事件の推移 七 消失
翌朝の曇った土曜日。
八花は大学を休むことにして、双葉とともに自宅を出る。
通学路を並んで歩きながら、授業が終わったら公民館ではなく芽衣の家へ行くよう言い聞かせた。留守のあいだ預かってもらえるよう、昨日のうちに連絡ずみだ。
「わかった。はーちゃ、いってらっしゃい」
手を振り合って駅へと向かい、電車に乗った。
車での移動が当たり前の不吹村では、まだ運転のできない学生か、もう免許を返却したお年寄りくらいしか鉄道を使わない。
一時間に一本きりの単線運行。朝と夕方に本数が増える程度のローカル線だ。
ちょうど通勤や通学の時間だが、週末なせいか、市街地と逆方向のためか、同じ車両に乗客はいない。
昨日も一昨日もあまりよく眠れなかった。
切符を握ってシートにもたれ、ディーゼルのエンジン音を子守歌がわりに目を閉じる。嫌な想像ばかりが頭に浮かんで、うとうとともできないのがつらかった。
一時間ほど電車に揺られ、執着駅で降車する。
ホームの先にはユツギが佇んでいた。後をついてくるつもりらしいが、近づいてはこないようだ。
たぶん、昨日もこんなふうに行動を監視されていたのだろう。双葉のストーカーをされるよりマシだと思えば、お好きにどうぞと言うしかない。
改札を出ると小さなロータリーがあった。
一台だけ停まっていた白いワゴン車には、車体に『旗臣建設』の文字と、旗を模したロゴマーク。
そばには細身のパンツスーツの女性が立っている。
向こうもこちらに気付き、小走りにやってきた。
「周防さんのお嬢さんですよね。おはようございます、梅園です」
電話の声が若いと思っていたけれど、本当に若い。新卒後まだ一、二年という感じだ。
ついでに、普段は服装ばかりに目がいく自分でも気付くくらいの美人だった。
建設会社という、どちらかといえば男くさい職場で、広報とはいえ、こんなに若くて可憐な女性が働いているというのがとても意外だ。
梅園は年下のこちらに対して、もったいないくらい深く頭を下げた。
「この度は、お父様を大変な出来事に巻き込んでしまったかもしれず、真に申し訳なく感じております。……あのう、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
質問の意味を計りかねていると、梅園が眉を柔らかなハの字にした。
「その、お顔の色が優れないようですので……」
顔立ちが儚げなせいか、こういう困った表情がやけによく似合う。
「あちらは昼から雨の予報です。足元が悪くならないうちに参りましょうか」
ワゴン車のドアを開けてもらい、後部座席に乗り込んだ。
丁寧な運転でロータリーを回り、駅を出る。
商店街を抜けると町並みが終わり、左右に広がったのは果樹の畑。景観は異なるものの、不吹村と似たり寄ったりの人口密度らしい。
後ろの荷室に積んであるのは、使い込んだ脚立やら台車やら、ペンキの飛び散った三角コーンやら。途中で舗装が悪くなってからは、始終ガタガタと鳴り続けている。
「ごめんなさい、うるさいですよね。これから山道になりますから、何かあれば遠慮なくおっしゃってください。ところで、警察からも連絡が入りましたか?」
運転しながら、あれこれと梅園が声をかけてきた。こちらが黙り込んでいるので、気を遣ってくれたのかもしれない。
話してみると可愛らしい雰囲気もあって、ちょっと小型犬にも似ているな、とぼんやり思った。豆柴、いやチワワか。
警察署からの連絡は、梅園との電話のすぐ後にあった。
両者から聞かされた話を総合すると、ナギの衣服が見つかったのは、これから向かう山中の造成地。
そこでは一昨日、何日も降り続いた雨により土砂崩れが発生したらしい。
梅園が最初に連絡をしてきたときに言っていた、社内が混乱していた別件というのが、このことだ。
幸いにも夜間の出来事であり、作業員たちも突然の強雨で明るいうちから下山していたため、当初は物損以外の被害はないものと考えられていた。
