事件の悪化 一 芽衣
ナギの一件は、何の進展もないまま丸五日が過ぎた。
そのあいだに一度、土砂崩れ現場でお世話になった藤巻が途中報告の連絡をくれた。旗臣建設の社長も、梅園とともに挨拶に来て、やけに高級そうな菓子折を置いていった。
他に変わった出来事と言えば、ここ二、三日、家の中の物の配置に違和感を覚えることだろうか。
といっても、何かがなくなったわけではないし、どこがどう違うとも言えない。それとなくユツギに聞いてみたが、勝手に上がり込むような真似はしてなさそうだ。
なら気のせいかと首をかしげつつ、念のため外出のときには施錠することにして、双葉にも合鍵を持たせた。
ユツギとの関わりもその程度で、双葉に言い寄る様子もなければ、願い事を言えと迫ってくることもなかった。
何を企んでいるのかと心配ではあるものの、接触が減るのは願ったり叶ったりだ。
ただ、スーパーの駐輪場に、双葉を迎えに行った公民館の前に、大学へ向かう道すがらに、ユツギの派手な姿を見かけることは、すっかり当たり前になってしまった。
爽やかに晴れあがった木曜日。
昼休みも半ばを過ぎたころ、八花は荷物を抱えて、実習棟の階段をとぼとぼ降りていた。
行き先は一階の溶接室。造形科の実習室の一つで、雑然と機械類の置かれたコンクリート造りの大部屋だ。
お邪魔しますと声をかけ、空調のうるさい室内をのぞく。中は閑散としていたけれど、奥のブースに芽衣の姿があった。
汚れたツナギに、ゴツいゴーグルと防塵マスク。誰が誰やら分からない格好だけれど、あれを雑誌のグラビアみたいに着こなせるのは芽衣しかいない。近くに桂太もいるから間違いないだろう。
グラインダーを使った研磨作業の最中で、桂太はそっと周囲を動き回り、火花の明かりに浮き上がる芽衣の姿をカメラに収めている。ファインダーをのぞく真剣な眼差しは、白紙の巻物を前に墨を擦り続ける修行僧みたいで、いつもとはまるで別人だ。
部屋の一角には、先輩の誰かが持ち込んだという破れたソファセットがある。その隅を借り、自販機で買ってきたコーヒー牛乳のパックと、昨夜の残り物を詰めた弁当箱を取り出した。
芽衣がこちらに気付いたのは、遅いランチを食べ終わったころだった。
「見て見て、あとは塗装したら完成!」
ゴーグルとマスクを外しながら、嬉しそうに金属製の棒を見せにきた。
「それ、リリカの杖だよね。また同じもの作ったの?」
「これは新バージョン。ほら、柄の装飾がリボンでしょ?」
なるほど分からん。
普通のコスプレイベントには規約があって、たとえ小道具でも金属製の武器類は持ち込めないそうだ。イベントには仕方なくハリボテを持っていくらしいけど、それとは別に、こうして撮影用の本物も自作している。
ハリボテだと軽すぎて、持ったときのポーズが嘘くさくなるとか何とか。
さすが、コスプレ用のパーツを作るために、この大学に入っただけのことはある。実習用の設備をあますところなく使い倒している……。
「芽衣は、発表会の準備って進んでる?」
うちの大学では半期に一度のペースで課題を提出し、皆の前で発表するという行事がある。内輪でやるミニ文化祭といった感じだけれど、自分の作品を大勢の生徒の目にさらすことになるわけで、毎回なかなかのプレッシャーだ。
芽衣は片目で杖の直線を確かめながら、「発注した資材の到着待ち」と答えた。
ついでに桂太にも聞いてみると、
「僕も撮り進めてますよ。今回はモノクロのフィルムカメラに挑戦しました。てってけてー、『メイにゃん愛のポートレート』!」
今のドラえもんの真似か。修行僧どこいったよ。
さっそく現像すると言い置いて、桂太は溶接室を出ていった。
「みんな順調そうでうらやましいなあ」
弁当箱を片づけながら溜息をつくと、芽衣が首をかしげた。
「なあに、行き詰まってるの?」
「さっき教官にラフ画を見てもらったんだけど、また全ボツくらってさ」
週明けに次の案を持ってこいと言われてしまった。
服飾科の今期のテーマは『ファッションで自己を表現する』。
自分という人間を表す衣装をデザインし、制作までを行うのだ。
もう試作を始めている人もいるのに、いまだ構想固めに七転八倒のありさまで焦る。
