる命のことだけを考える。
そんな萩本にとっては、たとえ双葉が何者であっても、他の赤ん坊たちが等しく抱えている事情と何の区別もなかったという。
「アタシは、産みたい母親と生まれたい赤ん坊に力を貸してやっただけ。アンタの聞きたいような話は何も知らないね。……まあ、母子手帳を書き替えてやったのは、ちょっとしたオマケって言うか、出来心だね。これがあれば、いろんな場面でごまかしが効くからさ」
混乱させちまったなら謝るよ、と萩本は、ちっとも悪いとは思っていなさそうに言う。
八花は首を振り、頭を下げた。「ありがとうございました」
平然と告白しているけれど、記録の改ざんなんて簡単にできることではないし、たぶん職業倫理に触れるような行為だ。生半可な気持ちでは手なんか貸せない。
でも、萩本が協力してくれなかったら、十枝は誰の助けも得られないまま、あの難産で双葉もろとも命を落としていたかもしれない。
「――ああ、これだよ」
萩本が和菓子の包みを破り、懐かしそうに声を上げた。ころんと出てきた黄金色の最中が手のひらに収まる。
「これ、美味しいよねえ。十枝さんが初めてアタシを尋ねてきたときも、ここの最中を持ってきたんだよ」
「そうだったんですね」
でも、たぶん偶然じゃないんだろうな。
「大酒飲みで甘いものが苦手だった母が、珍しく好きだったんです。母と違って甘いもののイケる私も、ですけど」
「そりゃあいい。アンタ、まだ未成年だっけ? きっと酒の趣味も一緒だよ」
こちらも最中を取って口にした。皮がパリっと香ばしく、こし餡の甘さは、しんみりと優しい。
「さっきアンタが尋ねてきたとき、びっくりしたよ。一瞬、十枝さんかと錯覚したんだ。まるで時間が巻き戻ったみたいでさ。可笑しいよね、連絡をもらって、来るのはアンタだって知ってたはずなのにね。ほんと、十枝さんそっくりになったよ」
八花は膝の三毛猫に目を落とし、柔らかな喉をかいてやった。そのお返しなのか、最中の粉でもついていたのか、ざらざらの舌で指先をなめられた。
「母に似てるなんて言われたの、生まれて初めてです」
「そうなのかい? でも、似てるよ」
きっぱりと言いきり、萩本はこちらの鼻先を指さした。
「だってほら、目が似てるもの。さんざん悩んで、大きな決断をしたって目さ。妹さんのことで何か悩んでるそうだけど、アンタ、本当はもう心は決まってるんじゃないのかい?」
そう言って、二つめの最中を美味しそうに頬張った。
※ ※ ※
もらいもののビワとともに、八花はバスに揺られて不吹村に帰ってきた。
途中のコンビニで、線香のセットと仏花、あとカップ酒も買い、村の墓地へと足を向ける。
十枝の命日に掃除した小さな墓の周りは、もう雑草が繁殖している。荷物を置き、上着も脱いで、まずは草むしりに没頭した。
親族が死に絶え、訪れる者もほとんどいない墓だ。すっかり綺麗になってしまうと、かえって物寂しいような風情になるのはいつものこと。
枯れた花を替え、カップ酒とビワを供えて、線香に火をともす。
そうして最後に木切れを拾い集めると、人目がないのを確かめ、墓前で小さな焚き火をおこした。
「ずいぶん遅くなっちゃったけど、約束のもの、完成したから」
小さく語りかけて、持ってきたワンピースを焚き火にくべる。
その火が充分に回ったところに母子手帳Aをかざし、端が燃え始めたところで、そっと手を放した。
……ずっと謎だったことがある。十枝の不自然な死に方だ。




