事件の推移 五 血縁
八花が家にたどり着いたとき、双葉はまだ帰宅していなかった。
今日も買い物してくるのを忘れてしまった。
荷物を部屋に放り込みながら溜息をつく。また今あるもので夕食にするしかない。
「さて、何を作ろうか……」
冷蔵庫をのぞいたけれど、ちっとも頭が働かない。キッチンの椅子に腰掛け、ぼうっとしてしまう。
壁に作り付けの棚には、丸二日も使われていないナギの茶碗と箸。北向きの窓から差し込む日差しに、ほんのり輪郭が光っている。
布巾を掛けておかないと埃が積もっちゃうな……などと考えていると、玄関の開く音が聞こえ、「ただいま」と双葉の声がした。
いつの間にか薄く宵闇が降りていて、慌てて立ち上がって明かりをつけた。
「おかえり、ふーちゃん」
振り返って、ぎょっとする。
キッチンに入ってきた双葉は、床に水たまりを作るほどの濡れ鼠だった。
「ちょ……ふーちゃん何で濡れてんの。あああ待って、歩き回らないでええ」
「おちた。かわに」
「川? 川で遊んでたの? ケガは、って、うわ。ランドセルの中まで水浸し」
双葉から荷物を奪い、バンザイさせて服をはぎ取った。
「こっちは片付けとく。先にシャワー浴びといで」
風呂場に追いやり、濡れた服を洗濯機に突っ込んで、ランドセルから教科書やらプリント類やらを救出した。
テーブルに広げてタオルを押し当てたが、どれもたっぷりと水を吸っている。乾いてヨレヨレになる未来が目に浮かぶようだ。
無残な。まだ一学期なのに、どうすんのこれ。
最後に床の水たまりを拭いていると、こんこん、と聞こえた控えめなノック。
キッチンの隅にある勝手口だ。裏庭に通じているが、ゴミを出すときに使うくらいで、誰かが訪ねてくるような場所ではない。
警戒しながら細めに戸を開く。
「なんだ、誰かと思ったら」
「お忙しいところ、お邪魔をして申し訳ございませぬ」
くノ一姿のヒノメが、裏庭の柵越しに会釈した。
敷地に入るなって言葉を律儀に守っているんだろうけど、今ノックしたよね?
そこからだと手が届かなくない?
「実は表口に客人がいらっしゃっておりますので、一つお知らせをと思いまして」
「え。ほんとに?」
いつチャイムを聞き逃したんだろ。
教えてくれた礼を言い、勝手口を閉めて玄関へと急ぐ。
「はーい、お待たせしました」
声をかけながら戸を開けると、外にいたスーツ姿の男性が、今まさにドアホンを押そうとしていたところだ。
ヒノメの完全なるフライング。どうりでチャイムが聞こえなかったはずだ。
男が顔をしかめているのは、おとないをする前に出てこられて驚いたせいだろう。
だけど、こっちだって息をのむほど驚いた。
「……ゆ、柚比良さん」
目が泳ぎそうになるのを、ぐっとこらえる。ケンカは先に視線を外したほうの負けだ。
死に別れた十枝の夫の、腹違いの兄。
八花にとっての義理の伯父だ。
玄関くらいはくぐらせるけれど、家の中に上げたりはしない。
言外にそう告げるつもりで廊下に正座する。
向こうも上がり込むつもりまではないらしく、ジャケットのボタンを外して、上がりかまちに腰を下ろした。
「……なんだ、その、大きくなったな」
仏頂面からもれた低い呟きが、しんとした廊下に余韻を残す。
父と伯父は親子ほども年が違ったから、もう初老といっていい年齢だ。
顔を合わせた数なんて片手の指で足りる。最後に会ったのは小学生のころ。祖父の付き添いとして、十枝を尋ねて押しかけてきた。
ひとめ見てすぐに誰だか分かったのは、簡単に忘れられないくらい印象が悪かったせいだ。
十枝の葬式のときは弁護士が香典を持ってきたので、会わずにすんで、ほっとしたのだが。
「今日はあの男はどうした」
「ナギさんのことなら、今は仕事で外出しています」
「ああ。どこの馬の骨とも分からんと思っていたが、ようやく芽が出始めたとは聞いている」
父の実家の身辺調査は、ナギにまで及んでいるらしい。
「娘のほうは家にいるのか?」
「今日のご用件をお聞かせ願えますか」
取り合わずに質問を返すと、柚比良は不機嫌そうに眉根を寄せた。
そんなちょっとした表情や姿勢の良い背格好は、記憶の中の祖父とよく似ている。
「たまたま近くに用事があった。姪に会いに寄るくらい構わんだろう」
……へえ。たまたま?
膝の上で拳を握る。
その言葉が本当だとしたら、不運の星はまだ頭上にいるのだろう。
父の実家である柚比良家は、過去には代議士を輩出したこともある名家だ。地元である隣県では、知る人ぞ知る一族だという。
その一族の長であった祖父と、妾のあいだに生まれたのが八花の父。
二一世紀にもなって時代錯誤もはなはだしいとは思うけれど、悪習は今もあるところにはあるそうで、いわゆる日陰の子という立場だったようだ。
にもかかわらず、祖父は遅くにできた息子をひどく可愛がっていて、露骨に贔屓された父は、かえって居心地が悪かったらしい。母親が亡くなっていたこともあり、早くに実家を飛び出した。
そうして十枝と出会い、駆け落ち同然に籍を入れたそうだ。
柚比良の祖父は人を雇って居所を突き止め、あの手この手で、息子を奪った十枝と別れさせようとしたらしい。
父は事故で死亡したし、祖父も何年か前に亡くなった。すでに十枝もこの世にいない。
なのにいまだに向こうの家が接触してくるのは、八花に柚比良の血が混じっているからだ。
その理屈を理解することはできる。
でも、血統なんかに何の意味があるんだろう。
「先日、あの男の娘を見かけた」
ぼそりとした呟きに顔を上げる。
「小学生だとしても、ずいぶん小さいな。聞けば、好き嫌いが激しく、給食もほとんど残しとるそうじゃないか」
『聞けば』って何だ。双葉の学校での生活態度まで調べさせたのか?
