事件の悪化 六 ミシンと布と私
昭和の香りの色濃いこの家には、一つだけ洋間がある。
玄関から入った廊下の正面、すりガラスのはまったドアの向こう側。十枝の工房として使われていた、六畳ほどのミシン室だ。
奥の窓辺に置いてあるのが、お師匠さんから譲り受けたという骨董ものの足踏みミシン。
壁の一方には天井まで届く木製の棚があり、生地の見本帳や巻き糸、小物パーツの詰まったケースなどが収められている。隣に鎮座するブリキの書類棚は、お客さんの型紙の収納庫だ。
向かい側には男女のトルソと、道具一式を入れた車輪つきのワゴン台。傘の広いペンダントライトの下には使い込まれた作業机が据えてある。
子どものころの八花にとって、このミシン室は、まるで秘密の宝石屋さんのようだった。
きらきらとしたボタンや色とりどりの糸、つやめくリボンと可憐なレース。どれもきちんと並んで、つんとすました顔をしていた。
もちろん手に取ってみたかったけれど、いつも大人しく眺めるだけだった。子どもが遊んでいいものではなかったし、彼らには侵しがたい神聖さがあった。
――早く大人になって、母さんみたいに自由に触れ合えるようになりたいな。
幼いころの憧れと、初めて許可をもらったときの喜びは、今でも胸の中にあって、本物の宝石に負けないくらいに輝いている。
昨日に続いて穏やかな晴天となった金曜日の昼どき。自主休講を決めた八花はミシン室に入り、布地にアイロンをかけていた。
空色の大きな花模様の入った、夏向きの軽やかな木綿生地。十枝のワンピースにするため、もう二年も前に用意したものだ。
洗われて織りのゆがみの直った布地は、アイロンの滑りも良くて気持ちがいい。
そよ風に布が揺れるのを押さえながら、熱の取れた生地に型紙を並べる。待ち針で丁寧に留めて、でも切り出すのは、ためらわずに思い切り。
手入れのいい裁ち鋏の音を聞いていると、気持ちよく目覚めた朝のように意識がクリアになる。全部のパーツを切り終えるころには、すっかり完成までのビジョンが見通せた。
作業工程のすべては頭の中で一列に並び、静かに順番を待っている。
棚の前で糸を選んでいると、ユツギの姿が嫌でも目に入った。部屋の隅っこで、ぐったりとイスの背もたれを抱えている。
「……油断した。酒に毒を盛られるとは……」
「それ、ただの二日酔いだからね?」
あの地酒、二〇度もあるんだよ。一升も飲んだら、そりゃあ具合だって悪くなる。
昨日だけ特別、のつもりで家に招き入れたけど、このありさまでは追い出すのも可哀想だ。
きっとこうやって、なし崩しに居座られるんだろうなあ、と予感めいた諦めを抱きつつ、選んだ糸とパーツをトレイに載せ、窓際に移動する。
スツールに浅く腰かけ、古めかしいミシンに上下の糸をセットしたら、いよいよ作業開始。
最初の一針を落とす、この瞬間の緊張が好きだ。
軽く息を吸い、片手でミシンの弾み車を回転させる。
針が引き上げられ、真っすぐに降りて一目ぶんの糸を結ぶ。引き上げられて、糸を結ぶ。
重い手応えに合わせて、最初はゆっくり。勢いがつくにつれ、だんだんに速度を上げて踏板を漕いでいく。
ミシンは頭のいい生き物のようなものだ。どこを縫われたいかは布地が知っている。人は控えめに介添えし、ミシンと布との対話をそっと見守ってあげればいい。
いつの間にかユツギが、イスごと隣に移動してきていた。気だるそうに頬杖をつきながら、縫われてゆく布の行方を見物している。
無造作に着こなされている神様の衣装。この世にあらざる神秘的な布は、ミシンとどんな会話をするんだろう。
北向きのミシン室は、日中を通してあまり明るさが変わらず、いつ訪れても同じような光がたゆたっている。
そのせいだろうか。この部屋に入るときはいつも、時が止まったように錯覚した。
時間は流れ去るのをやめ、このささやかな空間に、ひっそりと滞留している。
