第三章 ニート、ぼうけんする
ミーンミーン……。
セミがやかましく鳴いている。関子たちがすんでいる地域では、セミは珍しい。都会ではないが、田舎でもない、中途半端な町だ。
詩帆は、通りかかった猫に近づき、はしゃいでいた。関子の学力は中学生で時が止まっているが、詩帆は立派な高校生であるはずだ。
「あっ、猫、耳切られてるよ?」
詩帆に指さされた猫は、確かに片方の耳が欠けていた。
「これは、人の手で何かしらの手術をしたという印だよ。そこまでするなら飼ってやれとも思うけどな」
詩帆はへぇ、といって感心したようだった。この野良猫の耳の話は、時々この猫に餌やりにくるおばさんが言っていたことだ。近づいただけで「お腹壊しやすいから安易に餌与えないで」と怒鳴られたが。
「人慣れしてる……おぉ、ふわふわ」
詩帆はしゃがみ込んで、猫をなで始めた。猫をなでる女の子というのはなかなかいい画になる。
「まぁどうでもいいや!さ、はいろはいろ」
詩帆は猫に飽きたらしく、立ち上がって前方を指さした。そこには立派な堀の跡に囲まれた、立派な図書館があった。関子が小さい頃から通っていた、県立図書館だ。今はすっかり行かなくなってしまったが、幼少時代に行き慣れてしまって、新鮮さなどは全くない。
「よく、二人で一緒に行ったよね」
「懐かしいな……」
関子の頭の中に、次々と映像が流れ込んできた。
それは、詩帆と共有していた、いいような悪いような思い出。
高校に行かなかったのは、中学でのある事件が原因だった。
中学二年……。つまり、今から四年ほど前。
*
関子はクラスでは「読書家」という立ち位置を得て、自分の席で黙々と本を読んでいた。友達なんていらなかった。だから、一人でいることについて、何とも思っていなかった。
「ねぇ…何で無視するの?」
教室の前方で、そんな声がしたので顔を上げると、六人ほどの女子の集団が集まっていて、その中でただ一人だけ距離をおいて立っている女の子がいた。これが詩帆。
詩帆は地味な外見だが結構美人。誰からも好かれそうないい人なのだが、それをいいととらえない人もその近くにいたのだ。「妬み」という感情が強い女子が。
「うざいんだよね。みんなあんたのこと嫌いっていってるよ。こっち来んな!!」
声を荒らげ、先生が来ないのをいいことに詩帆を睨みつけた。
それから、詩帆は一人でいることが多くなった。でも、一人が好きなわけではないから、とてもつらそうな顔をしている。
だから。
「詩帆ちゃん」
放課後、関子は詩帆の手を取って、県立図書館に行ったのだ。詩帆は、関子の顔色を見ながら、はなすことを探しているように見えた。でも、関子は人と話すのが苦手だったから、何かを言われても話が全く弾まなかった。
「……はなすのは苦手だけど、詩帆ちゃんが嫌いだってわけじゃないから」
そういうと、詩帆は安心したように笑って頷いた。
詩帆は何を思ったのか、蛍光色のかわいらしい髪留めを外した。
図書館に到着し、関子は児童室に向かった。そして、大洗佐守の「海月の海」という本を詩帆に渡した。この大洗佐守というのは、日本で昔から親しまれている文豪の一人である。
「私が一番好きな本だよ」
そういうと、詩帆はうれしそうに本を開き、黙って読み始めた。無言を共有できるのは信頼されている証だと、何かの本で読んでいたから、関子は詩帆が初めての親友というものになるかも知れないと、わくわくしていた。
時は流れ、二人は毎日のように本の話をした。時には学校の図書室で、時には県立図書館で。おもしろかった本を持ち寄って、その場で読み、感想を語り合った。
二人にとって、それが幸せな時間だということは誰に言わなくてもお互いに分かっていた。
それを、よく思わない人が崩しに来るあの日まで。
「星野さん、最近暗くない?本ばっかり読んでるじゃん」
昼休み。関子がいつも通り黙々と本を読んでいると、黒板の前のあたりに集まっていた女子集団の一人が声を上げた。わざと詩帆に聞こえるように言った。
詩帆は明らかに、恐怖で固まってしまっている。前日の放課後に図書館で借りた本を机に置いている。五冊かりた本は二冊になっていた。関子と本について語り合うのが楽しみで、きっと三冊もあっと言う間に読み終えてしまったのだろう。
「唯一できた友達に嫌われたくないからじゃん?」
詩帆は、その言葉に反応して、立ち上がった。
「そうじゃない!関ちゃんと本の話するのが楽しいの!」
「あぁ、ナツメソウセキコね」
女子集団は、冷たく笑った。
「バカにしないで!」
詩帆は、関子と遊ぶようになってから、自分の好きなことを見つけられただけではない。自分の意見をはっきりと言うことができるようになった。
