事件の悪化 四 トキハカシ
双葉を起こさないよう静かに自宅を出た八花は、夜道に自転車を走らせ、普段は行かない大型スーパーに駆け込んだ。
ちょっとお高めのフルーツ売り場を巡り、箱入りメロンを買い物カゴに入れる。
ちょうどセールの時間で、レジはだいぶ混雑していた。
「――もしかして、八花ちゃん?」
声をかけられて振り返ると、後ろに並んでいたのは、なんと百合恵だ。
「今晩は。買い出しですか?」
「そう。まかない用の食材をちょっと買い足しにね」
百合恵の押しているカートには、満載のカゴ二つ。
〝ちょっと〟どころの量じゃないけど、例大祭に駆り出される人員のためのまかないかな。
いろいろと考えることが多くて忘れかけていたが、例大祭は、もう明後日。
双葉の運命が決まる日だ。
レジにトラブルがあったようで、列はなかなか進まない。
「百合恵さん、こんなところで何ですけど、つかぬことを聞いていいですか」
辺りに顔見知りがいないことを確かめ、声をひそめた。
「不吹村みたいな田舎の、それも、しきたりの多い家へ嫁入りするのに、迷ったり悩んだりしませんでした? ……その、まったく環境の違う場所で生活することになったわけでしょう?」
百合恵は目を瞬き、それからにんまりと笑った。
「八花ちゃん、もしかして誰かにプロポーズされたの?」
「違います」
芽衣に東京へ行こうと勧誘を受けているだけです。
むしろプロポーズされたのは義妹。恋バナでなくて申し訳ない。
残念そうにしながらも、百合恵は「そうねえ」と顎に指を当てた。
「自分でも驚いたけれど、意外と悩まなかったわね。そもそも私はいろいろあって、結婚なんて考えたこともなかったのよ。で、あの人と出会って、家系の話や田舎ってことも聞いたけれど、急に話がまとまったものだから、それがどういう意味かも理解しないうちに籍を入れて、こっちに来て」
……は?
「何も分からないまま、そんな大事なことを決めちゃったんですか!?」
ウッカリさんではないはずなのに、なぜそんな無謀な真似を。
ていうか芽衣のお兄さん、ちゃんと説明してあげてよ!
「だから、自分でも驚いたって言ったでしょう」
百合恵さんは、ころころと笑っている。
何の確約もなしに人生を決定できるなんて勇気ある。勇者かな。
「……よく決断しましたね。愛ですか。やっぱり愛ですか」
「愛情はもちろんだけど――どちらかと言えば信頼かしら」
百合恵さんは照れたように首をかしげた。
「この人と一緒なら、どんなところでも私はやっていけるって、あるとき、ふと思ったの。ただの直感だから、何の根拠もなかったんだけどね」
その直感が正しかったことは、当人を見ていれば分かる。
相手への信頼と、自分への自信。やっぱり勇者だ。
「信頼があっても、とてもそんな境地に至れそうもないです……」
「ひるむことないわよ。だって後悔も満足も、理詰めでするものじゃないでしょう? もっと単純に、心の向くままに決めても大丈夫なことって案外あるものよ」
そうこうしているうちに列が流れ始め、ようやく会計を終える。
話のお礼がてら袋詰めを手伝っていると、芽衣のお兄さんが荷物持ちにやってきた。運転手としてついてきて、混雑を避けて待っていたらしい。
和やかに手を振って別れたけれど、何かもうあの人、嫁をだましうちにした腹黒にしか見えないよな……。
※ ※ ※
「あ。いた」
買い物と用事をすませて帰宅した八花は、茶の間の窓から身を乗り出し、屋根の上にユツギを発見した。
ぼんやりと片膝を抱えて沈んだ様子に見えたけれど、「何の用だ」と、つっけんどんな返事は、いつもどおりの声だった
「ご飯が余っちゃって。おむすび作ったんだけど、よかったら食べない?」