さっきドアを開けたときも、誰もいない部屋と、『お帰り』とミシンの前から声をかけてくる十枝の姿とが、二重写しに見えた気がした。
今、自分は、過去の十枝と同じ格好でミシンの前に座っている。
過去と現在が重なり合っているのを、じっと肌で感じている……。
やがてすべてのパーツが縫い合わされ、ワンピースが完成した。トルソに着せ、少し距離をとって、いろいろな方向から眺める。
ノースリーブの膝丈ワンピース。一見はシンプルだけど、実は背中が大きく空いている。この攻撃的な大胆さが、十枝には絶対に似合うはずだ。
最後に針の数が合っているか確認し、ワンピースを畳んでバッグに入れた。
作業台を片付けてミシン室を出ると、いつの間にか帰宅していた双葉が茶の間にいた。宿題のプリントを白紙にしたまま、ちゃぶ台で読書中だ。
「ちょっと出かけてくるよ。ふーちゃんはこのまま家にいる?」
双葉は読んでいた本を少し持ち上げた。公民館へ本を返しに行くらしい。
「そう。じゃ、気を付けて」
頭をなでてやり、軽く身支度をして玄関を出る。
どこかで聞いているはずのクナシに向かって、「双葉の見守り、よろしく」と言い残しておいた。
※ ※ ※
いちばん後ろのシートでバスに揺られながら、八花は、持ってきた二冊の母子手帳を見るともなしに眺めていた。
記載の内容と挟まっていたメモ書きから、双葉の出産は『萩本助産院』というところでお世話になったようだ。ネットで調べてもほとんどヒットしなかったので、個人経営くらいの小さな施設なのかもしれない。
担当は、院長でもある萩本さん。蹴飛ばす勢いでナギを家から追い出した、例の山姥みたいな助産師さんだ。
この人なら、きっと母子手帳の謎を知っている。
メモしてあった連絡先には、朝のうちに電話をかけて訪問の約束を取りつけた。
電話口で応対してくれたのは萩本の娘だという女性で、当の萩本は七〇歳を過ぎてから仕事を引退し、今はのんびり暮らしているらしい。
車窓には鬱蒼とした山並み広がり、薄い靄が谷間を埋めている。位置としては不吹村の上流にあたるだろうか。
やっとすれ違えるくらいの山道を登ってゆくと、やがて行き止まりになり、そこがバスの終点だった。
「わ……すごいとこだなあ」
山の斜面を覆う木々の合間に、歴史ありげな土蔵や板張りの家屋が見え隠れしている。
『むかしむかし、あるところに』の世界に迷い込んだような雰囲気。さすが山姥の住み処、って言ったら怒られるか。
スマホの地図アプリを頼りに、古いアスファルトの道をさらに登る。
きょろきょろしながら歩いていると、やっぱり目に入るのはユツギの姿だ。道端の石組みに腰かけ、うなだれていた。
「そんなにつらいなら、別についてこなくてもいいよ?」
「馬鹿にするな。これしきのことが、つらいわけあるか」
うんまあ、好きにすればいいけど。
やっと見つけた萩本の家は、集落のいちばん奥だった。予想外にモダンな建物で、肩透かしをくった気分になる。さすがに藁葺き屋根ではなかったか……。
インターホンを押すと、萩本の娘さんが現れた。萩本は裏の離れにいるという。
教えられたとおりにいったん敷地を出て、段々畑の脇の通路を進む。
途中で白猫と黒猫の追いかけっこに遭遇し、彼らに導かれるような形で横道に入ると、たどり着いた建物の庭先にいたのは、小ざっぱりとしたニット姿の老婦人。
何匹もの猫にじゃれつかれながら、枝に鈴なりのビワを収穫中だ。
「すみません。萩本さんの離れって、ここですか」
声をかけると老婦人が振り返り、こちらを見て、ぽかんとした顔で立ちすくむ。けれど、そんな驚いた様子も、ほんの一瞬だ。
「いらっしゃい、周防さんとこのお姉ちゃんだろ。覚えてるよ、大きくなったねえ」
ビワの竹ザルを抱え、猫たちを引き連れながらやってきた。
「連絡をくれたんだってね。十枝さんたちは元気にしてるかい?」
さっぱりとした満面の笑顔は、記憶にある山姥の形相と、まったく一致しなかった。




