事件の推移 一 そうして一夜が明けまして
うなされて目覚めた翌朝の金曜日。
身支度をすませて朝食の用意をしていると、大家のおばさんが犬の散歩がてらに訪ねてきた。
「そういえば、今度この借家を取り壊そうと思ってるの」
提げていたビニール袋から野性みのあるキュウリを出しつつ、投下してきたのは眠気も吹き飛ぶ爆弾発言。
「今年の初物ですって。おすそ分けするわね」
呆然としていた八花は、渡されるままにキュウリを受けとった。
「じ、事情をお聞きしても?」
「さっきそこで、知り合いの方にいただいたの。この方のお育てになる野菜、形に難はあるけれど、とっても美味しいのよ。ぜひナギ様にも召しあがっていただこうと思って」
「いえあの、取り壊しのほうで」
大家さんは天然だ。土地持ちの旦那さんを早くに亡くし、そろそろ六〇歳に届くそうだが、外見も気持ちも、ぽやぽやとお若い。
「あらあら、その話ね。急だけれど、私、引っ越すことにしたの。娘夫婦にね、初孫が産まれて。しかも双子なのよー」
きゃー言っちゃった、と大家さんは頬に両手を添えた。
ぽやぽやした話を根気強く聞き解いたところ、乞われて娘さん夫婦のいる隣県へ移ることに決めたそうだ。それで不動産屋に日常業務の委託を頼んだ際、『これを機会に借家を取り壊し、単身者用のアパートに建て替えてはどうか』と勧められたという。
近年は市街地の開発ぶりが目覚ましく、今はこの辺りも通勤圏内らしい。
「本当は貸主から話をするのはよくないみたいなのだけど、周防さんにも都合があるでしょうし、きちんと伝えないと申し訳ないと思って」
もし良ければ建て替え後の優先的な入居を約束する、引っ越し費用もある程度は負担するから、といろいろ提案してくれた。
「いきなりで本当にごめんなさいね。ナギ様と今後のことを相談してみてくれる?」
相談したいけど、ナギからの連絡はないままだ。
「……分かりました。あ、お孫さんのお誕生おめでとうございます」
外で犬が激しく吠え始めた。
「あらあら、ジョンだわ。どうしたのかしら」
大家さんが首をかしげて外へ出ていくと、「おはようございまーす!」と、はつらつとした挨拶が聞こえてきた。
まさか……!
慌てて後を追いかけると、家の前の道路でヒノメが竹ぼうきを使っていた。
今朝は忍者ではなく、用務員さんみたいなツナギに帽子という格好だ。少し離れたところにはトングとビニール袋を持った若い男のほう――クナシもいて、黙々とゴミを拾っている。
意外にまともな服装で、ほっとしたけれど、人外のくせに堂々と人前に出るとかどういうこと。
「あらあら、おはよう。朝から精が出るわね。もしかして、不動産屋さんが手配してくれた清掃アルバイトの方かしら」
にこにこ話しかける大家さん。
「はい、そうです。奥様、こちらこそよろしくお願いいたします」
ヒノメは勤労少女っぽく返事をしたけれど、たぶんそれ嘘だよね。
そんな会話の間にも、ジョンはすごい剣幕で吠えている。
知的な猟犬といった佇まいの、白地にブチのポインター。甘えん坊の三歳だが、きちんと躾けられており、普段なら他の犬に吠えられたって見向きもしない。
けれど今は、門扉に繋いだリードがくい込むのも構わず、身を乗り出してヒノメたちを威嚇している。まるで熊でも見つけたみたいだ。
メッ、と大家さんが腰に両手を当てた。
「ジョンったら。いいコだから、うるさくしないの」
「――黙らぬならば、食ろうてしまおうか」
ふいに放たれた低い呟き声。ひゃんっとジョンが甲高く鳴き、リードの限界まで飛びのく。