女子集団の中の一人が、こつこつと足音をたてて、詩帆の席の前に歩いてきた。
「うっざ」
そして、机ごしに詩帆を蹴った。
「…っ!」
詩帆は、痛かったからか悔しかったからか、しばらく黙って顔を歪ませていたが、泣いてしまった。関子はそれを黙ってみているはずがない。詩帆を蹴った人のすぐそばまで来ていた。
ここからは、関子の記憶は途切れ途切れにしかなかった。周りの生徒の悲鳴と、駆けつけた教師の怒鳴り声や、頭を血で真っ赤に染めた女子と、それと同じように真っ赤に染まった自分。血がべったりくっついて乾き、ひきつった顔。
自分への恐怖。
[自分の心の奥底に眠っていた悪が、わたくしの体の表面からにゅっと出て、いつか、あの人を傷つけてしまうかもしれません……]
海月の海。それはトラウマが原因で入水自殺を図り、記憶を失い自分のを海から生まれた神だと思いながら生活する女の子の物語だ。トラウマは、正体の分からない恐怖として心の奥底に眠り続ける……。
関子は、自分のただ一人の親友を傷つけたくなかった。失いたくなかった。自分の心の奥底に眠っていたたくさんの恐怖が、関子を暴力に走らせたのだ。
過去は、自分だけを傷つけるものではない。詩帆はあのとき、目をぎゅっと閉じていた。
関子がこんな性格であったことを、忘れたい、知りたくなかったというように。
「関子!」
「ん」
「どうしたの?黙っちゃって」
詩帆は、心配そうに関子の顔をのぞき込んだ。関子の顔は真っ青だった。
「寝てた」
「うそつけ」
……そうなるだろうな。関子は自分が嘘が下手すぎることを人生で初めて自覚した。
県立図書館は、関子と詩帆の一番の思い出の場所だと言える。
詩帆は、関子の手を引いて、県立図書館の児童書のコーナーに向かった。高校生はまだ児童なのだ。いつまでも少年少女でいたいから。
「なつかしいね~」
詩帆も、しばらく図書館に来ていないらしかった。新しく入った本をしばらく見て、推薦図書も入念にチェックした。あの日のように、関子と語り合うための本を探していた。昔の詩帆と、影が重なった。
「なにも、変わってないな」
詩帆のことだ。関子にとって、詩帆ほど本について熱く語れる友人はいない。というより、まず友達がいない。ネットを通じて話せる人間ならたくさんいるのだが、中身のないコンピュータと同じだ。
「関子!大洗佐守だよ~!!」
詩帆は、日本文学の棚を指さし、うれしさのあまり飛び跳ねていた。
「海月の海。覚えてるか?」
「もっちろんだよ!!」
グッドサインを掲げ、詩帆はビニールで加工された「海月の海」をとって関子に見せた。
「なんか……新しくなってるな」
「……古かったからね?かな?……あ」
「どしたの?」
「この本、昔はなかったよおお!感動」
「これ、いつぞやの会合で語り合ったものでは……」
こんな具合に、本好きの少女たちは本を手に取り見せ合い、図書館を存分に楽しんでいた。いつか孤独の中で二人が求めていた、親友という存在が、お互いの目の前にすでにあることを実感した。
「……やべ」
「ん?」
詩帆は図書館の掛け時計を見て、顔をしかめた。
「まだ行きたいとこいっぱいあるんだった」
「ほかの日にでもいけるだろう?」
「だめ」
意味深にほほえんだ。詩帆の考えることだから、どうせつまらないことを言うに違いない。
「関子が弟におもちゃを投げつけられて足を折るかもしれない」
「なるほど。弟いないけどな」
このように。
*
先ほど図書館の時計で確認したところ、時間は午後四時をすぎていた。詩帆は行きたいところがいっぱいあると言っていたが、全部行くことはできないだろう。
それを詩帆も考えているのか、なにやら真剣な顔をして(珍しい)、行き先を選んでいるようだ。猫をなでながら。
「んー、どこいくかまじで悩むね!本気と書いてマジと読む勢いで」
「高校生っていうのはみんなそんなくだらないことばっかりいってるのか?」
実際、詩帆の目の前にいる関子という名のニートのほうが学があるように見える。第三者から見れば。詩帆が誘わなければ今も絶好調にニート生活を謳歌していたことだろう。
「きーめた!こっち」
詩帆は行き先を言わず、ただ目的地を目指してその方向だけを見ているような気がした。気がしただけだが。
*
しばらく歩いていると、太陽が少しだけ沈んだように見えた。関子にとって、今日が「外にいた時間が長いランキング」の第一位になることだろう。太陽が動いたのを実感した日など今日が初めてだ。
詩帆は、歩きながら、高校なんて楽しくない、だとか、高校の給食が美味しくないだとか、関子の知り得ない情報をたくさん与えてくれた。もっとも、それを知ったところで関子が得するようなことはない。しかし、関子はわかっていた。暗い部屋で一人で見知らぬ人間と会話するのもいいが、たまには仲のいい友達とこうやって話すのもいいということを。