「……ほう、供物か。いい心がけだ」
ユツギが、ぱっと庭に移動する。
「すぐ用意するよ。適当に座ってて」
いったんキッチンに向かい、あれこれお盆に載せて茶の間に戻る。けれど、ユツギは困ったような顔で、まだ庭に突っ立っていた。
「何してんの。入りなよ」
「……いいのか?」
「うんまあ、今夜だけね」
初日の話し合いのように、ちゃぶ台を挟んで腰を下ろす。箸や小皿、小鉢などを並べ、おむすびの皿をどんと置いた。
「それと、こっちもどう?」
日本酒の一升瓶をよいしょと抱え、封を切る。グラスにそそぐと、軽快な音が立ち、華やかな香りが鼻をくすぐった。
「神酒まで出てくるとは、さすがに気味が悪い。毒でも入れたのではあるまいな」
ユツギは警戒した様子でグラスを受け取り、一口なめてから満足そうに飲み干した。
「まあ、悪くはないな」
「口に合ったみたいで、良かったよ」
母さんが好きだった地酒に、毒なんか仕込むわけない。
病院に運び込まれて間もなくのころ、退院したら飲むからとお願いされて買っておいた、その年の新酒だ。
結局、家に戻ることはなかったわけだけど、うちは母さん以外はお酒を飲まないから、ずっと冷蔵庫のこやしだった。
「今日はありがとう。双葉を助けてくれて」
自分のグラスには麦茶をそそぎ、乾杯するみたいに掲げる。
「う……いや、おれは正当な取り引きに基づき、お前の望みを叶えてやっただけだ」
ユツギは反応に困ったように視線を泳がせたあと、そうさせたお前が悪いとでも言いたげに、にらんできた。
すでに目のふちが赤いんだけど、神様のくせにお酒に弱すぎない?
「でも、丸く収まったのはユツギのおかげだから。さ、食べて食べて」
自分でもおにぎりを取り、かぶりつく。
ユツギに頼んだ二つめの願い事は、『今日の事故をなかったことにしてほしい』。
双葉の暴走で怪我をした子も、目撃した子もいないようにして、と。
さっきスーパーからの帰りに草平君の家を訪ね、対応してくれたお母さんに、頂き物のお裾分けという建前でメロンを差し上げた。
ユツギはうまく叶えてくれると信じていたが、どんなふうに辻褄が合うのかと思ったら、確かめずにはいられなくなったのだ。
ほとんど交流がないお宅だったので、我ながら苦しい訪問理由だったし、向こうも面食らっていたと思う。けれど、息子が学校で負傷したという事実は、きちんと記憶から抜け落ちているらしいと確認できた。
わざわざお礼を言いに出てきてくれた草平君も、どこにも怪我なんかなくて、涙がにじみそうになるくらい安堵した。
うちの双葉がすみません。口に出しては言えないけれど、それお見舞いっていうか、お詫びの印です。
お裾分け返しに自家製の漬物までもらって、自転車のペダルも軽く帰ってきたのだった。
ちなみに、漬物は甘辛で美味しかったので、つまみ代わりに小鉢で出した。
双葉にも明日の朝ご飯に出してあげよう。
「……あのさ、ちょっと考えてたんだけど」
空いたグラスにお酒をつぎ足してやりながら、改まって切り出した。
「ええと、ユツギが双葉を連れていくのは、例の神域とかいうところなんでしょ? そこって、行ったら帰ってくることってできる?」
ユツギはおにぎりを食べながら、少し考えるように間を置き、頷いた。
「双葉どのの話であれば、それはできる」
「あ、やっぱりそうなんだ」
前にヒノメが言っていた様子だと、人間の行き来は難しそうだけど、ユツギやナギなら平気なようだったし。
「もし双葉どのがおれの嫁になっても、里帰りができるだろうと思ったか?」
指についたご飯つぶを食べながら、ユツギが見透かしてくる。
鋭いな。嫁にはさせないけどね!