ところが昨日になって、調査に同行していた旗臣建設の作業員が、土砂に押しつぶされたプレハブ小屋の残骸から部外者のものとみられる着衣を発見する。
それが取材に訪れたナギの衣服に似ていて、しかもナギは行方不明中。
よって、土砂崩れに巻き込まれた可能性もあるとして捜索が始まり、周防家にも連絡がきた、という経緯のようだ。
数年後には瀟洒な別荘が建ち並ぶはずのその造成地は、旗臣建設が市の承認を得て山林を切り開き始めたばかり。
今回、ナギが依頼されたのも、別荘地の広告やパンフレットに使うイメージイラストを描く仕事だった。
出がけに旗臣建設のホームページを斜め読みしたところ、規模はさほどでもないが業界の老舗で、『地元の発展を理念に掲げ、地域密着型の業務を行っている』らしい。
なぜナギに依頼が来たのか不思議だったけれど、村の四季を描き続ける画家は、そういう企業コンセプトにぴったりだと思われたのだろう。
事故の当日、ナギは午前中のうちに別荘予定地を訪れ、付近の景観をスケッチして回った。
荒天の訪れのために早々に切り上げたのを、車で旅館まで送り届けたのは付き添いの梅園だ。いったん部屋に戻った点は旅館の人も確認しているらしい。
けれど、以後の消息が不明なことは、先日の電話で聞いたとおり。
ナギは何らかの事情で工事現場に取って返し、不運にも土砂崩れに遭遇したのではないか――そんな仮定のもとに捜索が進められているそうだ。
※ ※ ※
車窓の景色は、次第に深い山並みへと変わっていった。
トンネルと急なカーブが何度となく続き、右に左に断崖が現れる。梅園の話では、天気さえ良好なら眺望は素晴らしいそうだ。
出発から小一時間。梅園が車を停めたのは、林道の待避所だった。
実際の土砂崩れ現場はもっと谷寄りで、この辺りは高台なので安心していいという。
「いちおう規則ですので、着用をお願いできますか?」
ヘルメットを手渡された。
ついでに長靴も貸してくれたのは、ぬかるみで汚れるから、だそうだ。
同じように履き替えた梅園に続いて、徒歩でアスファルトの山道を登る。
ひんやりと湿った山の空気は、薬品の混ざったような何とも言えない土の臭いに満ちていた。
山深い緑を見回しながら、ナギはどうやってここに戻ったのだろうと、ふと思う。
車の運転はできないはずだし、バスなども通っていないように見える。歩いて、というのも難しそうだ。タクシーでも使ったのか、誰かに連れてきてもらったか。
警察にかかれば、そのあたりの足跡もはっきりするのだろうか。
ほどなく、山の中にぽっかりと開けた空き地にたどり着いた。たぶん、作業員の待機所のようなところなのだろう。
発電機らしきモーター音が響く中、雨合羽のような作業服に身を包んだ消防隊員や工事関係者たちが、トラックや重機のあいだを行き交っている。
スーツ姿の梅園はともかく、私服の八花は明らかに場違いだ。
いかにも急造したという感じのプレハブ小屋の近くには、ブルーシートに囲まれたテントがあり、そのテントが目的地だった。
「どうぞ」と梅園に促されてブルーシートの垂れ幕をくぐる。
テントの中には会議室にあるような長い机が置かれ、樽のような胴回りの大柄な男性が待っていた。体格との比較で、頭に乗ったヘルメットが小さく見える。
「藤巻です」
名乗りながら、その小さなヘルメットのひさしをちょっと持ち上げた。
電話をくれた警察の人だ。
「すみません、遠くからお越しいただいて」
八花は首を振り、頭を下げた。
訪問の目的は、本当にナギの衣服かどうか確認すること。
警察署でも済ませられるそれを、現地を自分の目で確かめたいから、という理由でわがままを言わせてもらったのはこちらだ。
簡単に身元を確認した後、藤巻は奥に積んであったコンテナケースを机に並べた。
身を乗り出して中をのぞき込むと、強い土の臭いが喉にからむ。
入っていたのは、泥水で茶色に染まった衣服の数々。
「お父さんの着ていたもので間違いない?」
唇を噛んで頷いた。
