↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/5

第4話 会わせたい人間

職員室の蛍光灯は、夜になると少しだけ青白く見える。


「失礼します」


「おう、来たか」


青木は、書類の山の向こうで湯呑みを置いた。机の端には、使い込まれたラケットが一本、立てかけてある。


「座れ」


「はい」


遊汰がパイプ椅子に腰かけると、青木は一枚のメモ用紙を差し出した。名前と、電話番号。それから、ここから電車で一時間ほどの街の名前が書いてある。


「小野寺勝利。俺の実業団時代の先輩だ」


「先輩、ですか」


「今は、小さなテニスアカデミーでジュニアを見てる。ランキング上位の選手を何人も出してるわけじゃないが、体の使い方を教えさせたら、あの人の右に出る人間を俺は知らん」


遊汰は、メモを見つめた。


「どうして、俺にですか」


「今日の試合を見たからだ」


青木は、背もたれに体を預けた。


「六対一で負けた。普通なら、あの年頃は悔しさで顔が歪む。言い訳も出る。だが、お前は相手の手を握って『今日は君のほうが上だ』と言った」


「事実でしたから」


「その『事実』を、十六歳で言える奴はほとんどいない」


青木の声は静かだった。


「それとな。お前、蓮のバックの弱点を見ていただろう」


遊汰は、はっとして顔を上げた。


「第四ゲームだ。同じコースにスライスを散らして、打点をずらした。偶然じゃない。あれは、組み立てだ」


「……はい」


「どこで覚えた」


また、その質問だった。遊汰は少し考えてから、正直に答えられる部分だけを選んだ。


「毎日、ノートに書いていました。試合を見て、どこで相手の足が止まるか。どの球で嫌がるか」


「ほう」


「それを繰り返しているうちに、自分でも打てるようになりました」


嘘ではなかった。ただ、その『毎日』が十七年分だとは、言えない。


青木は、しばらく遊汰の目を見ていた。やがて、短く息を吐く。


「分かった。今日は、そういうことにしておく」


「すみません」


「謝るな。誰にでも、言いたくないことはある」


青木は、湯呑みを持ち上げた。


「ただ、一つだけ覚えておけ。うちの部は、県ベスト8が精一杯だ。団体戦で上を目指すなら、俺が悪いんだろう。だが、お前は、そこで止まる器じゃない」


「コーチ」


「だから、外の世界を見せたい。次の日曜、小野寺さんのところへ行ってこい。もう話は通してある」


遊汰は、メモを両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「礼は、行ってからでいい。それと」


青木が、わずかに表情を曇らせた。


「小野寺さんは、癖のある人だ。気をつけろ」


「癖、ですか」


「会えば分かる」


日曜日。


電車を乗り継いで降りた駅は、古い商店街の外れにあった。


アカデミーは、元は倉庫だったらしい建物の中にあった。入り口の看板は色あせ、中から、ボールを打つ乾いた音が聞こえてくる。


「失礼します」


扉を開けた瞬間、遊汰は思わず立ち止まった。


インドアのオムニコート。天井の高い空間に、水銀灯のような白い光が落ちている。砂入り人工芝の匂い。ボールが沈む、ふっという鈍い音。


(……同じだ)


三十三歳の夜に立っていた、あのコートと、よく似ていた。


胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「おい、そこの。入口で固まるな」


声がした。


コートの中央に、小柄な男が立っていた。身長は遊汰とほとんど変わらない。五十代半ばくらいか。白髪混じりの髪を後ろでまとめ、色あせたキャップをかぶっている。


「青木のとこの坊主か」


「はい。遊汰です。今日はよろしくお願いします」


「ふん」


小野寺は、遊汰の頭から足先までをじろじろと眺めた。


「身長は?」


「百六十五です」


「そうか。小さいな」


遊汰は、表情を変えなかった。何度も言われてきた言葉だ。


「だが」と、小野寺は続けた。


「小さいことは、弱点じゃない。ただの条件だ」


遊汰の目が、わずかに開く。


「大きい奴には大きい奴の戦い方があり、小さい奴には小さい奴の戦い方がある。それを知らずに、他人の真似をして負けるのが、一番もったいない」


「……はい」


「ほら、ラケットを持て。まずは、打ってみろ」


小野寺は、カゴを足元に引き寄せた。


「俺がどんな球を出しても、バックのスライスで返せ。それだけだ」


「はい!」


最初の数球は、ゆるいボールだった。遊汰は、いつもの形で返していく。


「ふむ」


小野寺が、ふっと球の質を変えた。


速く、深く、高い球が、バックハンドの肩口を襲う。


遊汰は、半歩下がった。スライスで返す。打点が少し後ろになり、ボールが浮いた。


「遅い」


次の球が、すぐ来た。今度は低く、足元へ。


遊汰は、反応が遅れた。膝を曲げきれず、ネットにかけた。


「止まったな」


小野寺が、静かに言った。


「今、お前の足は止まった。頭は動いていたが、足がついてこなかった」


遊汰の背中に、冷たいものが走った。


(コーチ時代に、生徒に何度も言ってきた言葉だ)


「お前、自分の頭の中で全部分かってる顔をしてるな。だが、身体が追いついてない。頭だけが先に走ってる」


「……はい」


「それが一番危ない」


小野寺は、ボールを一つ、ゆっくり弾ませた。


「頭のいい奴ほど、身体を置き去りにする。そして試合の大事な場面で、考えすぎて止まる」


遊汰は、拳を握った。


(図星だ。前世の自分が、そうだった)


「どうすればいいですか」


「簡単だ。身体に覚えさせろ。考える前に、足が出るまで」


小野寺は、にやりと笑った。


「俺のところで、三ヶ月だけ鍛えてやる。毎週日曜。その代わり、条件が一つある」


「条件」


「お前が今、頭の中に持ってるもの。全部、俺にも見せろ」


遊汰の心臓が、どくんと鳴った。


「……どういう意味ですか」


「青木から聞いた。お前、十六歳にしては『綺麗すぎる』形で打つそうだな」


小野寺の目が、スッと細くなった。


「それは、誰かに教わった形じゃない。誰かに教えてきた形だ」


遊汰は、息をのんだ。


「お前、何者だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。