「だが、双葉どのと再会したいというのなら、それはできないと言うほかない」
「どういうこと?」
「神人の知識は魂魄に宿り、能力は肉体に宿る――以前にそう言ったが、覚えているか」
何となく背筋を伸ばし、頷いた。
土砂崩れ現場で、ナギとクロミミ様の取り引きの話を教えてもらったときに、そう聞いた。
「神人の肉体は力のこごったものであるから、もとより物質ではない。だが、人草のそれは重さを備え、ゆえにトキハカシを越えられん。お前たちもいつかは越える方法を編み出すだろうが、すぐには無理だ。百年か、二百年か。少なくとも、お前の寿命が尽きるまでには実現が――」
「はい、質問」軽く手を上げ、口を挟んだ。「トキハカシって何?」
ユツギは長々と考え込んだあと、「分岐点」と呟き、もう一つおむすびを取った。
「あるいは〝境界〟とも言える。場所としての一点を示すのではなく、ある状態からある状態へ遷移する際の、変わり目となる一瞬。そして同時に、そうした概念を支配している存在の名でもある。……分かるか?」
うん。よく分からんです。
「たとえばだな」
ユツギは二個めのおむすびをぺろりと平らげると、箸を一本とり、真ん中をつまんで水平に持った。
「こう、天秤の竿があるとするだろう。外部から、あるいは内部からの働きかけにより、均衡が破れて片方が上になり、もう片方が下になる。同一の次元であった両端の存在が、それぞれ属性を転換させるわけだ。そのときの位相が――」
「うん、ごめん。そのくらいで大丈夫」
そっと箸を取り上げ、箸置きに戻してやる。
ユツギに難しい説明をさせたあたしが悪い。
「ええと、人間にはトキハカシを越えられない。神域には行けないってことまでは分かったんで、続きをどうぞ」
ユツギは困惑したように眉を寄せた。
「お前が余計なところで話の腰を折るから、どこまで話したか分からん」
酔っ払いめ!
「双葉が神域に行ってしまうと会えない理由からお願い」
「ああ、それだな。双葉どのは人草としての血肉を備えているから、トキハカシを越えるためには、いちど今の器を去り、神人として生まれ直すことになる。が、幸いにして能力を顕現させているため、そう長くはかからんだろう。――神人としての時間で言えばな」
「そっか……人間と神様の時間は違うんだったね」
つまり、それもこっちが生きているあいだには実現しないだろうってことだ。
それにしても、肉体を持ってると神域には行けないのか。
……あれ。もしかして、母さんが神域に流れ着いたのは、あのとき魂が身体から離れていたってこと?
ということは、ほぼ死んでたのをナギさんは生き返らせてくれて、こっちの世界まで送り届けてくれたのかな。
今さらのようにナギの母さんへの愛におののき、ふと気付く。ユツギが痛みをこらえるような顔をしていた。
「どうかした?」
「なぜ急に向こうの話などに興味を持ったのかと思ってな。双葉どのと話して、ともに生きる決意を固めたのではないのか?」
ぼそぼそと問いかけられて、開けっぱなしの窓から庭を見た。
少し前まで吹いていた風は、やんでおり、すっかり空が穏やかだ。初夏の蒸し暑さもまだ遠く、ぼんやりと過ごすにはうってつけの宵だった。
「実はね、すごく揺れてる」
麦茶のグラスを両手で握り、唇を湿らせる。
現実問題として、自分一人で双葉を育て上げられるかは疑問だし、芽衣の提案を聞いて、好きなことだけやって暮らすのも楽しいかもって思った。
東京に住むなんて不安しかなかったけれど、思い切って村を出てみたら、百合恵さんみたく『意外に平気だった』って笑えるような気もしたし。
だけど双葉の気持ちを知って、あの小さな身体を抱きしめて、もう離れて生きるなんて考えられないのも事実だ。
やっぱり自分は、母さんとナギの遺した双葉が大事で。
あの子にとって、一番いい未来をもたらしてあげたくて。
だからこそ揺れる。
「ときどき自分の臆病さが嫌になるんだ。誰よりも双葉を幸せにしてあげられるっていう自信が、あたしにはない」
ちゃぶ台に落ちたグラスの水滴を指でのばし、ぐるぐると渦巻きを描いた。
「……母さんだったら、きっと迷ったりしないんだろうなあ……」