ヒグラシが鳴き始めた頃、詩帆は立ち止まった。一軒の家が建っていた。
「ん……誰んち?」
関子は、そう尋ねたが、詩帆は黙ってうつむいてしまった。なにもないのに人の家の前にいるのはおかしい。最近たてられたものだと思われるその家には、関子はまったく見覚えがなかった。表札は立派な英語の筆記体で書かれており、英語の授業をまともに受けていない関子には読めるものではなかった。
「いこっ。時間時間!!」
「……うん」
納得はいかなかったが、詩帆がせかすので次の目的地へと向かうことにした。といっても、どこに向かうのかは詩帆だけが知っているのだが。
「今日、全部回れないっていってたろ?今度また遊ぼう」
関子がそう言うと、詩帆は寂しそうにうなずいた。
「……そうだね。いつになるかわかんないけど」
今日が最後ってわけじゃないんだから。この言葉は、なぜか関子は首のとこで詰まってしまい、言うことができなかった。
次の目的地というのは、謎の家のすぐ近くにあった。そこでまた詩帆は立ち止まった。木々に囲まれた、古い神社だった。
ここが今日の、最後の目的地。
「……さっきの家はね、あたしの彼氏で、ルルカのお父さんの家。別れちゃったから行きづらかった」
詩帆は一人で、このことを悩み続けていたのだ。詩帆の彼氏というものは一体どんなやつなのか見ておきたかった。しかしそれは叶わない。
「ここは、あたしのおなかに子供ができちゃったかもって思ったときに、お祈りしにいったの。どうか、子供できていませんようにって。でも、そんな自分勝手なお願い、神様は聞いてくれるはずがなくて」
そうしてルルカちゃんは生まれてきてしまった。高校での同級生を始め、たくさんの人から受けた冷たい視線は、なぜか関子にも鮮明に想像できた。
「関子が高校いけなかったのも、あたしのせい。あたしは生きてちゃいけなかったんだ」
「そんなことない!私があのとき」
あのとき。
関子はなにをしただろうか。同級生の女子に。思い出すことを拒絶していた脳より先に、口が動いていた。
「あのとき、あいつを殺さなければ、だよ」
「ねぇ」
詩帆は、悔しそうに顔をゆがませて、とんでもないことを言った。
「ルルカの目が、あの子にそっくりなの」
「まさか。ないよ」
関子は首を振ったが、その動作がぎこちなくなってしまった。
関子を見ても、笑いもせず、泣きもしなかった目。関子も、心のどこかではそうかもしれないと思っていた。
「ごめんね、楽しい日にしようと思ったのに。変なこと言って」
詩帆は、目を伏せて悲しそうな顔をした。関子は詩帆の手を握ってすかさずこう言った。
「私は、自分の為だけに生きてきた。そんな情けないニートが、たった一人の親友を守るために人生を捨てた。笑えないけど、笑えるだろう?」
本当に笑えない。でも、これは関子の本心だった。詩帆のおかげで、家族以外の人と会話ができるようになったと考えればここはもう、運命だったと割り切って、詩帆に感謝していい。
「関子に会えてよかったって思うの。ありがとう」
「……すてた人生を、いつか必ず取り戻すよ」
詩帆は、関子の手を両手で握り返して、笑ってうなずいた。
「ニート卒業?」
「うっせぇ」
「えへへ」
そう言って舌を出す。認めよう。可愛いよ。
最高の笑顔だった。
「あっ」
詩帆は、腕時計を見て小さく声を上げた。
「どした」
「あたし、かえらなきゃ。いかなきゃ」
時計を持っていない関子は、空を見た。空には、真っ赤な夕日が燃えていた。心の底から、何かを動かすような不思議な力があふれ出す。しかし何を動かすものなのかは分からないので何もできず、ただ立っていた。一日がこれほど短いと感じたことはない。誰かと一緒にいると、時間がたつのも楽しいと感じられるものなんだな、と関子は思った。
「よし、帰るか。詩帆」
振り返って、足を一歩踏み出す。すると、足に何かが当たった。
「おや」
そこに、ぼろぼろの本が落ちていた。はて、さっきまではなかったような。こんな大きな忘れ物に気づかないわけがない。
拾い上げて見てみると、その本は大洗佐守の「海月の海」だった。背表紙には、図書館の本と同じシールが貼ってあり、裏表紙には「県立図書館」と書いてあった。土まみれで、かなり汚れている。
「でも、懐かしいな。一緒に、初めて読んだ本はこれだったろう?」
関子が顔を上げた。
そこには、詩帆の姿はなかった。
「そんな急用だったのか」
関子はため息をついて、帰路につこうとした。しかし、この本を詩帆に見せてやりたいと関子らしくない考えが脳を巡り、詩帆の家を経由して帰ることにした。