57.卑劣な女シーフ
モモコは、音のする方向へ目だけを向ける。もちろん、気づいていない振りをするためだ。
一瞬、口元をほころばせる。左手を湯の中に沈めて剣を出現させ、しっかりと握る。
そうして、まだ湯浴みの続きを楽しむかのように、右手で肩にお湯をかけながら、目と耳は音の正体を探る。
また枝の折れる音がする。今度は、温泉を湛える池の近くの太い幹に赤い布の一部が隠れるのが見えた。
間違いない。例の女シーフだ。
幹のゴツゴツで見えにくいが、わずかに顔を出して様子を窺っていると思われる。モモコが一人でいることを確認し終えたら、姿を現すはずだ。
例の瞬間移動のような速さで、お湯を蹴りながら襲ってくるか? はてまた、ニヤニヤと笑いながら池の縁まで近づいておびき寄せるか?
どちらにせよ、モモコはオーバードライブ状態にならないと勝ち目がない。いや、スキルの差を考えると、その状態でも互角かも知れない。
そのために奥の手を用意した。
だが、それを使わずに勝利を手に入れたい。
モモコは湯の中で、成長する剣をグッと握る。
失敗は許されない。セーブポイントに戻ればいいや、という安易な気持ちでは勝てないのだ。
楽勝な力を持つアルバンが、なぜモモコを助けないのか。それは、自分自身でレベルアップを勝ち取り、さらなる強い心を持つことをモモコに願っているからだ。
痛いほどわかる。本当に、それが痛いほどわかる。
今回は、自分の失敗で仲間が確実に死ぬシナリオの中にいる。二度も失敗した自分が情けない。心を激しくかきむしられる思いがする。
本当はここから逃げたいのだ。だが、今度こそ、絶対に逃げては駄目だ。
――絶対に!
モモコは、剣をさらにグッと握る。
腹が決まった。
ちょうど、雪の結晶のような形をした虹色の物が体から出てこなくなった。体力が全回復したのだ。
(さあ、いつでも来い!)
モモコは、相手が瞬間移動で攻撃してくる方に賭けた。
(水が怖いとか、水の抵抗を気にする以外は、絶対に瞬間移動で来る!)
と、その時、「ギャッ!」という叫び声が聞こえた。女が隠れている幹から離れたところだ。しかも、女の声ではない。
(まさか……)
その、まさかだった。
悲鳴が聞こえたところにある幹の陰から、スッと女が出てきた。いつの間に移動したのだろう。右手に、何か血だらけになってダランと垂れ下がったものを持っている。
「エスカ!」
「ほう。この猫は、エスカって言うんだ。こんなところに隠していて。不意打ちでも考えたのかい?」
奥の手を封じられたモモコは、呆然とする。思わず、剣を手放しそうになった。
「もう一刺しすれば、こいつは死ぬよ。さあ、どうする?」
「エスカを離せ!」
「首を切り落とすと、一応は離れるけど。もちろん、胴体だけね」
「やめろぉ!!」
「だったら、温泉から出て、こっちに来てごらん」
「先にエスカを離せ!」
「信用できないね。口だけ達者な詐欺師の勇者さん」
モモコの怒りは、頂点に達した。
首筋やこめかみの血管が膨れ上がり、血潮が音を立てて逆流する。全身が怒りで震えてきて、歯が折れるほどギリギリギリと食いしばる。
女はエスカの首に短剣を突きつけた。
「早く出ないと――」
グイッと刺す真似をする。
「首と胴体が泣き別れになるよ」
全身にマグマが対流しているかのように熱くなったモモコは、両手を後ろに回して剣を隠す。そして――、
ザッバアアアアアッ!
水面から勢いよく飛び跳ねるように、モモコは立ち上がった。