だけど、大家さんには不穏な呟きは聞こえなかったらしい。やだもう、と困り顔で門扉からリードを外し、震えの止まらないジョンの背中をなでた。
「ちょっと叱ったくらいで尻尾を丸めちゃうんだもの。ごめんなさいね、うちのコったら、はしゃいじゃって」
ジョンを見下ろすヒノメは、微笑ましげな顔だけど。
「いえいえ。毛並みも色艶よく、実に美味そうなワンちゃんでございますね」
「あら」大家さんは口元に手を添えた。「うふふ、ユーモアのある方ね」
天然にもほどがあるけれど、これは知らぬが仏ってやつだ。
「今後ともよろしくお願いね。では八花さん、ごきげんよう」
逃亡するジョンに半ば引きずられながら、大家さんは朗らかに帰っていった。
ジョンと大家さんが見えなくなってから、八花はヒノメとクナシをにらみつけた。
「あたし、言ったよね。もう二度と来るなって」
「はい。ですから無断でお邪魔したりはしておりませんでしょう?」
ほらほら、というようにヒノメが足元を指す。確かに敷地には踏み込んでいない。
「ご迷惑をおかけするつもりはありません。配下の者をご自宅のまわりに配置することをお許し願えませんか。八花さまがいないあいだは双葉姫が一人きりになってしまいます。警護の者が必要かと存じますが」
「そんな大げさな。双葉だって一人で留守番くらいできるよ」
むしろ警戒対象は、そっちのご主人さまだからね?
「そういえば、二人とも何者なわけ?」
持ったままだったキュウリを鉛筆回しの要領でくるりとした。地味にトゲトゲが痛くて、まさしく美味しいキュウリに違いない。
「ええと、何て言ったっけ。何とかワニの……」
「八尋和迩。ユツギ様にお仕えする眷族でございます。どうぞ、ヒノメ、クナシ、とお呼び捨てください」
大輪の花束みたいな華やかな笑顔。だけど、案外くわせ者だって分かってみれば、男のほうと同じで黒目が黒すぎて怖い。
「和迩とは我々の種族名を差す古き言葉。そして八尋というのは――」
ヒノメが竹ぼうきの柄でクナシを示した。
「あれの背丈がちょうど一尋。八尋とは、あれの八倍という意味でして」
心なしか自慢げな口ぶりだ。
八尋というのは、ヒノメたちにとってはずいぶん名誉な称号らしい。
「つまり、あの八倍の身長があるってこと?」
クナシの背の高さを目算する。180cmってところ。
180×8=1440cm。だいたい十五mか。
……五階建てのビルくらい?
「いずれ披露の機会もございましょう。それとも、今ご覧にいれたほうが――」
「いや、お気持ちだけで!」
全力で遠慮させていただいた。ジョンが逃げたのは、きっと動物の勘とやらで身の危険を察知したせいだ。絶対に知らないほうがいい。
ふと視線を感じて振り向くと、道端にしゃがんだクナシと目が合った。
とたんにその手に現れる、ギラリと光る何本もの短刀。
うららかな日和の朝なのに、どうしてうちの家だけ治安が悪いのか。
「申し訳ございません。実はクナシの奴、まだ一尋であったころ、人草どもに殺されかけた経験があるそうでして」
たいして申し訳なさそうでもなくヒノメが言う。
「それゆえ、たいていの相手は問答無用で襲います。決して八花さまだけが憎いわけではございません」
「待って。そんな奴にうろうろされたら普通に警察沙汰なんだけど」
「あれは本当に乱暴者ですが、双葉姫には一目置いております。八花さまに対しても、我が君の御前であれば噛みつきませぬゆえ、ご安心を」
「あたしと双葉以外の安心も保証してよ。ていうか、ユツギの見てないところでも噛まないように言って」
ジョンより躾がなってない!
