事件の推移 八 世界が滅びるということ
「もとは神人であったナギの奴が、強欲な山犬女の縄張りで、ただの人草として暮らしてこれたのはなぜだと思う」
八花は眉をひそめた。
「ナギさんが、クロミミ様とも何か取り引きをしたってこと?」
「そうだ。あの馬鹿、十枝とともに不吹村へ入るにあたって、己の血肉を山犬女に差し出したらしい。神人の知識は魂魄に宿り、能力は肉体に宿る。よって心身を食らうことは、その者の力を取り込むことに等しい」
ユツギの話によれば、ナギはクロミミ様に身体、つまり神人としての能力を譲渡すると申し出た。その見返りに、縄張り内への立ち入りを認めさせたという。
「奴がお前の前に姿を現したとき、すでにその身は仮初めのものだった。元の血肉の一部を素材とし、人草に似せた身体を創ったのだ」
人草としての寿命を全うした暁には、これも渡すと約束していたらしい。
ナギの死体が見つからないのは、クロミミ様に回収された後だからだ。
「……じゃあ本当に、いくら探しても発見されないんだ」
溜息をついたら、肺の中が空っぽになった。俯きそうになり、両手で額を押さえる。
「……勾玉を使ったら、生き返らせることってできる?」
「できるのなら、おれがとっくにやっている」
「ユツギにお願いすれば、世界を滅亡させることも可能だって聞いたけど」
「あいにく、滅ぼすほうが容易なのだ。しかも、天地の秤器が裁定してしまった後ではな……さすがのおれでも覆すことは難しい」
何となく、ユツギの声が優しい。
たぶん、こっちの心が弱くなっているせいだろう。
のろのろと顔を上げた。
資材置き場の裏には杉林が続いている。木立の向こうに見えるのは、妙に鮮やかな土の色。
気付けば立ちあがり、吸い寄せられるように杉林へと踏み込んでいた。
厚く積もった枯れ葉に足を取られながら斜面を下っていくと、やがて木立が途切れ、ロープの張られた場所に出た。
一面の緑に覆われている山並みが、この先のほうだけ薄い苔のように剥がれている。
病みついた獣が毛皮を掻きむしった跡みたいだ。
谷間に滑り落ちた土砂の周囲には、倒木に混じって動く何かがいた。オレンジやブルーの小さな点のようなもの。
その目立つ点々が、待機所にいた人たちの作業着の色だと気付いたとき、以前に閻魔堂で見かけた、とある絵のことを思い出した。
それは壁一面を覆うほどの大きなイラストレーションで、満開の花をつけた古木が、荒波の岩礁にたくましく根を張っている光景を描いたものだ。
けれど近づいてみると、古木に取り込まれるようにして描かれていたのは、ひしゃげたアスファルトや鉄塔の残骸、倒壊した建物などのミニチュア。目を凝らせば、小指の爪ほどの人のシルエットもあちこちに見える。
急な断崖のような木肌をよじ登ってゆく彼らと比べれば、古木の巨大さは目も眩むほど。
それでも果敢に挑んでいる姿は、むしろ悲壮で見ていられなかった。
無残な山崩れの景色の中で、オレンジやブルーの点々は、あまりにも小さい。
そっか。
ナギさん、死んじゃったんだ。
諦めのような納得が、ぽつんと胸に去来した。
こんな比べものにならないものに巻き込まれたら、助かるほうが奇跡なんだろう。
瞬きをして、こぼれそうになっていた涙をこらえた。
「……ヒノメが言ってたとおりだ。世界が滅びるなんて、けっこう簡単に起こるんだね」
どこまでも広がっていた豊かな大地が、自分の行く先だけ枯れ果ててしまったような錯覚。
どこへ向かって歩き出しても、どうせ荒野にしか行き着かない、そんな無力感。
思い出した。
十枝が死んでしまったときも、こんな感覚に取り憑かれたっけ。
「なあ、八花。悪いことは言わん、おれに双葉どのを引き取らせてくれ」
いつの間にか隣にユツギが立っていて、見下ろされているのを感じた。
