第4話 会わせたい人間
職員室の蛍光灯は、夜になると少しだけ青白く見える。
「失礼します」
「おう、来たか」
青木は、書類の山の向こうで湯呑みを置いた。机の端には、使い込まれたラケットが一本、立てかけてある。
「座れ」
「はい」
遊汰がパイプ椅子に腰かけると、青木は一枚のメモ用紙を差し出した。名前と、電話番号。それから、ここから電車で一時間ほどの街の名前が書いてある。
「小野寺勝利。俺の実業団時代の先輩だ」
「先輩、ですか」
「今は、小さなテニスアカデミーでジュニアを見てる。ランキング上位の選手を何人も出してるわけじゃないが、体の使い方を教えさせたら、あの人の右に出る人間を俺は知らん」
遊汰は、メモを見つめた。
「どうして、俺にですか」
「今日の試合を見たからだ」
青木は、背もたれに体を預けた。
「六対一で負けた。普通なら、あの年頃は悔しさで顔が歪む。言い訳も出る。だが、お前は相手の手を握って『今日は君のほうが上だ』と言った」
「事実でしたから」
「その『事実』を、十六歳で言える奴はほとんどいない」
青木の声は静かだった。
「それとな。お前、蓮のバックの弱点を見ていただろう」
遊汰は、はっとして顔を上げた。
「第四ゲームだ。同じコースにスライスを散らして、打点をずらした。偶然じゃない。あれは、組み立てだ」
「……はい」
「どこで覚えた」
また、その質問だった。遊汰は少し考えてから、正直に答えられる部分だけを選んだ。
「毎日、ノートに書いていました。試合を見て、どこで相手の足が止まるか。どの球で嫌がるか」
「ほう」
「それを繰り返しているうちに、自分でも打てるようになりました」
嘘ではなかった。ただ、その『毎日』が十七年分だとは、言えない。
青木は、しばらく遊汰の目を見ていた。やがて、短く息を吐く。
「分かった。今日は、そういうことにしておく」
「すみません」
「謝るな。誰にでも、言いたくないことはある」
青木は、湯呑みを持ち上げた。
「ただ、一つだけ覚えておけ。うちの部は、県ベスト8が精一杯だ。団体戦で上を目指すなら、俺が悪いんだろう。だが、お前は、そこで止まる器じゃない」
「コーチ」
「だから、外の世界を見せたい。次の日曜、小野寺さんのところへ行ってこい。もう話は通してある」
遊汰は、メモを両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は、行ってからでいい。それと」
青木が、わずかに表情を曇らせた。
「小野寺さんは、癖のある人だ。気をつけろ」
「癖、ですか」
「会えば分かる」
日曜日。
電車を乗り継いで降りた駅は、古い商店街の外れにあった。
アカデミーは、元は倉庫だったらしい建物の中にあった。入り口の看板は色あせ、中から、ボールを打つ乾いた音が聞こえてくる。
「失礼します」
扉を開けた瞬間、遊汰は思わず立ち止まった。
インドアのオムニコート。天井の高い空間に、水銀灯のような白い光が落ちている。砂入り人工芝の匂い。ボールが沈む、ふっという鈍い音。
(……同じだ)
三十三歳の夜に立っていた、あのコートと、よく似ていた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「おい、そこの。入口で固まるな」
声がした。
コートの中央に、小柄な男が立っていた。身長は遊汰とほとんど変わらない。五十代半ばくらいか。白髪混じりの髪を後ろでまとめ、色あせたキャップをかぶっている。
「青木のとこの坊主か」
「はい。遊汰です。今日はよろしくお願いします」
「ふん」
小野寺は、遊汰の頭から足先までをじろじろと眺めた。
「身長は?」
「百六十五です」
「そうか。小さいな」
遊汰は、表情を変えなかった。何度も言われてきた言葉だ。
「だが」と、小野寺は続けた。
「小さいことは、弱点じゃない。ただの条件だ」
遊汰の目が、わずかに開く。
「大きい奴には大きい奴の戦い方があり、小さい奴には小さい奴の戦い方がある。それを知らずに、他人の真似をして負けるのが、一番もったいない」
「……はい」
「ほら、ラケットを持て。まずは、打ってみろ」
小野寺は、カゴを足元に引き寄せた。
「俺がどんな球を出しても、バックのスライスで返せ。それだけだ」
「はい!」
最初の数球は、ゆるいボールだった。遊汰は、いつもの形で返していく。
「ふむ」
小野寺が、ふっと球の質を変えた。
速く、深く、高い球が、バックハンドの肩口を襲う。
遊汰は、半歩下がった。スライスで返す。打点が少し後ろになり、ボールが浮いた。
「遅い」
次の球が、すぐ来た。今度は低く、足元へ。
遊汰は、反応が遅れた。膝を曲げきれず、ネットにかけた。
「止まったな」
小野寺が、静かに言った。
「今、お前の足は止まった。頭は動いていたが、足がついてこなかった」
遊汰の背中に、冷たいものが走った。
(コーチ時代に、生徒に何度も言ってきた言葉だ)
「お前、自分の頭の中で全部分かってる顔をしてるな。だが、身体が追いついてない。頭だけが先に走ってる」
「……はい」
「それが一番危ない」
小野寺は、ボールを一つ、ゆっくり弾ませた。
「頭のいい奴ほど、身体を置き去りにする。そして試合の大事な場面で、考えすぎて止まる」
遊汰は、拳を握った。
(図星だ。前世の自分が、そうだった)
「どうすればいいですか」
「簡単だ。身体に覚えさせろ。考える前に、足が出るまで」
小野寺は、にやりと笑った。
「俺のところで、三ヶ月だけ鍛えてやる。毎週日曜。その代わり、条件が一つある」
「条件」
「お前が今、頭の中に持ってるもの。全部、俺にも見せろ」
遊汰の心臓が、どくんと鳴った。
「……どういう意味ですか」
「青木から聞いた。お前、十六歳にしては『綺麗すぎる』形で打つそうだな」
小野寺の目が、スッと細くなった。
「それは、誰かに教わった形じゃない。誰かに教えてきた形だ」
遊汰は、息をのんだ。
「お前、何者だ」