このクラシカルなスタイルのジャケットは、確かにナギのもの。十枝が最後に仕立てた一着で、仕事に出掛けるとき、よく好んで着ていった。
「……周防さん、見つかったんですか?」
梅園は青い顔で唇に拳を当てている。
「こんなにいろいろ発見したのならと、そう思うでしょう? ですが、残念ながら。……どうにも状況が不可解でして」
手元のバインダーに何やら書き込んでいた藤巻は、ボールペンでコンテナの縁をこつこつと叩いた。
「ご覧のように、人ひとり分の着衣がすべて残っています。上着からシャツからズボンから。それこそ靴下や靴、下着まで。ですが、これらは崩落の衝撃で脱げたとは考えにくいわけでして」
八花は同じコンテナに入っていたスマホに手を伸ばした。
液晶画面の泥を指でぬぐい、電源ボタンを押してみる。けれど、もう光は灯らないみたいだ。
「……つまり、周防さんが脱いでおいたと?」
「用意していた別の服に着替えたのかもしれません。そうでなければ、裸でどこかへ行こうとしたことになっちゃいますから」
藤巻は軽い冗談のつもりだったのだろう。
けれどその一言で、八花は頭の天辺から冷えてゆくような心地を味わった。
――ひょっとして、ナギさんが見つからないのは……。
「ああ、すみません」
こちらの動揺を違う意味に受け取ったらしく、藤巻が気まずげに咳払いをした。
「さすがに不謹慎でした。大丈夫ですか?」
顔をのぞき込まれ、八花はスマホをコンテナに戻した。
「――手を」
「はい?」
「手を、洗ってきてもいいですか」
べっとりと泥のついた指を広げてみせる。
「ああ……ええ、それは、もちろん」
藤巻は怪訝そうな顔をしつつも、ボールペンで裏手を示した。
「奥のプレハブ小屋の向こうが資材置き場でして、そこに水道がありますので」
八花が足早にテントを出ると、梅園も一緒についてきた。
「私、場所を知っています。ご案内しますよ」
大丈夫だと首を振ってみせると、痛ましげに眉を下げられた。
「ご一緒させてください。ごめんなさい、八花さんのことが心配なんです」
ちょうどそのとき、横柄に梅園を呼ぶ声があった。スーツにヘルメットという格好の男性だ。
おそらく上司なのだろう、重機の陰で、ちょっと来い、というように親指を立てる。
梅園は迷う様子だったが、向こうを優先したらしい。
「すぐに後から追いかけますので」
申し訳なさそうに告げ、上司のほうへと向かっていった。
※ ※ ※
梅園が行ってくれて助かった。
資材置き場に駆け込んだ八花は、水道を見つけて蛇口をひねった。
貯水用のタンクにシンクをつけただけの代物だが、水が出るなら何でもいい。
置いてあった石けんでしつこく手を洗う。
濃密な泥の匂いが、ヘドロのように身体にへばりついていた。
代掻きしたばかりの田んぼの臭いも大変なものだが、それとはまた違った種類の土臭さだ。
のどに強く絡みつき、息を吸うたびに気道を詰まらせる――吐き気がする。
ヘルメットをむしり取り、何度も口をゆすいで吐き捨てた。シンクに頭を突っ込むようにして顔もごしごし洗い、ようやく少しだけ楽になる。
顎にしたたる水を手の甲で拭い、細かく息を吐き出した。
まるで全力疾走した後みたいに、なかなか呼吸が整わない。
でも、梅園が来てしまう前に、これだけは確認しておかないと。
「ユツギ、いるよね」
呼びかけると、すぐに「ここだ」と返事があった。
プレハブ小屋の屋根の上にあぐらをかき、頬杖をついてこちらを見下ろしていた。
「さっきのあれ、どういうこと」
脇に転がっていたコンクリートブロックに腰掛け、ハンカチを顔に押し当てた。
「ナギさんは着替えたわけじゃないんでしょう? 服だけ残してどこかに消えた」
ユツギが最初にナギの死を主張したとき、確か『肉体も魂魄も行方不明で』と言っていた。それで意思の疎通も取れなかったのだと。
「ナギさんの身体が消えたのはなぜ? もしかして、本当は人間じゃなかったことと何か関係ある?」
まあな、とユツギが億劫そうに髪をかき上げた。