身長は頭ひとつぶん以上も差があるから、うつむいてさえいれば、視線にさらされるのはつむじだけ。
「おれの見たところ、双葉どのは神人としての力を色濃く受け継いでいる。人草と比べて発育が遅いのは、持っている時間の種類が異なるからだ。成長の差は今後も大きくなるばかりだし、いずれ神人としての能力も覚醒する」
中途半端に情報の発達したこの時代では、他の者と違うことを隠して生きるのは難しいだろう。いつか必ず手に余るときがくる、と静かに語る。
「考えてもみろ」とユツギは、さらに続けた。
「双葉どのが成人するまでには、長い年月が必要だ。十年どころではない。五十年かもしれないし、百年かかるかも分からん。その間、お前がずっと面倒を見るのか?」
絶えず人目を忍びながら、自分の夢や人生をわきに置いたままで、生活のためだけに生きてゆくつもりなのか。
「肉親の縁に薄かったことは、確かに気の毒な巡り合わせだった。だが、お前はまだ若いのだ。お前の人草としての短い生は、お前自身のために使うべきだ」
ユツギは腰を落とし、小さな子どもにするように目線を合わせてきた。
「お前だけの道を見つけるんだ。そして幸せになれ。家族を売るようで気がとがめるなら、勾玉を使え。その善良な苦しさも、おれが双葉どのと一緒に連れていってやる」
ユツギの口振りには、約束を交わせば、期待以上に果たしてくれるだろうと思える誠実さがあった。
いったん目を合わせたけれど、瞬きして、また足元に落とす。
「……うん。きっと、そうなんだろうね」
たとえ双葉が普通の子どもだったとしても、まだ成人もしていない学生の自分が養っていこうなんて無謀な話なんだろう。
「ありがとう、気持ちは嬉しい。でも、ダメなんだ。……あたしね」
かすかな刺激に、頭上を仰いだ。手を伸ばせば触れられそうなほど低く垂れこめた雲から、透明な針のように雨が降ってくる。
「あたし、潮騒が聞こえるんだ。ナギさんがいなくなってから、気付くといつの間にか鳴ってるの」
その幻聴は、十枝を探して海辺を歩き回った幼い日々に、心の根っこに刻み込まれた。
あのころの自分は、分厚いガラスボトルの中で波間を漂っているようだった。
ぼやけた視界に色彩はなく、光も熱も感じない。
ただ波の音だけが、ひとりぼっちで過ごしたガラスボトルの中に、いつまでもいつまでも反響していた。
十枝が生還してからは、潮騒は一時的に鳴りやんだ。けれど、家族の誰かが病気になったり、ケガをしたりすると、また聞こえ始めるのだ。
あのガラスボトルの日々は終わったわけではなくて、何かのきっかけで簡単に戻ってくるのだと、そのたびに思い知らされた。
「行方不明だった母さんが戻ってきて、ナギさんも一緒で、それからすぐに双葉が生まれた。あたしたち家族は四人になった」
今にして思えば、その後の数年間は取り立てて特別なことは起こらなかったけれど、自分にとっていちばん幸せな時期だったと思う。
「でも、母さんが死んで、ナギさんもいなくなっちゃった。これで双葉まで連れていかれたら、あたしはまた一人になるんだ」
波に揺られるガラスボトルの中で、今度こそ潮騒にのまれて沈むかもしれない。
昨日、ユツギに告げた言葉。
『もしあの子が充分に分別のつく年齢で、本人がそう望むのなら無闇に反対なんかしない』
無意識に言ってしまったけれど、あれはたぶん嘘だった。
たとえば十年後で、双葉がそれなりの年齢だったとしても、きっと何のかんのと理由をつけて反対していたと思う。
天地の秤器とやらは、双葉の価値を勾玉三つ分と見積もった。
勾玉ひとつが命に等しいと聞いて、こっちの性格を良く理解しているなあって感心した。
あれは双葉のためなら三回ぶん命を懸けられる、なんて格好いい話とは違う。
またひとりぼっちになるくらいなら、三回だって死んだ方がまし、ってことだ。