からからと玄関戸が開き、双葉が眠そうな顔でやってきた。
八花は慌てて駆け寄り、寝癖つきの髪をなでつけてやる。
「もう出かける時間か。ごめん、今日は髪の毛を結んであげられなかったね。緑のやつ、もらったよ。一本、持っていきな」
双葉は渡されたキュウリを見つめ、こくりと頷いて歩き出した。
「忘れ物ないよね。いってらっしゃい、気をつけて」
こくり。小柄な身体にランドセルを背負って登校する姿は、いつ見ても、重すぎるバッテリーを担いだ健気な歩行ロボットに似てる。
「そういえば八花さま、こちらは拾い集めておきましたので」
どうぞ、とヒノメが両手のひらを揃えて差し出した。布に包まれて載っているのは、三つの勾玉だ。
無断でお邪魔しないと言っといて、勝手に庭で探したとか……。
「せっかくで悪いけど、こんなもの必要ないし」
「そう申されましても、これらは八花さまのために天地の秤器が創造した代物。八花さまにしか使用できない品でございますので」
どうにか受け取らせようとするヒノメの手を、「いらないって」と押し戻した。
「だいたいさ、願い事なら何でも叶えるって、うさんくさいよね」
「おやおや、これは異なことをおっしゃる」
不本意げなヒノメに、ずばりキュウリを突きつけた。
「じゃあ聞くけど、あたしが『地球の支配者になりたい』とか、『世界を破滅させたい』とか言っても叶えてくれるんだ?」
「無論でございますとも」
「そんなの信用できないな。だって世界が滅んだら神様たちも困るでしょう?」
「いいえ、まったく。神域とこちらの常世とは位相が違いますので」
え、何も困らないっぽい……?
「厳密に申しますと、この場合の『世界の滅亡』とは、望みの主体である八花さまの認知の限界、つまりヒトの世の範囲に収まります。このレベルの崩壊でしたら、わたくしが知りうるだけでも何度か――」
慌てて耳を塞ぎ、わーわーと叫んでヒノメの声をうち消した。
何しれっと怖いこと言ってんだ。
「お手を汚さずに滅ぼす方法もございますよ。よろしければ相談にのりますが」
「分かったから。変なこと聞いて悪かったから!」
こちとら生まれてこのかた小市民なんだよ。世界の破滅を願う理由なんかないっての。
ヒノメが喉を鳴らして笑った。
「ほんの冗談でございますよ。天地の秤器は、邪悪な願いを宿す者に稀なる勾玉を与えませぬ。ええ、己の野心のほかに、命と引き換えられるほどの大切なものを持ちえぬ輩には……ね」
その眼差しの先で、三つの勾玉が宝石のようにきらめいている。
「ともあれ、そうまで仰るのであれば、八花さまがお使いになるときまで、わたくしがお預かりいたしましょう」
「だから、そんなの使わないって」
言い捨てて家に引き返した。そろそろこっちもタイムリミットだ。
キュウリを冷蔵庫にしまおうとキッチンに入り、テーブルに残っていた朝食を見て、むっとする。だけど、それもいつもの話だ。
手早く皿を片付け、通学用のバッグと裁縫トランクを抱えて玄関を飛び出した。
「とにかく、あたしは人身売買みたいな取り引きはしないし、ナギさんが死んだなんてことも信じてない。ご主人様にも、よくよく言っといて」
スニーカーに踵を押し込みながらヒノメに念を押す。
「ははあ。我が君の怒り狂うお顔が目に浮かぶようで、想像するだに恐ろしゅうございますなあ。八花さまから直にお伝え願えませんか」
ヒノメが面白そうに小首をかしげ、道の先を指した。
そこには、道端でキュウリをかじっている双葉と、しゃがんで目線を合わせて話しかけているユツギの姿がある。
「こら、そこ! うちの双葉から離れなさい!」
昨日の今日で、なに勝手に声をかけてんだ!
ダッシュで駆けつけ、あいだに割り込む。
でれっとしていたユツギが、とたんに「ちっ」と舌打ちをした。
八歳は幼すぎるって昨日いってたよね!?