思わぬ悪態が飛び出しそうで、口を開く前に深呼吸をした。
「好き嫌いではなく、体質の問題です。給食を残している件は、学校とも相談して対応してもらっています」
かろうじて生の魚が食べられるくらいで、肉が駄目、卵も駄目。幸いにも野菜は大好きだけど、動物性タンパク質は全滅と言っていい。少しでも使われていると口にしないし、無理に食べさせると吐いてしまう。ナギも同じだから、たぶん遺伝なのだろう。
「成長が遅いのは、その、小食で……」
声が弱くなってしまったのは、我ながら不甲斐ないと思っているからだ。
野菜しか食べられないのだとしても、工夫次第で成長に必要な栄養素を摂取させることはできる。
スマホひとつで為になる情報が手に入るし、レシピ検索だって簡単だ。
だけど――分かっていても、できない。
ずっと毎日は続けられない。
食事のたびに料理が残される光景には、いまだに慣れないし、すぐ凹む。
不器用で足りないところのある自分は、『しょうがないなあ』『もう少し頑張ろう』では乗り越えられない限界があることも、また知っていた。
「学校といえば、あの娘はいじめを受けとるらしいな」
ふいに告げられた一言に、ぽかんとする。
いじめられてる? 誰が。双葉が?
「知らなかったのか」と柚比良が鼻を鳴らす。
……考えたこともなかった。
ナギに似た極上の美少女だ。いじめる奴がいるなんて、思うわけない……。
柚比良が言うには、兆候は小学校に入学した当初からあったらしい。
今はまだ持ち物を隠されたり、派手にからかわれたりという他愛ない悪戯がほとんどだという。
「だが、こうした出来事は心身の成長につれてエスカレートするものだ。いちばんの問題は、これを身内が把握していない点だろう。きちんと目が届いとらんようだな」
「す、すみません。至らなくて……」
まっとうな意見で、さすがに顔が上げられない。
双葉の様子を思い返してみても、特に変わったところはなかったと思う。いつものように口数が少なく、気持ちを読み取ることが難しい。
けれど、他とは少しばかり異なる個性を持つ子どもは、学校という集団生活に適応しづらいかもしれない、ということは想像できる。
いじめられていたのだとしたら、なぜ双葉は何も言ってくれなかったのだろう。
言ってもどうにもならないと思った?
それとも、ナギには打ち明けた?
「謝らんでいい。食事のしつけもそうだが、お前に母親代わりは荷が重すぎるようだ」
遠慮のない言葉に胸をえぐられて、すうっと手足が冷たくなった。
この感覚を十枝も味わっただろうか。
かつて十枝も、祖父に同じような言葉をぶつけられた。八花の足りないところを攻撃し、親としての至らなさをあげつらって、養育権を取り上げようとしていたのだ。
「いや、お前に言っても詮ないことだな。あの男はいつ帰ってくる?」
「それ、は……」
両手で指を握り合わせ、震えだしそうになるのを必死でこらえた。
いつ帰ってくるか分からない。
本当に帰って来るかも分からない。
けれど、たとえ口をつぐんでいても、調べれば行方不明だなんて簡単に知りうることだ。時間が経てば経つほど隠しおおせなくなるだろう。
事実が明るみになったとき、おそらく柚比良の家は黙っていない。
なにしろ、こっちはまだ未成年。向こうは素性のしっかりした大人なうえに、れっきとした血縁関係にあたる。
お抱えの弁護士に出てこられたら、いいように立場をもてあそばれてしまう。
生活や進路のことならまだいいが、双葉についても口を出してくるかもしれない。
柚比良の家には、あの子を養ってやる理由なんかないのだから。
……まずい。何も考えが浮かばない。
とりあえず今日のところは帰ってもらわないと。
「ナギさんは出張中なんです。戻ってきたら連絡を――」
ふいに横から白いものが伸びてきて、そっと八花の唇に触れた。
柔らかなフォルムの人差し指。
指先で口を塞がれたまま視線を向ける。手首から腕をたどり、その先に至ると、微笑みをたたえたヒノメと目が合った。
「たびたびお邪魔をしまして申し訳ございませぬ」
あれ。
ヒノメが家の中にいる。
勝手に入ってこないんじゃなかったの?
こんな距離まで、いつ近づいた?
問い詰めようにも声が出なかった。
指一本で押さえられているだけなのに、糊づけされたように口が開かない。ついでに手や足まで固まってしまったみたいだ。
忍者装束の少女の登場に、柚比良は目を丸くしていた。
「何者だ、君は――」
ヒノメがもう片方の腕を伸ばす。柚比良の両目を覆ったとたん、ぴたりと声が止まった。たぶん、同じように動けなくなっているのだろう。
時間まで静止したような玄関先の静寂に、シャワーの水音が、かすかに響く。
「八花さまにおいては、ひどくお困りのご様子。僭越ながら、お力添えを」
ヒノメが唇から指を放した。
やんわりと押すようにして柚比良からも手を放すと、伯父の身体は支えを失ったように傾き、靴箱にもたれて止まる。
そうしてヒノメの空いた両手には、布の包みが載っていた。
恭しい手つきで開かれると、現れたのは三色の勾玉。
怖いような微笑みを浮かべるヒノメの手の上で、かちりと硬い音を立てた。