こんなのエゴだって分かってる。だけど。
「あたしはあたしの幸せのために、一人にならなきゃいけないのかな……」
考えあぐねて呟くと、ユツギが虚を突かれたように目を丸くした。
世界を滅ぼせちゃう神様なのに、何その素直な反応。
「……すまない。無神経なことを言ったようだ……」
今までにない困りきった口ぶり。
そういうとこだぞ。
つい苦笑がもれて、強張っていた顔が少し緩んだのが分かる。
この神様がモテないのは、たぶん要領が悪いんだ。
「ユツギは交渉事に向かないね。普通、ここはもう一押しするでしょ」
大きな世話だ、とユツギがバツの悪そうな顔で舌打ちをした。
※ ※ ※
テントへ戻る途中で梅園を見かけた。
いよいよ本降りとなった雨の中、木立の下で雨宿りしながら、まだスーツの上司と話をしていた。
会話をしているというより、上司が一方的にしゃべり続けている感じ。
梅園は俯き加減に聞き入り、何度も頭を下げている。
まるで相づちの代わりに頭を下げるのが心得だと言わんばかりで、見ていて心が濡れ細っていくようだった。
この山崩れで、きっと会社も大変なんだ。
復旧には費用が掛かるだろうし、工期も遅れる。開発自体が中止になるかもしれない。
天災は仕方ないにしても、せめて人命が絡まなければ、もっと話は単純だったろう。
あちらにとって、ナギは急所に打ち込まれた杭のようなものだ。最終的に、梅園は何らかの形で責任を負わされるのかもしれない。
……せめて、ナギの遺体は見つからないってこと、知らせたほうがいいのかな。
このままでは彼らの負担は計り知れないし、大勢の人たちが危険な作業を続けなければならなくなる。
でも、どんなふうに伝えたらいいか分からない。
なぜ見つからないかを説明できる気もしない。
気持ちが悪くなるくらいにぐるぐると悩んだまま、藤巻のところへと戻る。
いくつかの質問に答え、その後は何枚もの書類に名前を書かされた。
話の中で、ナギの着衣が不自然に発見されたからには、逆に土砂崩れに巻き込まれずに下山した可能性もある、と励まされた。
けれど、そうなると何らかの理由で失踪したことになるわけで、それはそれで問題だ。はっとした藤巻も、また気まずそうな顔をしていた。
気を遣わせてすみません。いい人だけど、失言は多そう。
※ ※ ※
お昼ちかくにようやく解放され、再び梅園の運転で駅へと戻る。
秘密を抱えたままでの一対一の車内は、針のムシロも同然だった。
さらに口の重くなったこちらをいたわり、行きのとき以上にあれこれ話しかけてくるのが余計につらい。
一緒にランチをと誘われ、自宅まで送るとさえ言ってくれたが、丁重に辞退させてもらった。これ以上そばにいたら、きっと不用意なことを口走ってしまう。
「本当にごめんなさい。何かあれば連絡してくださいね。必ず力になりますから」
曇天の下、梅園のワゴン車が駅前のロータリーを走り去る。
帰りの切符を買おうと券売機へ向かったところで、ついに限界がきた。
かろうじて端に寄ると、壁に手をついてしゃがみこみ、胃が裏返るかと思うほど嘔吐する。
朝食も喉を通らなかったので、幸か不幸か、えづいても汁しか出てこない。
……ははははは。
もうね。この弱りっぷり、笑えてきちゃう。
空腹、寝不足、ストレス、漠然とした今後への不安と、ひどい山道に揺られた車酔い。どれが原因やら分からん。
「おい、八花。どうした!」
うずくまって呼吸を整えていると、慌てふためいたユツギの声が聞こえた。
少し遅れて、別の誰かの声も。
「――お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
顔を上げると、すぐ横で、見知らぬ男が腰をかがめて見下ろしていた。