担当教官いわく、自分自身を見つめる作業が足りない。自分という一個人を掘り下げきれていないから、作品が平凡でつまらない、という。
そんなこと言われてもなあ、という感じだ。
もう十九年も自分をやっているのだし、どんな人間かなんて分かりきっている。
作品が平凡でつまらないのは、平凡でつまらない人間だからでは――と売り言葉に買い言葉で口を滑らせたら、
『大丈夫。君にも良いところはあるよ』
と気の毒な子を見る目で言われてしまった。
服を作るのにどうして哲学しないとならんのですか。
制作物と人間性が結びつくのほんとつらい。
「八花は作業に取りかかれば早いんだし、そんなに焦らなくても平気でしょ?」
「そうなんだけどさ。さっさと見通しをつけないと落ち着かないよ。引っ越し先を探さないといけないし、家の中も片付けないとだし」
ぶつぶつとこぼすと、芽衣が勢いよく振り返った。「引っ越し先って何!」
「あれ、言ってなかったっけ」
借家の取り壊しの件を簡単に説明した。
「そんなの聞いてな……」
言いかけた芽衣が、ばっと口元を押さえた。立て続けに大きなクシャミをして、険しい顔で辺りを見回す。
「おかしいわ。奴の匂いがする」
まさにその瞬間、ユツギが宙に現れて目の前に着地した。と同時に、芽衣がクシャミを連発しながら慌てて逃げていく。
「おい八花、一大事だ。すぐに双葉どののところへ行ってやれ。急に力を使いすぎて昏倒したらしい」
詰め寄られて、思わず立ち上がった。
は? 昏倒って倒れたってこと?
「力を使いすぎてって、いったい何でまた」
「おれにも分からん。一尋どもの報告によれば、水の刃を作って人草の子どもを襲い、怪我を負わせたそうだ」
小学校の休み時間中の出来事で、双葉も怪我をした子も保健室に運ばれたという。
いやいや、そんなのありえないって!
もう力を使わないって約束させたし、双葉は約束を破るような子じゃないし。
だいたい、どうして双葉がクラスメイトを襲うわけ?
「何かの間違いじゃ――」
言いかけたとき、ふと思い出したのは柚比良から聞いた、いじめの話だ。
まさか報復のためとか……?
良くない想像が湧きそうになって、強く頭を振った。
田んぼでの一件で双葉とはぎくしゃくしてしまい、とてもデリケートな話ができる状態ではなかった。
だけど、と唇を噛む。
こんなことなら早く話を聞いてあげればよかった。
「とにかく、学校に行ってみる」
スマホの時計を確かめると、急いで駅へ向かっても、すぐには電車の来ない時間帯だ。大通りでタクシーをつかまえるほうがいいだろう。
溶接室を出ようとすると、「待って」と、くぐもった声が上がった。
「あたしが車を出すよ」
戻ってきた芽衣は、ゴーグルに二重の粉塵マスク。それでクシャミを押さえ込めたらしい。
どんなもんよ、という態度でユツギの前を横切り、「急ごう」と背中を押してきた。
無言で見送るユツギは、いかにも不満そうだった。
※ ※ ※
ミニバンの助手席に乗せてもらい、双葉のもとへと向かう。
途中で八花のスマホが鳴った。小学校からの電話だ。
双葉が気を失って倒れた。担任と養護教諭が協議し、大事をとって帰宅させることにした。よって迎えに来てもらえないか――という。
すぐに行きますと返事をし、通話を切る。
芽衣が運転を続けながら、ちらと気遣わしげな視線を向けてきた。
「特に何も言われなかったよ。たぶん、詳しいことは向こうで話すんだと思う」
深く息を吐き、シートに沈み込んだ。
「……双葉ね、最近、妙なことができるようになったんだ。ユツギが言うには、神人の能力の一部なんだって」
独り言のように呟いた。
「ついこないだ、目撃しちゃった。水の上を、何食わぬ顔でアメンボみたいに歩いてた。冗談ぬきに、目の前が真っ暗になったよ。あーホントにこの子、人間じゃなかったんだ、ってさ」
たぶん、ユツギがそそのかさなくても、そのうち開花する能力だったのだろう。
窓の外では、青空を映した田んぼが飛ぶように流れていく。こちらの心境などお構いなしに空は晴れ上がり、雲の白さがことさら美しい。
何だか眩しくなってしまい、目を落とした。
「うちだって考えんわけじゃなかったげんよ。なして他の子と違とるんやろって」
離乳のころから極端に偏食で、同じ年の子どもよりずっと小さかった。
病気ではないかと心配になるくらい言葉が遅くて、めったに泣かなければ、笑いもしない。そのくせ、大人でも読み下せないような難解な本まで、すらすら読めてしまう双葉。
誰よりも長い時間、誰よりも近くで見てきたはずなのに、いまだに何を考えているのか分からない。そもそも、自分と同じ感情を持っているのかも不明だ。
「でもな、他人と違とるなんて、誰でも当たり前の話やがいね。そやからうちも、そないな点も個性のうち、って思うとったんよ。けど……」
双葉の持つ能力は、個性なんて言葉には収まりきらない。それでも、見た目は人間の子どもと変わらなかったから、力のことさえ隠し通せたら、このまま姉妹として暮らしていけると思ったのだ。
だけど、神様の時間を持つあの子に、人間の自分が言って聞かせようなんて、最初から無理な話だったのかもしれない。
「……双葉はたぶん、ユツギと行ったほうが幸せになれるんや」
意識の底を流れていた潮騒の幻聴が、少しだけ大きくなる。
ぼそりと芽衣が呟いた。「ええが? そない言うてしもて」
「ええわけない。でもな、仕方ないのかもしれん」
鏡写しの天地の青空。
自分には離陸するところを想像するのが関の山。でも、双葉なら泥まみれになることもなく、好きなように走ってゆけるし、いずれきっと自力で飛べる。
それを引き止める方法も権利もない。
「……いつまでも甘えとられへんわ。強くならんと……」
※ ※ ※
芽衣のおかげで思ったより早く小学校に到着した。一回の切り返しで、ミニバンがぴたりと駐車場の白線に収まる。
八花はミラーをのぞき、情けない顔をぐりぐりとほぐしてから助手席を出た。
「いつも弱音を聞いてくれて、ありがとうな。……ほな」
ドアを閉めて校舎へと歩き出すと、「待ってえな」と芽衣も車から降りてきた。
「うちと一緒に、東京へ行かんけ?」
思ってもみない一言に、ぽかんとして振り返る。
「言うとくけど、急な思いつきやないげんよ。八花は家族を大切にしとるし、村での生活が好きやって話しとったさけ、きっとよそには出たくないやろ思って、ずっと言えんかった。けど、こない状況やし、もう遠慮しなくてええよな」
芽衣の白い頬が緊張で赤らんでいる。
「卒業したら、八花も向こうで就職せんか。こっちで探すより求人の幅が広いんは間違いないやろし、そのぶんハードルも高いかもしれんけど、八花なら絶対に大丈夫や。技術を十二分に活かせる仕事が、きっと見つかるげんよ」
借家を追いだされた後は卒業までうちに居候すればいい、雑用を手伝うと言えば親も文句は言わないと芽衣は請け合った。
就職した後も二人で部屋をシェアすれば、家賃や光熱費も安くあがるうえ、心細い思いをしなくてすむ。コスプレ衣装作りだって、今よりもずっとはかどる。
それに何より、きっと楽しい。
「強くなろう、なんて追い詰められる必要なんかあらへんわ。八花のせんなんは強くなることやない、幸せになることや」
きっぱりと言い切り、右手を差し出してきた。
「な、行こ。八花と一緒なら、うちは天下を取ってみせるで」
「芽衣……」
自信に満ちあふれた言葉は虹のように壮大で、あまりの感動に、一も二もなく手を取ってしまいそうになる。
が、ちょっと待ってほしい。
「……初めて聞いたけど、『コスプレの天下』って何?」
思わず冷静にツッコミを入れると、はた、と芽衣も我に返った顔になる。
「……何だろうね? えーと、まあ、つまりさ、『うおー、やるぞー!』ってことよ」
芽衣は照れたように笑い、手持ちぶさたそうな右手を引っこめた。
「唐突で、ごめん。返事はそのうちでいいから、よく考えといて。もちろん、OKって言ってくれるの、期待してるけど」
そのまま車止めの段差に足をかけ、ストレッチを始めた。
「用事が済むまで、暇つぶしして待ってる。双葉ちゃんを連れて帰るなら、車があったほうがいいでしょ?」
「うん。ありがと、助かる」
つくづく芽衣は頼りになる。手を振り、今度こそ校舎へと歩き出す。
親友の声が、励ますように背中を追いかけてきた。
「もし双葉ちゃんがユツギと行っちゃっても、八花は一人じゃないからね!」




